重心が揺れる日
朝。
畑の土は、
少しだけ重かった。
雨は降っていない。
湿りすぎてもいない。
踏めば沈む。
でも、
戻りが遅い。
ユウトは畑の入口で、
足裏の感触を確かめていた。
昨日より、
土が少しだけ遅れている。
そう感じた。
感じただけなら、
まだ気のせいにできる。
でも、
気のせいにするには、
足裏が覚えすぎている。
「立つな」
ガイルの声がした。
畑の奥ではない。
入口の少し先。
昨日より、
さらに奥にいた。
「え?」
「そこは沈む」
言われて、
ユウトは足元を見る。
何もない。
ただの土。
けれど、
足を少し引くと、
さっきまで立っていた場所が、
ほんのわずかに沈んでいるのが分かった。
穴ではない。
崩れでもない。
ただ、
そこだけが遅れて沈んでいる。
「……気づきませんでした」
「気づく前に死ぬ」
いつもの言い方。
でも、
今日は少しだけ声が硬い。
ユウトは一歩下がる。
足裏が安定する。
安定した瞬間、
少しだけ息が楽になる。
楽になったことを、
今日は責めなかった。
畑の奥では、
ガイルが鍬を振っている。
動きは正確だった。
正確すぎる。
肩の角度。
腰の落とし方。
足の置き方。
全部が決まっている。
決まりすぎていて、
そこに余白がない。
「今日は、水ですか」
ユウトが聞く。
「いや」
ガイルは鍬を止めない。
「見る」
「見る?」
「土を」
それだけ。
ユウトは畑の端に立ち、
ガイルの動きを見た。
鍬が入る。
土が返る。
また入る。
また返る。
同じ動き。
同じ呼吸。
同じ重さ。
けれど、
三回目だけ、
ほんの少し遅れた。
ユウトは気づく。
気づいてしまう。
ガイルの足元が、
一瞬だけ揺れた。
すぐ戻る。
戻った。
でも、
戻すのが速すぎた。
「……今」
声が出た。
ガイルは鍬を止める。
「何だ」
「足、揺れました」
沈黙。
風が畝を撫でる。
ガイルは少しだけ土を見る。
「無駄が多い」
「俺のことですか」
「俺だ」
短い。
ユウトは何も言えなかった。
ガイルが自分に向けて言う「無駄」は、
いつもより重い。
畑の音が止まる。
鳥の声が遠い。
ガイルは鍬を地面に立て、
柄に片手を置いた。
「重心が崩れると」
そこで言葉が止まる。
続きは出ない。
ユウトは待った。
待つことしかできなかった。
ガイルは視線を上げずに言う。
「余計なものを、巻き込む」
それだけだった。
誰を。
何を。
いつ。
聞けなかった。
聞いたら、
今の畑が別の場所になる気がした。
ユウトは足元を見る。
土は静かだ。
静かな土ほど、
何かを隠している気がした。
昼前。
宿に戻ると、
アーシャが入口で洗濯物を畳んでいた。
白い布。
乾いた布。
それなのに、
畳む手つきが少しだけ急いでいる。
「おかえり」
「ただいま」
「畑、どうだった?」
何気ない質問。
でも、
少しだけ早い。
「土が、少し変でした」
アーシャの手が止まる。
布の端が、
指の間で少し歪む。
「……そっか」
それだけ。
「ガイルさんも、少し変でした」
言ってから、
言わなければよかったと思った。
アーシャは笑う。
笑うまでに、
ほんの少しだけ時間がかかった。
「ガイルはいつも変だよ」
軽い冗談。
でも、
軽くならない。
ユウトは頷けなかった。
アーシャも、
それ以上は言わなかった。
食事は簡単だった。
少ない。
でも、
足りる。
足りることに、
もう驚かない。
味噌汁を飲む。
湯気が顔に触れる。
その温かさの奥に、
一瞬だけ焦げた匂いが混ざった気がした。
焦げ。
火。
鉄。
ユウトは顔を上げる。
「……何か、焦げてます?」
アーシャが鍋を見る。
「焦げてないよ」
即答。
早い。
ユウトはそれ以上聞かない。
鍋の底は見えない。
見えないものは、
見えないままでいい。
そう思ったあとで、
少しだけ嫌になる。
午後。
鍛冶場へ向かう。
入口の板はそのまま。
ドラムは外にいた。
珍しかった。
鍛冶場の前で、
木の箱を直している。
釘ではなく、
紐で留めていた。
「釘、使わないんですか」
ユウトが聞く。
「外せる方がいい」
短い答え。
「壊れやすくなりませんか」
「直せる」
ドラムは紐を引く。
強く。
強すぎて、
木がきしむ。
その瞬間、
ドラムの手が止まった。
ほんの一瞬。
「……壊れました?」
「壊してない」
即答。
でも、
声が少しだけ低い。
ユウトは箱を見る。
壊れていない。
ただ、
紐の跡が木に食い込んでいる。
守るために締めたものが、
木を傷つけている。
それだけだった。
それだけなのに、
胸に残る。
「……力って、難しいですね」
言ってから、
少し後悔した。
ドラムは答えない。
長い沈黙。
そのあとで、
ぽつりと言う。
「難しくない」
「え?」
「怖いだけだ」
ユウトは顔を上げる。
ドラムは箱を見たまま、
こちらを見ない。
「怖いから、余計に強くなる」
それだけ言って、
紐を少し緩めた。
木が、
小さく息をしたように見えた。
広場。
村人たちは、
昨日よりも少しだけ話していた。
でも、
話の途中で止まることが増えている。
笑う。
止まる。
視線を逸らす。
また笑う。
流れは続く。
でも、
ところどころに小さな穴がある。
ユウトは広場の端に立つ。
いつもの場所ではない。
少しだけ違う場所。
空気は整わない。
整わないままでも、
立っていられる。
それが少しだけ分かってきた。
ルーンは村長宅の前にいた。
誰かと話している。
村人が頭を下げる。
ルーンは穏やかに頷く。
いつも通り。
けれど、
村人が去ったあと、
ルーンの指が一度だけ震えた。
本当に一度だけ。
ユウトは見てしまう。
ルーンも、
見られたことに気づいた。
微笑む。
「今日は、風が少ないね」
「穏やか、とは言わないんですか」
ユウトが聞く。
ルーンは少しだけ黙る。
「穏やかに見えるね」
見える。
昨日までとは違う言い方。
ユウトはその違いを胸の中に置く。
置いたまま、
それ以上は聞かなかった。
夕方。
もう一度、
畑へ向かった。
ガイルはまだいた。
鍬は置かれている。
代わりに、
畝の端で土を指で崩していた。
一つまみ。
崩す。
戻す。
また崩す。
同じ動き。
でも、
今日は戦っているようには見えなかった。
何かを確かめている。
あるいは、
許してもらおうとしている。
そんな風に見えた。
「まだやってたんですか」
ユウトが声をかける。
ガイルは振り向かない。
「土は逃げない」
「でも、沈みます」
ガイルの手が止まる。
少しの沈黙。
「そうだな」
認めた。
珍しく、
否定しなかった。
ユウトは畑に入る。
今朝止められた場所を避ける。
避け方は分かる。
でも、
避けるだけではなく、
少しだけ近づく。
ガイルは何も言わない。
ユウトはしゃがみ、
土を触る。
冷たい。
重い。
柔らかい。
その全部が、
同時にある。
「……直せますか」
「分からん」
正直な答え。
「分からないこと、多いですね」
言ってから、
少しだけ笑いそうになる。
笑えなかった。
ガイルも笑わない。
「多い」
それだけ。
二人でしばらく土を見た。
何も起きない。
何も直らない。
でも、
見ていることだけはできた。
夜。
部屋。
手のひらの重さは、
昨日より薄い。
代わりに、
足裏に土の重さが残っている。
ユウトは布団に入る前に、
足の裏を見る。
何もついていない。
土は払った。
それでも、
重さだけが残っている。
耳の奥で声がする。
遠い。
「……前も」
「……違う」
「……壊れた」
壊れた。
その言葉だけが、
少し長く残った。
ユウトは目を閉じない。
しばらく、
足裏の重さを感じていた。
戻れば眠れる。
それは分かっている。
でも今日は、
すぐには戻らなかった。
土は逃げない。
ガイルの言葉が、
夜の中で静かに残る。
逃げないものも、
沈むことがある。
そう思った。
言葉にはしなかった。
そのまま、
少し遅れて眠れた。




