聞き取れない言葉
朝。
目が覚めたとき、
誰かの声を聞いていた気がした。
夢だったのか、
思い出せない。
身体は軽い。
眠れている。
それなのに、
耳の奥だけが少し重い。
起き上がる。
窓を開ける。
冷たい空気が入る。
胸が広がる。
重さが少しだけ薄れる。
薄れたことに、
ほっとする。
ほっとしてから、
少しだけ遅れて嫌になる。
聞こえたものが消えたことを、
安心している。
それは、
聞こえなかったことにしたいということだ。
外へ出る。
井戸へ向かう。
歩く速さが揃う。
角を曲がる位置。
止まる場所。
桶を受け取る順番。
全部、
迷わない。
迷わないことは楽だった。
楽なことが、
少しずつ怖くなっている。
井戸。
水音が重なる。
静かだ。
静かすぎる。
誰かが笑う。
同じ高さで、
別の笑い声が重なる。
少しだけ、
遅れて聞こえる。
振り向く。
誰も気にしていない。
振り向いた自分だけが、
流れから一拍遅れた気がした。
すぐに前を向く。
前を向くと、
また揃う。
揃ったことに、
少しだけ安心してしまう。
宿。
アーシャが言う。
「今日は、無理しなくていいからね」
「最近ずっと言ってる」
「そうだっけ」
笑う。
同じやり取り。
前にもあった気がする。
思い出そうとして、
やめる。
やめるのが早くなっている。
昔からそうだったのか、
最近そうなったのか。
分からない。
分からないことも、
すぐに置いてしまう。
食事を終える。
箸を置く音が揃う。
今日は五つ。
同じ長さ。
数えたつもりはない。
でも、
分かってしまった。
分かることを、
誰にも言えない。
畑。
ガイルが手前にいる。
「そこまで」
言われる前に、
身体が止まる。
鍬を持つ。
振るう。
止まる。
「……前も」
声が出る。
ガイルの手が、
少しだけ止まる。
「何だ」
「いや」
続かない。
何を思ったのか、
もう分からない。
分からない、というより、
分かる前に消した気がした。
消したのは、
誰でもない。
自分だった。
鍛冶場。
入口の板。
身体が自然に避ける。
板の隙間から、
低い声が漏れる。
「……違う」
そんな風に聞こえた気がした。
立ち止まる。
耳を澄まそうとする。
中の音が止まる。
そのまま、
何も聞こえなくなる。
何も聞こえなくなると、
呼吸が少し楽になる。
楽になる。
楽になるたびに、
何かを置いてきた気がする。
「……ドラムさん?」
呼んでみる。
返事はない。
ないまま、
中で鉄が小さく鳴った。
それだけで、
会話は終わる。
広場。
人の動きが揃う。
立つ位置。
振り向く方向。
歩く間。
全部同じ。
少しだけ、
息が浅くなる。
苦しくはない。
苦しくないから、
問題にできない。
問題にできないことばかりが、
増えている。
午後。
川へ向かう。
飛び石の前で止まる。
遠回りへ向かう。
途中で、
風が止まる。
耳の奥で、
低い声が重なる。
昨日より近い。
「……また」
「……戻」
聞き取れない。
言葉の途中で、
風が動く。
胸が浅くなる。
足が止まる。
森の方を見る。
木の影が揺れる。
一歩だけ、
前へ出そうになる。
その瞬間。
耳の奥で、
別の声が重なった。
「……違う」
低い。
静かな声。
誰の声か、
分からない。
身体が止まる。
そのまま、
戻る。
戻った方が、
呼吸が楽になる。
でも今日は、
その楽さが少しだけ痛かった。
痛い、というほどではない。
ただ、
胸の奥に薄く残る。
夕方。
宿へ戻る。
入口の布を避ける。
身体が自然に角度を取る。
触れない。
考えなくても、
通れる。
アーシャが言う。
「今日はちゃんと休んでね」
「うん」
理由は聞かない。
聞かないまま頷く。
頷いたあとで、
少しだけアーシャの顔を見る。
笑っている。
でも、
目の端がわずかに疲れている。
「……アーシャさん」
呼ぶ。
「ん?」
「……いや」
続かない。
言いたいことが、
言葉になる前に崩れる。
アーシャは何も聞かない。
聞かれないことが、
ありがたくて、
少しだけ寂しい。
夜。
部屋。
窓の外。
暗い。
目を閉じる。
その瞬間。
外で、
声が重なった。
昨日より近い。
意味は分からない。
でも、
言葉だった。
「……また」
「……だめ」
「…………」
途中で消える。
耳を澄まそうとして、
やめる。
やめた方が、
息が整う。
胸の上下が、
ゆっくりになる。
浅い。
浅いまま、
落ち着く。
聞こえたはずなのに、
形が残らない。
形を残さなかったのは、
夜ではない気がした。
自分が、
残さなかった。
そう思いかけて、
眠気が落ちてくる。
考える前に、
身体が沈む。
聞き取れなかった。
聞き取らなかった。
どちらか分からないまま、
そのまま、眠れた。




