違う午後
昼。
空は、
少しだけ白かった。
曇っているわけではない。
雲は薄い。
光もある。
それなのに、
村の輪郭だけが白く霞んで見える。
ユウトは広場の端に立っていた。
手には水桶。
井戸から宿へ運ぶ途中だった。
いつもの道。
いつもの重さ。
いつもの午後。
でも、
桶の水面だけが落ち着かない。
歩いていないのに、
揺れている。
風はない。
誰かがぶつかったわけでもない。
ただ、
水だけが小さく揺れている。
ユウトは桶を地面に置いた。
水面を覗く。
自分の顔が映る。
少し疲れている。
目の下が薄い。
それだけ。
そう思った瞬間、
水面の中で、
違う景色が揺れた。
広場。
でも、
今の広場ではない。
屋根が歪んでいる。
道に亀裂がある。
井戸の縁が欠けている。
人影がいくつか、
遠くで動いている。
声は聞こえない。
ただ、
急いでいることだけが分かる。
ユウトは息を止めた。
水面が揺れる。
景色が消える。
そこには、
自分の顔だけが戻っていた。
「……何だよ」
小さく呟く。
声は、
すぐに広場の音に紛れた。
鶏の声。
誰かの笑い声。
足音。
何も変わっていない。
変わっていないように見える。
ユウトは桶を持ち上げる。
水は少しこぼれていた。
手の甲が濡れている。
冷たい。
その冷たさだけが、
今のものだった。
宿へ向かう。
アーシャは入口で布を干していた。
白い布。
昨日より、
少しだけ少ない。
「おかえり」
「ただいま」
「水、ありがとう」
アーシャが桶を受け取る。
手が触れそうになる。
触れない。
最近、
触れない距離が増えている。
近いのに、
触れない。
「顔色、悪い?」
アーシャが聞く。
「悪いですか」
「うん」
正直だった。
ユウトは少しだけ笑う。
笑えたかどうかは、
分からない。
「水面に」
言いかけて、
止まる。
アーシャの手が止まった。
止まったことに、
ユウトは気づく。
気づいたから、
続けられなくなった。
「……何でもないです」
アーシャは桶を抱えたまま、
少しだけ黙る。
「何でもない、が増えたね」
小さな声。
責めていない。
でも、
痛い。
ユウトは答えられなかった。
アーシャはすぐに笑う。
「ごはん、あとでね」
話は終わる。
終わった。
でも、
終わったところに、
何かが残った。
畑へ向かう。
ガイルは畝の端にしゃがんでいた。
昨日平らになっていた場所を、
また見ている。
土は硬い。
硬いまま。
そこだけが、
周りと違う。
「水面が、変でした」
ユウトは言った。
言ってしまってから、
少しだけ胸が鳴る。
ガイルは振り向かない。
「水は映す」
「何をですか」
「近いものだ」
短い。
「俺、近くにいないものを見た気がします」
ガイルの手が止まる。
土を掴んだ指が、
少しだけ深く沈む。
「見たものを、追うな」
「でも」
「追う動きは死ぬ」
いつもの言葉。
けれど、
今日はいつもより少し低い。
ユウトは畑の端に立つ。
「見ない方がいいんですか」
ガイルはすぐに答えない。
土を見る。
手の中で崩す。
崩れた土は、
すぐ落ちない。
少しだけ指に残る。
「見たら、戻れなくなるものがある」
「戻れないのは、駄目ですか」
言ったあと、
自分でも驚いた。
ガイルが顔を上げる。
目が合う。
一瞬だけ。
すぐに逸れる。
「戻れないことが問題じゃない」
ガイルは言う。
「戻ると思って踏み出すのが、危ない」
ユウトは黙った。
その言葉は、
昨日の飛び石の感覚に似ていた。
渡って、
戻らなかった。
戻るつもりで進んだわけではない。
ただ、
足が出た。
それだけだった。
鍛冶場。
ドラムは今日は中にいた。
戸は半分開いている。
熱は弱い。
火はある。
でも、
何かを作っている音はしない。
「入っていいですか」
ユウトが聞く。
少しの沈黙。
「入口まで」
許可だった。
珍しい。
ユウトは一歩だけ中に入る。
鍛冶場の匂い。
鉄。
灰。
木。
少しだけ焦げた布の匂い。
その匂いを吸った瞬間、
胸の奥に別の景色が浮いた。
赤い光。
倒れた何か。
誰かの腕。
自分の手。
血ではない。
でも、
赤い。
ユウトは足を止める。
「どうした」
ドラムの声。
「……分かりません」
正直に答えた。
「何か、見えた気がしました」
ドラムは火を見たまま、
動かない。
「火は残す」
「え?」
「残したくないものも、残す」
短い声。
「消しても、熱は残る」
ユウトは炉を見る。
炎は小さい。
でも、
近づくと熱い。
見えない熱が、
肌に届く。
「見えないのに、ありますね」
「ある」
ドラムは言う。
「ないことには、できない」
それだけ。
その言葉が、
水面の景色と重なった。
広場。
午後の光は、
やはり少し白い。
村人たちは動いている。
話している。
笑っている。
でも、
動きの端が時々ずれる。
笑い声が遅れる。
足音が重なる前に離れる。
ユウトは広場の中央に近い場所へ歩く。
まだ中央ではない。
でも、
昨日より近い。
空気は整わない。
整わないことに、
少し慣れ始めている。
そこへ、
ルーンが来た。
「今日は、よく外にいるね」
「中にいる方が、変な感じがして」
「そうか」
ルーンは微笑む。
その微笑みの奥が、
少しだけ疲れている。
「水面に、違う村が見えました」
言った。
ルーンの表情は変わらない。
変わらなすぎた。
「そう」
「驚かないんですね」
「驚いているよ」
穏やかな声。
「驚いているように見えません」
「見せるのが、下手になった」
その返しは、
少しだけ本音に近かった。
ユウトはルーンを見る。
「見たものは、何ですか」
「見えたものだ」
答えになっていない。
でも、
嘘でもない。
「前のものですか」
口に出した瞬間、
広場の音が一瞬だけ遠くなった気がした。
ルーンは、
すぐには答えない。
「前、という言葉は難しい」
「難しい?」
「今も、前になるからね」
ユウトは黙る。
意味は分からない。
でも、
胸の奥に残る。
ルーンは空を見る。
白い光。
薄い雲。
何もないように見える空。
「追いかけなくていい」
ガイルと似た言葉。
でも、
少し違う。
「じゃあ、忘れた方がいいですか」
「忘れようとしなくていい」
ルーンは言う。
「置いておけばいい」
置く。
最近、
その言葉ばかりが増えている気がする。
忘れるでもなく。
追うでもなく。
触れるでもなく。
ただ、
置く。
夕方。
宿の裏で、
ユウトは桶を洗っていた。
水を入れる。
捨てる。
また入れる。
水面を見る。
今度は、
何も映らない。
自分の顔だけ。
少し疲れた顔。
それだけ。
それだけなのに、
安心しすぎるのが嫌だった。
水を捨てる。
桶の底に、
小さな傷があった。
昨日はなかった気がする。
いや、
あったのかもしれない。
分からない。
ユウトは指でなぞる。
浅い傷。
古い傷。
新しい傷。
どちらにも見える。
アーシャが裏口から顔を出す。
「寒くない?」
「大丈夫です」
「本当に?」
「少し寒いです」
正直に言った。
アーシャは少し驚いた顔をする。
それから、
笑った。
「じゃあ、上着持ってくる」
「お願いします」
頼めた。
それだけのことなのに、
胸の奥が少しだけ温かくなる。
アーシャは中へ戻る。
足音が遠ざかる。
ユウトは桶を見る。
水面はもうない。
空っぽの桶。
軽い。
でも、
手にはまだ少しだけ重さが残っている。
夜。
部屋。
窓の外は暗い。
声は遠い。
でも、
今日は少しだけ違う。
声ではなく、
景色の名残がある。
白い午後。
違う広場。
欠けた井戸。
急いでいる人影。
どれも、
はっきりしない。
はっきりしないから、
追わなくていい。
そう思う。
思うだけで、
まだ完全には置けない。
耳の奥で、
短い声が重なる。
「……前も」
「……戻」
「……違う」
「……壊れた」
ユウトは目を閉じる。
水面に見えたもの。
火の奥に残ったもの。
土が戻りきらないこと。
皿の欠け。
全部が、
同じ場所にはない。
でも、
同じ一日の中にある。
それを、
ひとつずつ胸の中に置く。
忘れない。
追わない。
置く。
それができたのかどうかは、
分からない。
ただ、
その夜は少しだけ、
眠るまでの時間が長かった。
それでも、
眠れた。




