戻れる朝
朝。
目が覚めたとき、
身体は軽かった。
眠れていた。
それが、
まず分かった。
分かってしまった。
昨夜、
扉の前まで行った。
取っ手に触れた。
外へ出られると思った。
でも、
出なかった。
戻った。
戻ったあと、
眠れた。
その順番だけが、
朝になっても残っていた。
布団の中で、
ユウトはしばらく天井を見ていた。
木目がある。
一本。
二本。
数えかけて、
やめる。
数えなくても、
天井はそこにある。
それでいい。
そう思ったあとで、
少しだけ嫌になる。
それでいいと思えることが、
最近、増えている。
起き上がる。
床に足を下ろす。
冷たい。
ちゃんと冷たい。
昨夜と同じ冷たさだった。
扉を見る。
閉まっている。
取っ手も、
いつもの場所にある。
何も変わっていない。
何も起きなかったみたいだった。
外へ出る。
廊下は静かだった。
床板が一度だけ鳴る。
昨日より、
音が近い気がする。
宿の下へ降りると、
アーシャが鍋の前に立っていた。
「おはよう」
いつもの声。
少しだけ早い。
「おはようございます」
自分の声は、
少し遅れた。
アーシャは振り返る。
笑っている。
目だけが、
ほんの少し疲れている。
「眠れた?」
聞かれた。
ユウトは頷きかけて、
止まる。
「……眠れました」
嘘ではない。
アーシャの指が、
鍋の縁で一度だけ止まった。
「そっか」
それだけ。
それ以上は聞かない。
聞かれないことに、
ほっとする。
ほっとしてから、
また少しだけ嫌になる。
食事は少なかった。
少ないまま、
ちょうどいい。
器を持つ。
湯気が上がる。
味は薄い。
薄いのに、
身体は受け入れる。
「今日は、無理しないでね」
アーシャが言う。
「昨日も言ってました」
「毎日言うよ」
笑う。
軽い声。
でも、
軽さの奥に何かが沈んでいる。
ユウトは箸を置く。
「……昨日」
言いかけた。
アーシャの手が止まる。
本当に、
一瞬だけ。
「夜、声が」
そこまで言って、
続かなかった。
言葉が喉の奥でほどける。
声がした。
外に何かがあった。
扉まで行った。
でも出なかった。
全部を言えば、
何かが始まる気がした。
アーシャは笑顔のまま、
少しだけ目を伏せる。
「夢だよ」
昨日と同じ。
早い。
早すぎる。
「……そうですか」
ユウトは頷く。
頷けてしまう。
それが、
少しだけ痛かった。
畑へ向かう。
朝の道は、
昨日より広く見えた。
木箱もある。
布もある。
籠もある。
でも、
通れる。
通れてしまう。
昨日より楽に。
身体が、
狭さに慣れている。
ガイルは畑の入口に立っていた。
畑の中ではない。
入口。
「遅い」
「いつも通りです」
「そうだな」
ガイルは短く答える。
短いのに、
今日は少しだけ間があった。
ユウトは畑を見る。
奥へ入りたいと思う。
思った。
でも、
足は入口で止まっている。
「今日は」
ガイルが言う。
「そこからだ」
「ここまで、じゃなくて?」
ガイルの目が、
一瞬だけ動く。
「そこからだ」
同じようで、
違う言葉。
ユウトは足元を見る。
境目。
畑に入る手前。
昨日まで止められていた場所。
今日は、
そこから。
一歩だけ、
畑に入る。
土が柔らかい。
柔らかさが、
足裏に残る。
胸が少しだけ広がる。
「重心」
ガイルが言う。
「高い」
いつもの言葉。
でも今日は、
少しだけ声が低い。
ユウトは腰を落とす。
息を腹に入れる。
足裏が土を掴む。
少しだけ、
身体が戻る。
どこへ戻ったのかは、
分からない。
「……昨日」
声が出た。
ガイルは鍬を持ったまま動かない。
「外へ出ようとしました」
言えた。
ガイルの手が、
鍬の柄を強く握る。
「出たのか」
「出ませんでした」
短い沈黙。
風が畝を撫でる。
「そうか」
それだけ。
安心したのか。
残念だったのか。
怒ったのか。
分からない。
「……出た方がよかったですか」
ユウトが聞く。
ガイルはすぐには答えなかった。
土を見る。
畑の端を見る。
それから、
ユウトの足元を見る。
「分からん」
正直な声だった。
ユウトは息を止める。
ガイルは続けない。
続けられない。
分からないまま、
二人は少しだけ土を返した。
鍛冶場へ向かう。
入口の板はそのまま。
増えていない。
隙間も、
昨日と同じに見える。
中から音がする。
金属ではない。
木を置く音。
布を畳む音。
ユウトは入口の前で止まる。
「ドラムさん」
中の音が止まる。
「何だ」
「昨日、外へ出ようとしました」
自分でも、
なぜ同じことを言っているのか分からなかった。
ただ、
誰かに置いておきたかった。
ドラムはしばらく黙った。
「出たのか」
ガイルと同じ問い。
「出ませんでした」
また同じ答え。
中で、
重いものが置かれる音がした。
「……なら、今日は入るな」
「それ、関係あります?」
「ある」
即答。
「何に?」
返事はない。
沈黙。
それから、
ドラムが低く言う。
「触るな」
いつもの言葉。
でも今日は、
少しだけ違う。
何に触るなと言ったのか、
分からなかった。
板か。
扉か。
外か。
昨日のことか。
ユウトは手を下ろす。
触れていないのに、
指先が少し冷えていた。
広場。
人の動きは、
少しだけ乱れていた。
昨日までのように、
完全には揃っていない。
歩く速さ。
振り向く方向。
立つ位置。
少しだけずれている。
ずれているのに、
誰も気にしない。
いや。
気にしているのに、
気にしていないふりをしている。
そんな感じがした。
ユウトは広場の端に立つ。
いつもの場所ではない。
少しだけ違う場所。
空気は整わなかった。
整わないまま、
時間が進む。
胸が少しだけざわつく。
でも、
そのざわつきは嫌ではなかった。
嫌ではないことに、
驚く。
ルーンが広場の向こうにいる。
「今日は穏やかだ」
いつもの言葉。
ユウトは、
今日はすぐに返事をしなかった。
「……昨日も、穏やかでしたか」
ルーンの微笑みが、
ほんの少し遅れる。
「昨日は、昨日だ」
答えになっていない。
でも、
昨日までよりは、
少しだけ答えに近い気がした。
「今日も、穏やかですか」
「今日は、まだ穏やかだよ」
まだ。
その言葉だけが残る。
ルーンはそれ以上言わない。
ユウトも聞かない。
聞かないまま、
胸の中に置く。
午後。
川へ向かう。
飛び石の前で止まる。
いつものように遠回りへ向かいかける。
足が止まる。
飛び石を見る。
水が流れている。
流れは普通だ。
石も、
昨日と同じ。
一歩。
足が出た。
石の上に乗る。
水音が近い。
胸が浅くなる。
でも、
止まらない。
二歩目。
石は濡れている。
滑らない。
三歩目。
向こう岸が近い。
渡りきる。
たったそれだけだった。
それだけなのに、
息が少し乱れていた。
ユウトは振り返る。
飛び石は、
ただの石だった。
昨日まで、
どうして避けていたのか。
分からない。
分からないのに、
身体はまだ少し震えている。
森の方を見る。
木の影が濃い。
その向こうに、
昨日の道がある気がする。
足は向かない。
向かないけれど、
完全には戻らない。
その場で、
少しだけ立っていた。
夕方。
宿へ戻る。
入口の布が揺れている。
今日は、
肩を縮めなくても通れた。
布は触れない。
ただ、
身体が覚えていた分だけ、
少し遅れた。
アーシャがこちらを見る。
「今日は、早めに休んで」
いつもの言葉。
ユウトは頷かない。
「……少し、外にいました」
「そう」
アーシャは笑う。
笑うまでに、
少しだけ時間がかかった。
「寒くなかった?」
「大丈夫です」
「大丈夫って言う人ほど、危ないんだけどね」
いつもの軽口。
でも、
今日は少しだけ柔らかかった。
ユウトは、
その柔らかさに少しだけ救われる。
救われたことを、
言葉にはしない。
夜。
部屋。
窓の外は暗い。
声はまだしない。
ユウトは布団に入らず、
扉を見る。
昨日、
触れた取っ手。
冷たかった。
外へ出られると思った。
出られなかった。
今日は、
触らない。
触らないまま、
そこにあることだけを見る。
耳の奥で、
かすかに声が重なる。
「……前も」
「……違う」
「……まだ」
短い。
遠い。
昨日より、
少しだけ遠い。
ユウトは立ち上がらない。
起き上がる理由がないからではない。
今日は、
立ち上がらないでいることを、
少しだけ選んだ気がした。
選んだと言えるほど、
はっきりしたものではない。
ただ、
戻れば眠れると分かっていても、
すぐには戻らなかった。
部屋の中で、
しばらく夜を聞いていた。
呼吸は浅い。
浅いまま、
乱れない。
眠気は来る。
でも、
すぐには目を閉じなかった。
眠れることを、
急がなかった。
それだけだった。




