声だった気がする
朝。
目が覚めたとき、
少しだけ眠りが浅かった気がした。
眠れなかったわけではない。
身体は軽い。
それなのに、
どこかだけが起きていた感じが残っている。
起き上がる。
窓を開ける。
外の空気は冷たい。
胸が少しだけ広がる。
深く吸おうとは思わない。
浅いまま、
落ち着く。
落ち着いたことに、
少しだけ引っかかった。
何かを聞いた気がするのに、
身体だけはもう朝に戻っている。
戻るのが早すぎる気がした。
外へ出る。
井戸へ向かう。
歩く速さが揃う。
止まる位置も同じ。
考えなくても、
流れに合う。
井戸。
桶が回る。
受け取る。
隣の人と、
同じタイミングで水を汲む。
水音が重なる。
静かだと思う。
静かすぎる気もする。
その静かさの奥に、
何かが残っている気がした。
声ではない。
でも、
音だけでもない。
宿。
アーシャが言う。
「今日は、少し遅くてもいいからね」
「最近よく言うね」
「そうだっけ」
笑う。
理由はない。
席に座る。
窓から遠い。
前より、
少しだけ部屋が近い。
でも、
嫌ではない。
嫌ではないことが、
今日は少しだけ嫌だった。
食事を終える。
立ち上がる。
椅子の音が揃う。
今日は四つ。
同じ間隔。
数えたわけじゃない。
数えようとしたわけでもない。
それでも、
分かってしまう。
分かることが増えるほど、
自分で考えることが減っている気がした。
畑。
ガイルが手前にいる。
「そこまで」
言われる前に、
足が止まる。
鍬を持つ。
振るう。
止まる。
四回目が浮かばない。
「……最近」
声が出る。
ガイルは振り向かない。
「何だ」
「いや」
続かない。
聞きたいことが、
形にならない。
形になる前に、
身体が止めてしまう。
止めた方が安全だと、
どこかで分かっている。
でも、
安全な方へ戻るたびに、
胸の奥に小さなものが残る。
鍛冶場。
入口の板。
また一枚増えている。
身体が自然に避ける。
触れない。
中から音がする。
金属ではない。
低い音。
誰かの声に似ている。
立ち止まる。
すぐに、
聞こえなくなる。
聞こえなくなった瞬間、
ほっとしてしまった。
ほっとした自分に、
少しだけ遅れて気づく。
聞こえない方が楽だった。
楽な方へ逃げたのは、
たぶん自分だった。
広場。
人の動きが揃う。
視線。
歩幅。
立つ位置。
全部同じ。
同じなのに、
誰も気づいていない。
気づいていないふりなのか、
本当に気づいていないのか。
それを考えようとして、
やめる。
考えると、
自分だけが遅れる気がした。
午後。
川へ向かう。
飛び石の前で止まる。
遠回りへ向かう。
途中で、
風が止まる。
同時に、
耳の奥で何かが重なる。
昨日より近い。
低い声。
言葉にはならない。
「……また」
そんな風に聞こえた気がした。
立ち止まる。
胸が少しだけ浅くなる。
意味は分からない。
考えない。
考えない方が、
楽だと身体が知っている。
でも、
楽な方へ戻る前に、
今日は少しだけ足が止まった。
聞こえた。
たぶん。
聞こえなかったことには、
できない気がした。
森の方を見る。
木の影が濃い。
足が前へ出そうになる。
止まる。
そのまま戻る。
戻ると、
呼吸が整う。
整ってしまう。
それが少しだけ、
自分を裏切っているみたいだった。
夕方。
宿へ戻る。
入口の布の間を通る。
幅は変わらない。
身体だけが、
正しい位置を知っている。
アーシャが言う。
「今日は早めに寝なよ」
「まだ眠くない」
「そうだね」
否定しない。
布団はもう敷かれている。
敷かれているから、
横になれる。
横になれるから、
考えなくて済む。
考えなくて済む場所があることは、
ありがたいはずだった。
それなのに、
少しだけ息が詰まった。
夜。
部屋。
窓の外。
暗い。
目を閉じる。
その瞬間だけ、
外で何かが動いた気がする。
音ではない。
気配に近い。
耳を澄まそうとして、
やめる。
やめた方が、
呼吸が楽になる。
胸の上下が、
ゆっくりになる。
その中で、
一度だけ。
低い声が重なった。
言葉は分からない。
でも、
声だった気がした。
気がしただけ。
そう思えば、
眠れる。
そう思おうとした。
でも、
思おうとしたことだけが、
胸の奥に残った。
考える前に、
眠気が落ちてくる。
呼吸が整う。
身体が沈む。
声だった気がしたまま、
そのまま、眠れた。




