夜が残る
朝。
目が覚めても、
夜の暗さが少しだけ残っていた。
部屋は明るい。
窓の隙間から光が入っている。
それなのに、
耳の奥だけが暗い。
起き上がる。
身体は軽い。
眠れている。
眠れているのに、
何かを聞いた気がする。
思い出そうとして、
やめる。
思い出すほどの形がない。
形がないなら、
気にしなくていい。
そう思おうとした。
思おうとしたことだけが、
少しだけ残った。
窓を開ける。
外の空気が入る。
冷たい。
胸が少しだけ広がる。
それで、
朝になる。
朝になったはずなのに、
夜が完全には消えていない。
外へ出る。
井戸へ向かう。
道は狭いまま。
木箱。
布。
置かれた籠。
避ける場所は、
もう分かっている。
考えなくても、
身体が通る。
通れることは、
安心のはずだった。
でも、
通れる幅だけを身体が覚えていることが、
少しだけ嫌だった。
井戸。
桶が回ってくる。
受け取る。
水を汲む。
水音が重なる。
今日は、
水音の奥に別の音がある気がした。
低い。
遠い。
すぐ消える。
誰も反応しない。
誰も反応しないから、
自分も反応しない。
そうしようとして、
手元の桶が少しだけ揺れた。
揺れはすぐに収まる。
収まったことを、
誰も見ていない。
宿。
アーシャが鍋をかき混ぜている。
「おはよう」
「おはよう」
声はいつも通り。
けれど、
アーシャの手が一度だけ止まる。
ほんの一瞬。
鍋の中身は揺れ続ける。
「今日は、ゆっくりでいいよ」
「昨日も」
言いかけて、
やめる。
昨日も同じことを言われた。
一昨日も。
その前も。
そう思った瞬間、
喉の奥が少しだけ詰まる。
「うん」
それだけ返す。
アーシャは、
それ以上聞かない。
聞かれないことに、
ほっとする。
ほっとしたあとで、
少しだけ寂しくなる。
何を聞いてほしかったのかは、
分からない。
食事は少ない。
少ないまま、
ちょうどいい。
箸を取る。
置く。
音が揃う。
今日は六つ。
数えたわけではない。
そう感じただけ。
感じただけなら、
まだ違うと言える。
そう思いながら、
言わなかった。
畑。
ガイルは手前にいる。
昨日より、
さらに手前。
「そこまで」
言われる前に、
足が止まる。
「……ここ?」
「そこだ」
短い。
鍬を持つ。
土は柔らかい。
柔らかいのに、
深く入らない。
三回で止まる。
身体が、
四回目を選ばない。
ガイルは何も言わない。
言わないことが、
許可みたいに残る。
許可されているのに、
少しだけ置いていかれた気がした。
「……夜」
口から出た。
ガイルの手が止まる。
「何だ」
「いや」
続かない。
夜に何があったのか、
言えない。
聞いた気がする。
でも、
聞いたものが残っていない。
残っていないのに、
胸だけが覚えている。
それをどう言えばいいのか、
分からない。
ガイルはしばらく黙っていた。
「昼だ」
それだけ言って、
鍬を動かした。
昼だ。
正しい。
正しい言葉なのに、
少しだけ突き放された気がした。
鍛冶場。
入口の板が増えている。
通れる。
でも、
もう通ろうとは思わない。
中から音がする。
木を置く音。
布を畳む音。
それから、
低い声。
「……同じ」
そんな風に聞こえた。
立ち止まる。
音が消える。
ドラムは出てこない。
ユウトも入らない。
入らないまま済む。
済んでしまう。
済んでしまうことに、
少しだけ慣れている。
広場。
人の立ち位置は決まっている。
空いた場所は空いたまま。
誰も入らない。
誰も避けているようには見えない。
ただ、
そこに立つ人がいない。
ユウトはその場所を見る。
見ていると、
胸の奥が浅くなる。
そこに立てば、
何かがずれる気がした。
何かが戻る気もした。
どちらも分からない。
ルーンが広場の端に立っている。
「今日は穏やかだ」
いつもの言葉。
声は同じ。
でも、
少しだけ遅れて届いた気がした。
誰も返事をしない。
ユウトも返事をしなかった。
返事をしなかったことに、
ルーンは何も言わない。
それが少しだけ、
怖かった。
午後。
川へ向かう。
飛び石の前で止まる。
遠回りへ向かう。
道の途中で、
風が止まる。
耳の奥で、
声が重なる。
昨日より近い。
「……また」
「……違う」
「……戻」
途中で切れる。
胸が浅くなる。
足が止まる。
森の方を見る。
木の影が濃い。
一歩だけ、
前へ出そうになる。
出ない。
足の裏が、
地面に貼りついたみたいに重い。
重いのに、
苦しくない。
苦しくないから、
戻れてしまう。
戻る。
戻ると、
呼吸が少しだけ楽になる。
楽になった瞬間、
少しだけ腹の奥が冷えた。
夕方。
宿へ戻る。
入口の布の間を通る。
肩は触れない。
触れない幅を、
身体が覚えている。
アーシャがこちらを見る。
「今日は、早めに休んで」
「まだ明るい」
「明るいね」
否定しない。
でも、
布団はもう敷かれている。
明るいのに、
休む準備だけが先にある。
ユウトは、
布団を見てから、
アーシャを見る。
何か言おうとする。
言えない。
アーシャも、
何も聞かない。
聞かれないまま、
夜になる。
夜。
部屋。
窓の外。
暗い。
今日は、
暗さが近い。
目を閉じる。
すぐには眠れない。
眠れないほどではない。
ただ、
耳が起きている。
外で、
声が重なる。
低い声。
短い声。
離れた声。
「……前も」
「……違う」
「……戻らなかった」
その言葉だけが、
少し残った。
意味は分からない。
分からないのに、
胸の奥が小さく縮む。
起き上がろうとする。
身体が動かない。
動かないというより、
動く理由が見つからない。
動く理由が見つからないことが、
今日は少しだけ悔しかった。
布団の中で、
呼吸だけが続く。
浅い。
浅いまま、
整っていく。
声は消える。
暗さだけが残る。
朝になれば、
薄くなる気がした。
でも、
薄くなっても、
無くなるわけではない気がした。
そう思ったら、
眠気が落ちてきた。
夜が少しだけ残ったまま、
眠れた。




