第59話 一杯の奇跡
クロノ様とマーク様を連れ、私は村の外れへ向かった。
教会を出ると、そこにはサラサ様とグラン殿、それにイザベラ殿、ガストン殿、エルマ殿まで待っていた。
「皆様も行かれるのですか?」
「一人じゃ無理そうなので、手伝ってもらおうかなって」
クロノ様があっけらかんと答えると、グラン殿が苦笑した。
「昨夜から、食料をどうにかしたいと言っていてな。ただし、無理はさせないつもりだ」
「大丈夫だって。もう元気だから」
「三日も眠っていた人間の言葉とは思えないな」
「うっ」
どうやら、ご家族もこのお嬢様の行動力には慣れているらしい。
私はますます分からなくなった。食料をどうにかする。それは私も、この数日ずっと考えてきたことだ。
近隣から買い集めようにも、周囲の村も似たような状況にある。外へ出れば魔族や魔獣に襲われる危険もあるし、そもそも今のベルジュにいる人数を賄えるだけの食料など、簡単に集められるものではない。
それを、この少女はどうにかするという。
いったい、何をするつもりなのだろう。
村の外れへ近づくにつれ、粗末な天幕が見えてきた。
木を切り、地面をならしただけの土地。いつかベルジュが大きくなった時、家や店を建てるために用意していた場所だ。今はそこにいくつもの天幕や荷車が並び、火を囲む者や地面に毛布を敷く者、泣く子どもをあやす母親の姿がある。
皆、ベルジュの村人たちだ。自分たちの家を避難民へ明け渡し、ここへ移ってきた者たち。
「……ここが、家を貸した村の人たちがいる場所なんですね」
「はい」
私が頷くと、何人かの村人がこちらに気づいた。
サラサ様やグラン殿がいると聞いた者もいるのだろう。畏まったように頭を下げる者もいたが、そうでない者たちの表情は固い。
無理もない。彼らは、避難してきた貴族や街の者たちのために家を明け渡し、食料まで差し出した。そのせいで、貴族そのものに反感を抱いている者も少なくない。
「マルコ司祭」
声をかけてきたのは、ハンスだった。
先日、私に「俺たちに死ねとおっしゃるんですか」と怒りをぶつけた彼だ。
「今度は、なんですか」
「いや、これは……」
言葉を探していると、ハンスの視線がクロノ様へ向いた。
「その方たちのために、ここも空けろって話ですか?」
「違います!」
答えたのは、私ではなかった。クロノ様が一歩前へ出る。
「ここを取ったりしません。むしろ、皆さんがここにいてくれた方が助かります」
「……俺たちが?」
「はい」
ハンスが怪訝そうに眉を寄せた。私も同じ顔をしていたと思う。
「マルコ司祭、この辺って使っても大丈夫ですか?」
「ええ。それは構いませんが……何をなさるおつもりで?」
クロノ様は少しだけ考えた。
「まずは、ご飯かなって」
「……ご飯?」
「はい。食べるもの、足りないんですよね?」
「それは……そうですが」
「じゃあ、ちょうどいいです! ここで、みんなのご飯を作ります!」
やはり、食料の話だった。
「クロノ様。お気持ちは大変ありがたいのですが、この村には食材そのものがほとんど残っておりません」
「はい。聞きました」
「でしたら……」
「だから、出します」
「……はい?」
何を、と聞くより早かった。
クロノ様が何もない地面へ片手を向ける。その瞬間、額に淡い光が灯った。
「……っ」
私は息を呑んだ。
二つの輪が繋がった、不思議な印。教典の古い挿絵や教会に残された聖画の中で何度も見てきた、創造を司る女神クロノア様と共に描かれる紋章。
《∞》。
背筋に、ぞくりと何かが走った。
「クロノ……」
サラサ様は、クロノ様の額に浮かんだ印よりも、その顔色を気にするように見つめていた。グラン殿も何も言わず、じっと様子を窺っている。
どうやら、この印を見るのは初めてではないらしい。そんな周囲の視線をよそに、クロノ様は何もない地面へ手を向けた。
次の瞬間、巨大な白い布の塊が現れた。
さらに、長い机。見たこともない黒い器具。銀色の巨大な鍋。大きな筒。水の入った容器。白い器が詰まった箱。
次から次へと、何もなかった場所へ物が現れていく。
私は言葉を失った。
魔法なのか。
いや、魔力を使った気配が、まるでない。
「……祭具、か」
ぽつりと呟いたのは、グラン殿だった。
サラサ様が小さく頷く。イザベラ殿やガストン殿も、どこか納得したような顔をしていた。
「……祭具?」
思わず聞き返すと、サラサ様がこちらを向いた。
「あ、いえ……私たちが勝手にそう呼んでいるだけです」
「そう、なのですか……」
私は頷いたものの、その言葉が妙に引っかかった。周囲を見ると、何人かの村人たちも顔を見合わせている。どうやら、同じ言葉が気になったらしい。
祭具。
たしか、古い聖典に残された神話もそう呼ばれる品々が登場する。
かつて《聖王》は女神クロノア様の加護を受け、この世にない不思議な品々を現した。その品々を、人々は《祭具》と呼んだとされていたはずだ。
もちろん、今となっては遠い昔の伝承にすぎない。
だが、目の前に現れた品々を見ていると、どうにも似た話に思えてならなかった。
「姉ちゃん、ちょっとやりすぎじゃない?」
「え? まだ全然でしょ?」
「その感覚が怖いんだけど」
「クロノ。身体は本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だって。無理はしないから」
グラン殿にそう答えながらも、クロノ様は止まらない。
「次、材料!」
「クロノ様」
エルマ殿がすかさず口を挟んだ。
「何人分をお作りになるおつもりですか?」
「え?」
「人数も確認せずに食材を出されるおつもりでしたか?」
「……いっぱい?」
「クロノ様」
「はい」
妙に素直だった。
エルマ殿は小さく息を吐くと、私へ顔を向けた。
「マルコ司祭。現在、この村には何名ほどいらっしゃいますか?」
「え、ええ。おおよそでしたら……」
村人と避難民。正確な数は今も増減しているが、分かる範囲で人数を伝えると、エルマ殿はしばらく考えた。
「では、まずはこの程度から始めましょう。足りなければ追加を」
「了解!」
クロノ様が再び手を向ける。
今度こそ、私は自分の目を疑った。
大根、人参、長ねぎ、見慣れない根菜。大量の肉に、黒い板のような物。茶色い何かが詰まった容器。
食べ物が、次から次へと現れていく。
「姉ちゃん! まだ出すの!?」
「材料ないと食べられないでしょ!」
「そうだけど!」
村人たちは、誰一人として動かなかった。無理もない。私も動けなかった。
あれほど欲しかった食料が、何度頭を下げても、何度帳簿を見直しても増えなかった食料が、今、目の前に山になっている。
「あれ?」
クロノ様が周囲を見回した。ようやく、全員が固まっていることに気づいたらしい。
「……驚かせてごめんなさい! えっと、手が空いてる方! これから、この材料で豚汁っていう食べ物を作ります! ここにいるみんなに配りたいので、手伝ってくれませんか!?」
誰も答えなかった。さっきまでざわついていた場所が、しんと静まり返る。
「姉ちゃん、もう隠すつもりないのは分かったけど、自分が今みんなの前でやったこと分かってる?」
「食材出した」
「みんなはそういう認識じゃないけど!」
その時だった。
「……俺たちに」
低い声がした。
「俺たちに食わせるためなのか?」
ハンスだった。
クロノ様は一瞬きょとんとしてから、当たり前のように頷いた。
「はい」
「……貴族様じゃなく?」
「もちろん貴族の人たちみんなにも配りますけど、ここにいる人たちが今、一番お腹空いてるんですよね?」
「それは……」
「じゃあ、一緒に作りましょう! 私一人じゃ、こんな人数分作れないので!」
ハンスはしばらくクロノ様を見つめていた。つい先ほどまで、自分たちのいる場所まで奪われるのではないかと警戒していた男だ。それが今は、目の前に積み上がった食材とクロノ様を交互に見ている。
やがて、黙って袖をまくった。
「……何をすればいいですか? 野菜を切ればいいので?」
「はい! あと敬語いりません!」
「……は?」
「私、年上の方に敬語使われるとむずかゆくなるので!」
ハンスが目を瞬いた。
貴族の令嬢からそんなことを言われるとは、夢にも思っていなかったのだろう。私だって同じだった。
「……じゃあ、野菜を切ればいいのか?」
「はい! お願いします!」
クロノ様が満面の笑みで答える。
ハンスは少しだけ困ったような顔をしたあと、近くに置かれていた大根を手に取った。
それをきっかけに、一人、また一人と村人たちが立ち上がる。
「俺もやる」
「包丁なら使えるよ」
「水を汲めばいいのか?」
「鍋を置く場所を作ろう」
気づけば、さっきまで遠巻きに見ていた者たちが、次々とクロノ様の周りへ集まり始めていた。
「ガストン! これ運べる?」
「承知しました」
クロノ様が指差した巨大な鍋を、ガストン殿は軽々と持ち上げた。グラン殿も長机の端を持つ。
「私も手伝おう」
「父さん、無理しないでよ!」
「それはこちらの台詞だ」
サラサ様は母親たちのところへ向かい、子どもや老人、怪我人から先に食事を渡せるよう声をかけ始めた。
イザベラ殿も人の流れを見ると、すぐに調理を手伝う者と食事を待つ者を分けていく。
エルマ殿は食材の量を確認しながら、誰が何を切るのかまで次々と決めていた。
「クロノ様。次からは、エルマに先に必要な量を確認してください」
イザベラ殿に言われ、クロノ様が少しだけ肩を落とす。
「はーい……」
「大根はこちら。人参はそちらにしましょう」
「はーい!」
完全に叱られている。
しかも、どうやら叱られ慣れているらしい。
「マルコ司祭」
エルマ殿に呼ばれ、私はようやく我に返った。
「この中で料理に慣れている方をご存じですか?」
「もちろんです!」
そうだ。見ている場合ではない。
村の食堂で働いている者。普段から大人数の料理を作る者。水場の場所。力仕事に慣れた者。私にだって分かることはある。
私は村人たちへ声をかけ、必要な人間を集めて回った。気づけば私自身も、見たことのない道具を運んでいた。
「クロノ様、これは何でしょう?」
「コンロです!」
「こんろ?」
「火を出すやつです」
余計に分からない。
クロノ様は黒い器具へ橙色の管を繋ぎ、その先を大きな筒へ取り付けた。
「それ、危なくないの?」
「大丈夫大丈夫」
「姉ちゃんの大丈夫、今日ちょっと信用できないんだけど」
「ひどい!」
クロノ様が器具へ手を伸ばす。
カチッ。
ボッ。
「うわっ!」
青い炎が一瞬で立ち上がり、私だけでなく周囲の村人たちも思わず後ずさった。
「大丈夫です! 普通の火です!」
「その色で?」
「普通だって!」
サラサ様が興味深そうに炎を覗き込む。
「本当に変わった道具ね」
「そうでしょ。料理もすぐできるよ」
グラン殿も炎を眺めている。
「魔法が使えなくても火が出るのか……」
「父さん、なんでも魔法に頼ってるとよくないよ」
「いや、不思議でな」
マーク様が小さく笑った。
「まあ、父さんもそのうち慣れるよ」
周囲から小さな笑い声が漏れた。さっきまで険しい顔をしていた村人たちまで笑っている。
不思議な光景だった。
やがて巨大な鍋から湯気が立ち始め、切った野菜や肉が次々と入れられていく。見たことのない調味料が溶かされると、しばらくして辺りに今まで嗅いだことのない香りが漂い始めた。
「……いい匂い」
ルカの声だった。
マルタのそばで鍋を覗き込んでいる。その声に釣られたように他の子どもたちも集まり、いつの間にか村の外れにいた者だけでなく、他の避難民たちまでこちらへやって来ていた。
サラサ様とイザベラ殿が人々を整理し、順番に並ばせる。
「まだいっぱいあるから、慌てなくて大丈夫ですよ! 足りなかったら、また出します!」
「姉ちゃん、それさらっと言わない方がいいと思う」
「なんで?」
「……なんでも。ていうか、ちょっと疲れてるでしょ」
「大丈夫! 全然疲れてないよ!」
クロノ様は笑って答えたが、マーク様は納得していないようだった。
見ると、サラサ様とグラン殿も同じようにクロノ様の様子を気にしている。当の本人だけは、そんな視線にも気づかず、次の器へ豚汁をよそっていた。
やがて、最初の一杯が白い器によそわれた。湯気の向こうに、大根や人参、肉が見える。
「はい」
クロノ様がその器を差し出した相手は、ルカだった。
「……僕が最初でいいの?」
「もちろん。子どもからね」
ルカがマルタを見上げる。
「いただきなさい」
マルタが頷くと、ルカは小さな手で器を受け取り、恐る恐る口をつけた。
「……おいしい」
それだけだった。
けれど、マルタは口元を押さえた。
「ありがとうございます……。この子、昨日からほとんど食べられてなくて……」
「まだいっぱいありますから! お母さんも食べてください!」
クロノ様は笑って、次の器を差し出した。
さらに次。その次。
湯気の向こうで、人々の顔が少しずつ緩んでいく。
昨日まで、私は彼らに「耐えてくれ」としか言えなかった。食料がない。寝床がない。どうしようもない。だから、ただ我慢してくれと。
けれど今、ハンスが大根を切り、マルタたちが鍋をかき混ぜ、ルカをはじめとした子どもたちが湯気の立つ器を両手で抱えている。
そして、その真ん中にクロノ様がいた。
何もなかった場所に、見たこともない道具と食料を生み出した少女。だが、私が奇跡だと思ったのは、それだけではなかった。
クロノ様は、自分一人ですべてを済ませようとはしなかった。村人たちへ、手を貸してほしいと言った。
怒っていた者も、疲れ切っていた者も、何もできずに座り込んでいた者も、いつの間にか皆が動いていた。
「マルコ司祭!」
呼ばれて顔を上げると、クロノ様がこちらへ器を差し出していた。
「司祭さんも食べてください!」
「私も……よろしいのですか?」
「もちろんです!」
受け取った器は、温かかった。
たった一杯の、見たこともない汁物。
口へ運ぶと、塩気と野菜の甘さ、柔らかい肉の味が広がり、その熱が身体の奥までじんわりと染みていく。
「……おいしい」
思わず口からこぼれた。
「豚汁です!」
クロノ様が笑う。
その顔を見ながら、私はあの夜のことを思い出していた。小さな女神像の前で膝をつき、何もできない自分を恥じながら、ただ一言だけ願った。
『女神クロノア様……どうか、お助けください』
そして翌朝、この村へやって来た少女の名は、クロノ。
女神クロノア様と、よく似た響きを持つ名。
その少女の額には、女神クロノア様と同じ《∞》の紋章が浮かび、何もない場所から見たこともない品々を生み出した。
グラン殿は、それを《祭具》と呼んだ。
かつて《聖王》が現したと伝えられるものと、同じ名で。
そして今、目の前では人々が温かい食事を口にして笑っている。あの夜、私は確かに女神クロノア様へ祈った。そして、その翌朝にクロノ様はこの村へやって来た。
これを奇跡と呼ばずして、何を奇跡と呼ぶのだろう。
ただ、その奇跡が何を意味するのか。
それだけは、まだ私にも分からなかった。
「あっ!」
突然、ルカが声を上げた。
食べ終えかけていた器をマルタへ預けると、天幕の脇に置かれた荷物を慌てて探り始める。
「どうしたの、ルカ?」
マルタが尋ねると、ルカは一枚の札を取り出した。
四紋札。
最近、セレスティアを中心に広まり始めたという札遊びだ。私自身は遊んだことがないが、村の子どもたちが持っているのを何度か見たことがある。
ルカは札を見たあと、少し離れたところで食事を配っているクロノ様を見た。そして、もう一度札を見る。
「……やっぱり」
「何が?」
「女神様」
ルカがマルタへ札を見せた。
「あのお姉さん、四紋札の女神様にそっくり」
マルタが札を見て、それからクロノ様へ目を向けた。
「……本当だ」
その声に、近くにいた村人たちも集まってきた。私もその札を覗き込む。そこには、女神を思わせる一人の少女が描かれていた。
息が止まった。
髪も、顔立ちも、その雰囲気まで。あまりにも、よく似ている。
私は札から顔を上げた。
「はい、次の人! まだありますからね!」
クロノ様は何も気づいていない。
自分が今、村人たちからどんな目で見られているのかも知らず、次々と食事を配っている。
クロノ。
クロノア。
四紋札に描かれた女神。
額に浮かんだ《∞》。
聖王の伝承に残る《祭具》。
何もない場所から現れた山のような食料。
そして、あの夜の祈り。
『女神クロノア様……どうか、お助けください』
ばらばらだったものが、胸の中で一つに繋がっていく。
「……司祭様」
すぐそばから声がした。
ハンスだった。
その目も、ルカの手にある四紋札とクロノ様の間を行き来している。
「この方は……本当に、女神様なんじゃ……?」
私は答えようとした。
だが、言葉が出なかった。
クロノ・ソーカ様。
サラサ様の娘であり、名門ソーカ家の令嬢。
それは確かだ。
だが、本当にそれだけなのか。
私は司祭だ。女神クロノア様に仕え、その教えを説き、古くから伝わる奇跡の物語を何度も人々へ語ってきた。
けれど今日、私は初めて、それを物語ではなく、この目で見た。手にしていた器をそっと置き、その場に膝をつく。
「……マルコ司祭?」
ハンスの声がした。少し離れたところにいたクロノ様も、ようやくこちらへ気づいた。
「え? マルコ司祭?」
私は胸の前で手を組んだ。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
何を祈ればいいのか分からない。
今度も、立派な祈祷文など出てこなかった。
「……ありがとうございます」
「え?」
「私たちを、お救いくださって……ありがとうございます」
クロノ様が固まった。
「え、いや、ちょっと待ってください。私、豚汁作っただけなんですけど!?」
その声より先に、隣でハンスが膝をついた。少し遅れてマルタも膝をつき、その横ではルカが何が起きたのか分からないまま父と母を見比べている。
それを皮切りに、一人、また一人と、粗末な天幕の間で村人たちが膝をついていった。
「ちょ、ちょっと待って!? なんでみんな跪いてるの!?」
クロノ様の声が裏返る。
この場でただ一人、クロノ様だけが何が起きているのか分かっていなかった。
「……祭具の聖女様だ」
誰かが、小さく呟いた。
それをきっかけに、あちこちから声が上がり始める。
「女神様と同じ印を……」
「何もないところから食べ物を……」
「あれが、祭具なのか……?」
「俺たちのために……」
「いやいやいやいや! 違います! 私、聖女じゃないですから! 聖女は母さんで!」
クロノ様が慌てて両手を振る。
サラサ様は「もう……」とでも言いたげに笑い、グラン殿たちも苦笑していた。
だが、村人たちは誰一人として立ち上がらなかった。
つい昨日まで、貴族に家を奪われたと怒っていた者たちが、食べ物を奪われたと嘆いていた者たちが、今はその貴族の娘へ祈るように頭を垂れている。
私自身も、その一人だった。
この方が何者なのか。女神クロノア様の御使いなのか。新たな聖女なのか。それとも、もっと別の何かなのか。
今の私には分からない。
けれど、一つだけはっきりしていた。
あの夜、私が女神クロノア様へ捧げた祈り。
あの祈りは。
確かに、届いていた。




