第58話 マルコの苦難
私は、敬虔な暁教の信徒である。
名を、マルコ・ベル。五十二歳。
ベルジュの村にある教会を預かる司祭であり、この村の村長でもある。これまでの人生、それなりに苦労はしてきたし、そのたびになんとか乗り越えてきたつもりだ。
凶作の年もあった。大雨で畑が駄目になったこともある。徴税官に頭を下げ、暮らしに余裕をなくした村人同士の喧嘩を仲裁したことも、一度や二度ではない。
だが、この数日ほど、女神クロノア様に必死で祈ったことはなかった。
ベルジュは、人口四百人ほどの小さな村だ。住民のほとんどは農民で、都市部に暮らす貴族や平民と比べれば身分は低い。
それでも、鍛冶屋がある。食堂がある。小さな食料品店もある。畑で採れた物を売り買いする市場も、週に一度開かれる。
華やかではない。だが、暮らしていくには十分で、皆それなりに穏やかな日々を送っていた。朝になれば畑へ向かう者がいて、昼になれば子どもたちの笑い声が聞こえ、夕方になれば家々から食事の匂いが漂う。
私は、そんなベルジュが好きだった。
少なくとも、数日前までは。
⸻
セレスティアで異変が起きた。
それからというもの、避難民が次から次へと押し寄せてきた。
最初は数十人だった。それなら、なんとかなると思った。教会の礼拝堂を開放し、宿屋の空いている部屋も使ってもらった。
村人たちにも頭を下げ、余っている毛布や食料を持ち寄ってもらった。皆で助け合えば、どうにかなると思っていた。
だが、その日のうちに百人を超えた。
翌日には、さらに増えた。
馬車が来る。人が来る。また馬車が来る。
怪我人を運び込まれれば、治療する場所が必要になる。村の治療院もそれほど大きくはなく、すぐにベッドが埋まった。子どもが来れば毛布がいる。老人を地面で寝かせるわけにもいかない。
食料も、水も、寝る場所も。何もかもが足りない。
四百人のために用意されていた村なのだ。突然、その何倍もの人間が暮らせるはずがない。
それでも、ないから帰ってくれなどと言えるはずもなかった。外には魔族や魔獣があふれているという。ここを追い出せば、命に関わる。
だから私は、村中を走り回った。
空いている納屋はないか。使っていない倉庫はないか。少しでも食料を分けてもらえないか。
何度頭を下げたか、もう覚えていない。
そして、ただでさえ頭の痛い状況を、さらにややこしくする問題があった。
「ベル司祭」
その声を聞いた瞬間。
またか。いい加減にしてほしい。
目上の貴族にそんなことを思ったことは、女神様にだけは許していただきたい。
避難してきた貴族の一人、バレン男爵だった。
「何度も言っているだろう! 我々には、この村で最も上等な食事を用意しろ。それから衣服と寝床もだ。平民や農民どもと同じ扱いでは困る」
「ですが、男爵様。現在は避難してこられた方が非常に多く……」
「だからどうした」
バレン男爵の眉が吊り上がった。
「我々を誰だと思っている」
誰だと思っていると言われても。セレスティアではそれなりに地位のある貴族だとは聞いている。だが、今ここでそれを言われても、ないものはない。
ただのバレン男爵である。
もちろん、口には出さなかった。出せるはずがない。周囲の貴族たちからも、次々と声が飛んでくる。
「ここまで来るだけでも大変だったのです。せめて温かい食事くらい、なんとかしていただけませんか」
「皆も疲れ切っております」
「こんなところで眠らせるわけにはいきません」
彼らの言い分が、すべて間違っているわけではない。皆、魔族から逃げてきたのだ。家を失った者もいる。家族とはぐれた者もいる。何日もまともに食べていない者だっている。
苦しいのは分かる。分かるのだが、こちらにだって、ないものはない。
だが、ここは法国だ。身分というものがある。貴族には、貴族にふさわしい扱いを求められる。都市部から避難してきた平民の中にも、農民と同じ寝床や食事を嫌がる者がいた。
そのたびに私は、村人たちへ頭を下げた。
すまない。
もう少しだけ場所を貸してほしい。
もう少しだけ食料を分けてほしい。
その「もう少し」が、何度続いたことか。
教会の蓄えを出した。食料品店の商品も買い上げた。農家が冬のために取っておいた穀物や野菜まで分けてもらった。
それをなんとか振り分け、食事を作った。
薄い野菜のスープと、わずかなパン。
今できる精一杯だった。
だが、
「なんだ、この食事は」
バレン男爵は、器の中を見て顔をしかめた。
「犬の餌ではないか」
胸の奥で、何かが軋んだ。その野菜は、村人たちが自分たちの分を削って持ってきてくれたものだった。
「明日はもっとましな料理を用意せよ」
「……努力いたします」
「それから、この建物も狭い」
贅沢を言える状況ではない。そう思った。
「農民どもに家を空けさせればよかろう」
「それは……」
「何か問題でも?」
問題しかない。
だが、結局、私は断り切れなかった。
宿屋の空き部屋も納屋も、とっくに埋まっていた。教会の礼拝堂にも、すでに多くの村人や避難民が身を寄せている。これ以上場所を作るとなれば、村人たちに出てもらうしかなかった。
その日、大勢の村人たちが自分の家を明け渡し、礼拝堂からも移ることになった。
行き先は、村の外れ。ベルジュを将来広げるために確保していた土地だった。木を切り、地面をならしてはある。いつか家や店を建てるつもりだった場所だ。
だが、今は何もない。そこへ粗末な天幕を張り、毛布を敷いた。そして、自分たちの村なのに、村人たちがそこで寝ることになった。
「マルコ司祭」
移動を伝えた時、私の前に立ったのはハンスだった。畑仕事一筋の真面目な男だ。
「貴族様や街の方々が大変なのは、俺たちだって分かっています」
「ああ……」
「でも、ここは俺たちの村です」
ハンスの後ろでは、マルタが幼いルカを抱いていた。まだ何が起きているのかも分からないのだろう。ルカは母親の胸に顔を埋めて泣いている。
「家も、食べ物も、もともとは俺たちのものだった」
何も言えなかった。
「それまで渡せっていうなら」
ハンスの拳が震える。
「俺たちに死ねとおっしゃるんですか」
「そんなつもりではない!」
思わず声が大きくなった。
そんなつもりなど、あるはずがない。
私はこの村の司祭だ。
ハンスがまだ子どもだった頃から知っている。彼とマルタの結婚を祝福し、生まれた子どもたちにも祝福を与えた。
そんな彼らに、死ねなどと思うはずがない。
だが……。
なら、どうすればいい。外から来た人々を追い出すのか。貴族に逆らうのか。 村人たちを守るために、別の誰かを見捨てるのか。
答えなど出なかった。
「……他の村も、同じような状況だと聞いている」
私は、それしか言えなかった。
「すまない。今は……どうか耐えてくれ」
ハンスは何も答えなかった。
ただ、私から目を逸らした。その目に浮かんでいた怒りと失望が、今でも頭から離れない。
耐えてくれ。
なんと情けない言葉だろう。この村を治める者でありながら。皆から司祭様と呼ばれながら。結局、私にできたのは我慢を押しつけることだけだった。
その夜、私は自室へ戻った。
机の上には、食料の残量を書いた帳簿。避難民の人数。空いている寝床の数。必要な薬。
何度計算しても、数字は良くならない。
食料は減る。人は増える。空き部屋はない。
数字というものは、祈っても忖度してくれない。
私は帳簿を閉じ、部屋の隅に置かれた小さな女神像の前へ膝をついた。
「女神クロノア様……」
毎日、祈りを捧げてきた。司祭なのだから当然だ。
だが、この夜は、教典の言葉も、立派な祈祷文も、何一つ出てこなかった。
「どうか……お助けください」
それだけだった。情けない司祭です。そう続けようとして、やめた。そんなことは、女神様が一番よくご存じだろう。
私はただ、この小さな村で、静かに祈り、村人たちと穏やかに暮らしていきたかっただけなのだ。
どうして、こんなことになったのだろう。
その夜は、ほとんど眠れなかった。
⸻
そして翌朝。
私は、本当に祈りが届いたのだと思った。
「……《灯火の聖女》様が来ただと……?」
村人からその知らせを聞いた時、最初は自分の耳を疑った。急いで教会の外へ出る。そこで目にした姿に、今度は自分の目を疑った。
《灯火の聖女》サラサ・ソーカ様。
法王猊下の御息女にして、かつて大神殿を守った聖女。そして、各地を巡り、魔族に脅かされた村々を救ってきた方。
その隣には、グラン・ソーカ殿がいた。
代々魔族を狩り、大神殿と法王猊下を守ってきた名門ソーカ家。その生き残りにして、《翠嵐鏡》の名で知られた英雄。
そんな二人が、家族や使用人たちを連れてベルジュへやって来たのだ。私は、危うくその場で女神様へ感謝の祈りを捧げそうになった。
ただ、彼らも無事というわけではなかった。皆、ひどく疲れている。何より、一人の少女が眠ったまま目を覚まさなかった。
クロノ・ソーカ様。
サラサ様の娘だという。暁の女神クロノア様とよく似たその名が、妙に耳に残った。サラサ様は、自分たちに特別な場所はいらないとおっしゃった。
外でも構わない。
ただ、眠り続けている娘だけは、静かな部屋で休ませてほしい。できれば、弟のマーク様と、付き添いのエルマ殿も一緒に。
求めているものだけを聞けば、昨日まで散々聞かされていた貴族たちと同じなのかもしれない。
だが、まるで違った。自分たちは外で構わない。
ただ、目を覚まさない娘を休ませてほしい。本当に、それだけだった。この国の宝とも呼べる方に、そんなことを頼まれて、私が断れるはずがない。
「もちろんです!」
たぶん、あの時の私は少し声が大きかった。教会に残っていた私の居室を、すぐに用意した。サラサ様やグラン殿は、自分たちは他の避難民と同じで構わないと何度も遠慮された。
だが、ただでさえお疲れの様子だったのだ。まして、眠り続ける娘を抱えている。私は半ば押し切るようにして、家族と付き添いの者たちにも使っていただくことにした。
それでも二人は、休む間もなくベルジュの状況を聞き動かれた。
グラン殿は、村の周囲にも魔族や魔獣が出ていると知ると、すぐに警備の者たちのもとへ向かった。
後で聞いた話では、自警団や村の男たちを集め、どこを守るべきか、夜番をどう組むか、避難民が危険な場所へ出てしまわないようどこに人を置くかまで、次々と決めてくださったらしい。
さすがは《翠嵐鏡》。
一方、私はサラサ様と一緒に礼拝堂へ向かった。そこには、避難してきた貴族たちが集まっている。サラサ様は一人ひとりの話を聞き、今のベルジュには十分な食料も寝床もなく、村人たちも苦しい状況にあるのだと、穏やかに説明してくださった。
あのバレン男爵まで、サラサ様を前にすると驚くほど大人しくなった。
昨日までの威勢はどこへいった。
少しくらい私にも、その態度で接してほしかった。
ともあれ、二人が来てくださったことで、ベルジュの空気は少しだけ落ち着いた。
天の助けだ。昨日の祈りが届いたのだ。
私は、本気でそう思った。
だが、現実というものは、やはり容赦がない。グラン殿が村を守る手筈を整えてくださっても、サラサ様が貴族をなだめてくださっても、食料は増えない。水も増えない。寝床も増えない。
帳簿の数字は、相変わらずだった。
それから二日ほどして。
眠り続けていたクロノ様が、ようやく目を覚ました。その日の夜は、ご家族で大切な話をされるとのことで、私は顔を出さなかった。
きちんと言葉を交わしたのは、翌朝のことだ。
初めて間近で見たクロノ様は、サラサ様によく似た美しい少女だった。整った顔立ちに、きれいな髪。まだ幼さは残っているものの、黙って立っていれば、名門貴族の令嬢そのものに見える。
だが、話してみると、その印象はがらりと変わった。
「マルコ司祭」
「は、はい!」
「ちょっと聞きたいんですけど」
「何でしょう」
クロノ様は窓の外を眺めていたかと思うと、くるりとこちらを振り返った。
「昨日、この村の人たちが家を貸して、村の外れに移ってるって聞いたんですけど」
「……はい」
胸の奥が少し痛んだ。
どうやら、すでに村の事情は聞いているらしい。
「その場所って、広いですか?」
「広い……と申しますと?」
「かなり広めの場所が欲しいんです。建物じゃなくていいので」
かなり広めの場所が欲しい。
その言い方に、私は一瞬だけ面食らった。
こうして初めて言葉を交わすまでは、サラサ様によく似た、いかにも名門貴族の令嬢らしい方だと思っていたのだが。どうやら、見た目ほどかしこまった性格ではないらしい。
「村人たちがいる場所でしたら、かなり広い土地ではあります」
「ほんとですか!」
クロノ様の顔がぱっと明るくなった。
「そこ、見せてもらってもいいですか?」
「それは構いませんが……」
思わず言葉を濁した。
そこにいるのは、自分の家を明け渡した村人たちだ。粗末な天幕しかなく、まともな寝床すらない。そのうえ、彼らの多くは、避難してきた貴族たちのために家や食料を差し出すことになった。中には、貴族そのものに強い反感を抱いている者もいる。
ハンスも、その一人だ。
その場所へ、名門ソーカ家の令嬢を連れていく。
正直、少し不安だった。
「何をなさるおつもりで?」
尋ねると、クロノ様は少しだけ考えた。
「まずは、ご飯かなって」
「……ご飯?」
「はい。食べるもの、足りないんですよね?」
「それは……そうですが」
「じゃあ、ちょうどいいです!」
何がちょうどいいのだろう。
私には、まるで分からなかった。
「マーク! 行くよ!」
「はいはい」
クロノ様は、もう出かけるつもりらしく弟君へ声をかけている。ずいぶん行動が早い。それに、言葉遣いも思っていたよりずっと砕けている。
もしや、サラサ様に似ているのは顔だけで、かなり我の強いお嬢様なのではないだろうか。
「マルコ司祭?」
「あ、はい」
「案内お願いしてもいいですか?」
「もちろんです」
私は慌てて頷いた。
この時の私は、クロノ様がそこで何をするつもりなのか、まるで分かっていなかった。
食べ物が足りないから、まずはご飯。口で言うだけなら簡単だ。だが、足りないからこそ、私たちはここ数日ずっと苦しんでいる。
ないものは、どうしたって増えない。
そう思っていた。
でもまさか、その日のうちに。
私がどれほど頭を下げても、どれほど祈っても増えなかったものが、目の前に山ほど現れることになるとは。
夢にも思っていなかった。




