同じ場所に立てない
朝。
村は、
少しだけ静かだった。
鳥は鳴いている。
井戸の音もする。
鍬の音も、
遠くで聞こえる。
それなのに、
音と音の間が広い。
何かが欠けたわけではない。
ただ、
それぞれが少しずつ離れている。
ユウトは宿の前に立っていた。
手には小さな籠。
アーシャに持たされたものだった。
中には、
包帯と水筒と干した果物。
畑へ行くだけにしては、
少し多い。
少し多いことを、
もう言わなかった。
言えば、
アーシャが困る。
困った顔を見るのが、
少しだけ怖かった。
「忘れ物ない?」
背後から声。
アーシャだった。
「大丈夫です」
「本当に?」
「本当に」
昨日と同じようなやり取り。
でも、
今日はアーシャが一歩近づいてこなかった。
近づきかけて、
止まった。
それが分かった。
ユウトも、
何も言わなかった。
言えば、
その一歩を見ていたことになる。
アーシャは笑う。
「じゃあ、気をつけて」
「はい」
「無理しないで」
「はい」
「……帰ってきてね」
最後だけ、
少し違った。
ユウトは顔を上げる。
アーシャはもう笑っていた。
「何でもない」
早い。
早すぎる。
ユウトは頷く。
「行ってきます」
言うと、
アーシャの肩がほんの少し下りた。
畑へ向かう道。
朝の空気は冷たい。
足元の石は、
昨日より少しだけ硬い気がした。
硬い方が歩きやすい。
歩きやすいのに、
胸の奥は軽くならない。
畑では、
ガイルが入口の少し奥に立っていた。
鍬は持っている。
でも、
振っていない。
土を見ている。
「おはようございます」
「遅い」
「いつも通りです」
「そうだな」
同じ返し。
でも、
今日は少しだけ疲れて聞こえた。
ユウトは籠を置く。
ガイルがそれを見る。
「多い」
「アーシャさんが」
「そうか」
それだけ。
ガイルは籠から目を逸らす。
責めない。
笑わない。
ただ、
見ない。
その見ないことが、
逆に重かった。
「今日は何をしますか」
「立つ」
「またですか」
「今日は、立つ場所を変える」
ガイルは畑の端を指した。
昨日、
沈みかけた場所の近く。
近く。
でも、
真上ではない。
「そこですか」
「そこだ」
ユウトはゆっくり歩く。
土を踏む。
柔らかい。
でも、
昨日ほど沈まない。
足裏が迷う。
どこまで体重を預けていいのか分からない。
「膝」
ガイルが言う。
「抜け」
ユウトは膝の力を抜く。
身体が少し下がる。
土に近づく。
怖い。
でも、
倒れない。
「重心」
ガイルの声。
「下げすぎるな」
「上げても駄目で、下げすぎても駄目なんですね」
言ってから、
少しだけ笑いそうになった。
ガイルは笑わない。
「極端は死ぬ」
いつもの言い方。
でも、
その言葉の後に沈黙があった。
極端。
近すぎること。
離れすぎること。
壊すこと。
守ること。
全部が、
その中に入っている気がした。
ユウトは足元を見る。
土はまだ揺れていない。
「……ここでいいですか」
「まだだ」
「まだ?」
「もう半歩」
ユウトは半歩進む。
その瞬間、
足裏が少し沈んだ。
胸が跳ねる。
ガイルがすぐに言う。
「止まれ」
止まる。
「戻るな」
戻ろうとしていた足が、
途中で止まる。
「そのまま」
そのまま。
沈む場所で、
立つ。
ユウトは息を腹に落とす。
足裏が土を掴む。
土は柔らかい。
でも、
支えている。
沈む場所にも、
立てる。
少しだけ、
そう思えた。
ガイルが言う。
「逃げるな」
低い声。
ユウトは顔を上げる。
ガイルは土を見ていた。
「逃げるな、ですか」
「……違う」
ガイルは少しだけ眉を寄せる。
「逃げる時は、逃げろ」
言葉を選んでいる。
珍しく。
「ただ、戻るだけの動きは死ぬ」
ユウトは黙った。
昨日までの自分を、
言われている気がした。
戻れば整う。
戻れば眠れる。
それが嫌だったことを、
思い出す。
畑を出るころ、
足裏には土の重さが残っていた。
宿へ戻る途中、
鍛冶場の前を通る。
ドラムが外に出ていた。
木箱が三つ。
紐が二本。
杭が数本。
どれも、
きっちり固定されていない。
少し揺れる。
「今日は、緩いですね」
ユウトが言う。
ドラムは手を止める。
「緩い方がいい時もある」
「壊れませんか」
「壊れる」
即答。
「でも、戻せる」
ドラムは木箱を持ち上げる。
中で何かが少し鳴る。
固定しきれていない音。
「前は、動かないようにしてた」
短い声。
「動かないものは、折れる」
ユウトは木箱を見る。
「じゃあ、動いた方がいいんですか」
「動きすぎても、壊れる」
「難しいですね」
「難しい」
ドラムが珍しく認めた。
それだけで、
少しだけ空気が変わった。
「……昨日」
ユウトは言う。
「アーシャさんが、怖いって」
ドラムは頷く。
「怖いだろうな」
「ドラムさんも?」
ドラムは答えない。
木箱の紐を一度ほどく。
結び直す。
今度は、
さらに少しだけ緩い。
「怖いから、手が固くなる」
ぽつりと言う。
「固くなると、壊す」
ユウトは自分の手を見る。
何かを握っていた感覚は、
今日は薄い。
でも、
完全には消えていない。
「手って、難しいですね」
「手だけじゃない」
ドラムは木箱を置く。
「距離もだ」
昼。
宿へ戻ると、
アーシャが食堂で待っていた。
待っていたと言わないために、
皿を拭いている。
でも、
拭いている皿はもう乾いていた。
「おかえり」
「ただいま」
「怪我は」
言いかけて、
アーシャは口を閉じる。
ユウトは手を開く。
「してません」
自分から見せる。
アーシャはその手を見る。
今日は、
触れなかった。
「……うん」
それだけ。
昼食は、
少しだけ量が戻っていた。
多すぎない。
少なすぎない。
ユウトはそれに気づく。
気づいたことを、
言うか迷う。
「……今日、ちょうどいいです」
言った。
アーシャの手が止まる。
ほんの一瞬。
それから笑う。
「そっか」
笑った声が、
少しだけ柔らかかった。
「ちょうどいいの、難しいね」
「はい」
「近すぎても、遠すぎても」
そこまで言って、
アーシャは黙った。
続きを言わない。
ユウトも聞かない。
でも、
言いかけたものは、
食堂の真ん中に残った。
午後。
広場へ出る。
村人の動きは、
相変わらず少しずれている。
でも、
昨日よりは乱れていない。
揃っているわけでもない。
ただ、
それぞれが少しずつ違う速度で動いている。
見ていると、
少し落ち着く。
以前なら、
揃う方が落ち着いた。
今は、
揃いすぎる方が怖い。
広場の中央には、
誰も立っていない。
空いた場所。
誰も立たない場所。
ユウトは、
その近くまで歩く。
足が止まる。
いつもの場所へ戻りかける。
戻らない。
その場に立つ。
中央ではない。
端でもない。
少し中途半端な場所。
空気は整わない。
整わないまま、
胸が少しざわつく。
ざわついたまま、
立っていられる。
ルーンが村長宅から出てくる。
足取りはいつも通り。
でも、
少しだけ遅い。
「今日は、そこにいるんだね」
ルーンが言う。
「はい」
「落ち着くかい」
ユウトは少し考える。
「落ち着きません」
正直に答えた。
ルーンは微笑む。
「そうか」
「でも、戻らなくても立てます」
言ったあとで、
自分でも少し驚いた。
ルーンの目が、
ほんの少し細くなる。
「それは、いいことだ」
「いいことですか」
「分からない」
すぐに訂正した。
「でも、悪いことだけではない」
その言い方は、
今までより少しだけ正直だった。
ユウトは頷く。
分からないことが、
少しずつ増えている。
でも、
分からないことを、
すぐにしまわなくてもいい気がした。
夕方。
空は薄く曇っていた。
赤くもない。
暗くもない。
どちらでもない色。
ユウトは川辺に座る。
水が流れている。
石に当たって、
音が少しずつ変わる。
同じ水なのに、
場所によって音が違う。
それが普通なのかもしれない。
そう思った。
足元の土。
手の中の感覚。
近すぎる手。
揺れる木箱。
畑の沈む場所。
全部が、
一日の中に残っている。
どれも解決していない。
でも、
消えてもいない。
消えないものを抱えたまま、
夕方になる。
それだけだった。
夜。
宿へ戻ると、
アーシャは廊下にいた。
ユウトの部屋の前ではない。
少し離れた場所。
窓を閉めているふりをしていた。
ふりだと分かった。
でも、
言わない。
「寒くなるからね」
アーシャが言う。
「はい」
「今日は、ちゃんと寝て」
「たぶん」
「たぶん?」
「眠れたら」
アーシャは少しだけ目を丸くする。
それから、
笑った。
「そっか」
怒らない。
急かさない。
「眠れなくても、横になってればいいよ」
「はい」
その距離が、
今日は少しだけ楽だった。
部屋。
窓の外は暗い。
声は遠い。
「……前も」
「……違う」
「……壊れた」
「……まだ」
短く、
途切れる。
ユウトは布団に入る。
すぐには目を閉じない。
戻れば眠れる。
でも、
戻るだけではなくなっている。
今日、
沈む土の上に少しだけ立った。
空気が整わない場所に少しだけ立った。
近すぎる手が、
少しだけ離れた。
それだけ。
本当に、
それだけだった。
胸の奥はまだ浅い。
怖さもある。
分からないこともある。
でも、
全部を元に戻したいとは、
今日は思わなかった。
そう思えたことだけが、
夜の中に残った。
少し遅れて、
眠れた。




