昼に残る声
朝。
目が覚めても、
耳の奥に声の形が残っていた。
言葉ではない。
声でもない。
ただ、
何かがそこにあった感じだけが残っている。
窓の外は明るい。
朝だ。
そう思うまでに、
少しだけ時間がかかった。
起き上がる。
床に足をつける。
冷たい。
その冷たさで、
ようやく身体が朝に戻る。
窓を開ける。
外の空気が入る。
胸が少しだけ広がる。
でも、
深くは吸えない。
浅いまま、
落ち着く。
外へ出る。
井戸へ向かう。
道は狭い。
狭いことに、
もう驚かない。
置かれた木箱。
畳まれた布。
壁際の籠。
全部を避ける。
避ける前に、
身体が通る幅を知っている。
井戸。
桶が回ってくる。
手を伸ばす。
水を汲む。
水音が重なる。
その奥で、
一瞬だけ声が混ざった気がした。
「……前も」
水音に消える。
ユウトは手を止める。
隣の人がこちらを見る。
「どうしたの」
「……いや」
何を聞いたのか、
言えない。
言葉にするほど、
残っていない。
宿。
アーシャが朝食を並べている。
いつもの席。
窓から遠い席。
入口からも遠い席。
ユウトはそこへ向かう。
向かってから、
少しだけ立ち止まる。
「……こっちでいいんだっけ」
アーシャの手が止まる。
ほんの一瞬。
「うん」
笑う。
「今日は、そこがいい」
今日は。
昨日もそうだった。
たぶん、
一昨日も。
そう思ったのに、
続きは浮かばない。
座る。
食事は少ない。
少ないまま、
ちょうどいい。
箸を持つ。
噛む。
飲み込む。
喉を通るとき、
少しだけ引っかかる。
詰まるほどではない。
水を飲む。
冷たい。
それで済む。
畑。
ガイルは入口に近い場所にいる。
昨日より奥へ行っていない。
むしろ、
畑の方が遠くなっている気がする。
「今日はここまで」
言われる前に、
足は止まっていた。
「まだ何もしてない」
言葉が出る。
ガイルは、
ユウトの足元を見る。
「立っている」
それだけ。
「立ってるだけでいいんですか」
「今日は、それでいい」
今日は。
また、
その言葉。
ユウトは鍬を持たない。
持たないまま、
畑の端に立つ。
土の匂いがする。
近いのに、
遠い。
ガイルは作業を続ける。
ユウトは、
何もしていない。
何もしていないのに、
時間だけが進む。
鍛冶場。
入口の板はそのまま。
増えてはいない。
それだけで、
少しだけ安心する。
中から火の音がする。
火の音の奥で、
低い声が混ざる。
「……こうだった」
そう聞こえた気がした。
ユウトは足を止める。
中に入ろうとは思わない。
でも、
離れるのも少し遅れる。
板の向こうで、
ドラムが何かを置く音がした。
「そこにいるのか」
声がする。
「……うん」
「今日は、入るな」
いつもと同じ。
短い。
でも、
少しだけ遅かった。
「分かった」
返事をして、
離れる。
広場。
人の立ち位置は決まっている。
空いた場所は空いたまま。
そこだけ、
空気が薄い。
誰も立たない。
ユウトも立たない。
ルーンが広場の端にいる。
「今日は穏やかだ」
いつもの声。
けれど、
その言葉を聞いた瞬間、
胸の奥が少しだけ縮む。
穏やか。
その言葉が、
昼のものではない気がした。
「……本当に?」
口に出ていた。
ルーンがこちらを見る。
笑顔は変わらない。
「今日は、穏やかだよ」
同じ言葉。
少しだけ、
温度が違う。
誰も返事をしない。
午後。
川へ向かう。
飛び石の前で止まる。
遠回りへ向かう。
道の途中で、
風が止まる。
もう、
分かる。
ここで声がする。
そう思った瞬間、
声は聞こえなかった。
代わりに、
胸が浅くなる。
聞こえないのに、
身体だけが待っている。
待っていることに気づいて、
少しだけ嫌になる。
森の方を見る。
木の影が濃い。
その向こうに道がある気がする。
昨日も見た気がする。
一歩だけ、
足が前へ出る。
地面を踏む前に、
止まる。
足の裏が重い。
重いのに、
痛くない。
誰かに掴まれているわけでもない。
ただ、
進む理由が消える。
戻る。
戻ると、
呼吸が整う。
整ったことが、
今日は少しだけ気になった。
夕方。
宿に戻る。
入口の布が揺れている。
通る幅はある。
身体を少し縮める。
肩は触れない。
アーシャがこちらを見る。
「今日は、早めに休んで」
いつもの言葉。
「……なんで?」
聞いた。
アーシャの笑顔が、
ほんの少し遅れる。
「疲れてる顔してるから」
「疲れてないよ」
自分でも、
早いと思うほど早く答えていた。
アーシャは、
少しだけ目を伏せる。
「そう」
それだけ。
それ以上、
何も言わない。
夜。
部屋。
窓の外は暗い。
暗さが近い。
目を閉じる。
すぐには眠れない。
耳が起きている。
外で声がする。
昨日より、
少しだけ形がある。
「……前も」
間。
「……こうだった」
別の声。
「……違う」
また別の声。
「……まだ」
短い。
途切れる。
会話にはならない。
同じ場所にいない声が、
同じ夜に重なっている。
ユウトは、
起き上がろうとする。
肩に力が入る。
布団が重い。
重いのに、
苦しくない。
起き上がればいい。
そう思う。
でも、
何をしに行くのか分からない。
分からないから、
動けない。
声は続く。
「……越えない」
「……戻らなかった」
「……違う」
意味は分からない。
けれど、
胸の奥だけが小さく縮む。
不安ではない。
怖いとも違う。
名前のつかないものが、
浅い呼吸の中に残る。
目を開ける。
暗い。
何も見えない。
それでも、
外に何かがある気がする。
起き上がらない。
起き上がれないわけではない。
そのまま、
夜を聞いていた。
眠れたのは、
少しあとだった。




