第57話 家族の秘密
目を開けると、知らない天井があった。
白く塗られた木の板。その隙間から、細い朝の光が差し込んでいる。ぼんやり眺めながら、私はしばらく考えた。
ここ、どこだ?
聖堂院でも治療院でもない。もちろん、うちの屋敷でもなかった。
「……クロノ様?」
すぐそばで声がした。顔を向けると、椅子から立ち上がった年配の女性と目が合った。
灰色がかった髪をきっちりと後ろでまとめ、背筋を伸ばした女性。屋敷で何度も顔を合わせているけど、こうして間近で顔を見るのは久しぶりだった。
「エルマ……?」
「はい」
返事をした途端、いつもきっちり結ばれている口元が震えた。
「よかった……本当に……」
エルマも、こんな顔をするんだ。
普段はほとんど執務室にいて、家計簿や帳簿、屋敷の書類なんかと睨めっこしている。
私が聖堂院に通うまでは、マークと一緒に勉強を見てもらっていた。今でもマークは、時々エルマに教わっている。
歴史でも魔法でも、この世界の常識でも。何を聞いても大抵のことは答えてくれるから、昔の私は、エルマは何でも知っている人なんじゃないかと思っていた。
そんなエルマが今は、何を言えばいいのか分からないみたいに私を見ていた。
「エルマ……」
何か声をかけようとした、その時だった。
「姉ちゃん!」
「うぐっ!」
視界の端から飛び込んできたマークが、そのまま勢いよく抱きついてきた。
「痛っ! ちょ、マーク! 病み上がり! 病み上がりだから! っていうか、マークはもう大丈夫なの!?」
そうだ。私より先に、マークは《暗蝕》にやられていた。慌てて肩を掴み、首や腕を確かめる。あの時まとわりついていた黒い痕は、どこにも見当たらない。
「あ、ごめん! オレはもう全然へっちゃらさ!」
マークはそう言って、元気だと見せつけるように両腕を上げた。
「ほんとに?」
「ほんとほんと!」
その言葉を聞いて、ようやく少しだけ肩の力が抜けた。でも、マークもいつもより疲れた顔をしている気がした。目の下にはくまが残っているし、たぶんずっと心配してくれていたんだろう。
……どのくらい寝てたんだろうか?
身体を起こす。少しだるい。そこで、地下での出来事が次々と頭に蘇ってきた。
巨大な門。父さんと母さん。枢機卿とセレナ。エルヴィンの結界。額に浮かんだ、あの印。照明塔。
そして……。
「門は!?」
思わず身を乗り出した。
「ちゃんと閉じた!? 父さんと母さんは!? エルヴィン!? ジェイド師範たちは!?」
「落ち着いて、姉ちゃん!」
「皆様ご無事です」
エルマがすぐに答えた。
「旦那様も奥様も、ディディエ司祭も、フォスティエ商会のご子息も、傭兵の方々も。怪我を負った方はおられますが、命に別状はございません」
「……よかったぁ」
張り詰めていたものが、一気に抜けた。
「ここは?」
「ベルジュという村です。セレスティアから北へ、馬車で半日ほどのところにございます」
「村?」
窓の外から、大勢の人の声が聞こえている。
立ち上がって覗いてみると、教会の周りには何台もの荷車が止まり、道を行き交う人の姿が見えた。荷物を抱えた人。子どもの手を引く人。地面に座り込んでいる人。
ただの小さな村とは思えないほど、人が多い。
子どもの泣き声、誰かを呼ぶ声。
遠くでは、金槌を打つような音まで響いていた。
「クロノ様がお眠りになってから、三日が経っております」
「三日!?」
「はい」
マークがベッド脇へ腰掛けた。
「姉ちゃんが門を閉じたあとも、もう外に出ちゃってた魔族がたくさんいたんだって」
胸がざわつく。
「……どれくらい?」
私が聞くと、エルマが答えた。
「正確な数はまだ分かっておりません。ただ、二千体を超える魔族が地上へ出たと見られております」
「二千……」
思っていたより、ずっと多い。
「低位の魔族だけではありません。上級魔族や、魔将と呼ばれる個体も確認されております。現在も東護騎士団や司祭、冒険者、傭兵の方々が各地で討伐に当たっております」
「ジェイド師範たちも?」
「はい。まだセレスティア周辺に残っておられます」
「じゃあ、セレスティアは……」
エルマは、すぐには答えなかった。
「……多くの被害が出ました。住民の方々も、周辺の村や町へ避難しております」
濁しているけど、それで十分わかった。セレスティアは、もう前と同じじゃない。魔導祭の騒ぎはあったけど、つい三日前まで普通に人が暮らしていた。
私が聖堂院へ通っていた街。
イザベラとミーナとの帰り道も、
母さんとマークと買い食いした店も、
魔導祭であれだけ人が集まっていた広場も、
今はどうなっているんだろう。
「この村にも?」
「はい。ベルジュにも多くの方が避難してこられています」
だから、この騒がしさか。
「教会の礼拝堂や宿屋だけでは収まりきらず、村の家々や納屋まで使わせていただいております。それでも寝る場所が足りず……中には、ご自分の家を避難してきた方へ譲り、村の外れへ移られた方々もおります」
「……村の人が、自分の家を?」
「はい。食料も、水も、薬も……日に日に厳しくなっております」
窓の外をもう一度見る。私は三日間寝ていただけだ。でも、その間にここでは、こんなことになっていた。
「……ここって、誰の部屋?」
今さら気づいた。小さいけど、ベッドも机もある。避難民が寝る場所にも困っているなら、私たちが使っているこの部屋だって貴重なはずだ。
「この教会を預かっておられる、マルコ・ベル司祭の居室です」
「えっ」
思わず部屋を見回した。
「司祭さん、自分の部屋貸してくれたの?」
「はい。奥様と旦那様は何度も遠慮されたそうですが、マルコ司祭がぜひにと」
「うわぁ……」
急にベッドがものすごく申し訳ない物に見えてきた。
あとでちゃんとお礼言わないと。
「……父さんたちは?」
「旦那様は、村の自警団や警備を担う方々と、周辺の守りについて話をしておられます。奥様はイザベラと共に、礼拝堂で避難してこられた貴族の方々のお話を聞いておられます」
「母さんが?」
「はい。かなり不満が出ていたそうですので」
母さん、起きて早々そんなことしてるのか。
「ガストンは?」
「村の外れで、天幕の設営や荷運びを手伝っております」
「ガストンらしいね……」
あのお爺ちゃん、絶対黙々と木材とか運んでるわ。
そこでエルマが、膝の上で重ねていた手に力を込めた。
「私には、何もできませんでした」
「ん?」
「皆様が危険な目に遭っていることにも気づかず……長くソーカ家に仕えていながら」
「いやいやいや」
私は思わず手を振った。
「それは無理でしょ。私だって、地下にあんな門があるなんて知らなかったんだから」
「ですが……」
「エルマが屋敷から全部察知できたら、もう人間じゃないって」
「……クロノ様」
「父さんたちも無事だったんだから、それでいいよ」
エルマはしばらく俯いていた。やがて一度だけ深く息を吸い、いつものように背筋を伸ばす。
「……ありがとうございます」
するとマークが、何かを思い出したように顔を上げた。
「あ。そうだ」
「なに?」
「父さんと母さんが、姉ちゃんが起きたら話したいことがあるって」
「……話?」
「うん」
なんだろう。嫌な予感しかしない。ていうか、避難してきた人たちどころか、この村の人たちまで寝る場所に困っているのに、私たちだけ司祭さんの部屋まで借りてていいのだろうか。
これも母さんやソーカ家が有名だからなのかな。
そんなことを考えながら、私はマークやエルマと他愛もない話をして、その場で待った。
⸻
その日の夕方。
マルコ司祭から借りている部屋へ、ソーカ家の面々が集まった。
父さん、母さん、私、マーク。
そして珍しく、イザベラ、ガストン、エルマも一緒だ。さすがに七人も集まると狭い。
小さなテーブルを囲み、肩を寄せるように座っている。テーブルの上には、薄い野菜のスープと、小さく切り分けられたパン。
食料事情がよろしくないのは、見ただけで分かった。マークが自分のパンをじっと見つめている。
……いいたい事はわかるが、その顔やめなさい。
「クロノ、本当に身体は大丈夫なの?」
母さんが、もう何度目か分からない質問をしてくる。
「大丈夫だって。むしろ母さんたちの方が大丈夫なの?」
「私は平気よ」
「父さんは?」
「何も問題ない」
父さんはいつもの調子で答えた。でも、その顔にはまだ疲れが残っている。
「いやいや。父さん、思いっきり魔族に乗っ取られてたじゃん」
「……それを言われると返す言葉がないな」
「本当に怖かったんだからね!」
「すまなかった」
するとマークが横から口を挟んだ。
「父さんが謝ることじゃないでしょ」
言われてから、それもそうだと思った。怒ってるのか、心配してるのか、自分でも分からない。
目の前にいるのは、いつもの父さんだ。
ややふくよかで、穏やかで、剣なんか振り回しそうにもない。なのに地下で見た父さんは、まるで別人だった。あの強さも、魔族に乗っ取られたせいだったんだろうか。
そんなことを考えていると、父さんが手にしていたパンを置いた。
「クロノ。マーク」
空気が変わった。
「二人に、話しておかなければならないことがある」
母さんも何も言わない。私はマークと顔を見合わせた。しばらくして、父さんが口を開いた。
「……私には、兄が四人いた」
それは知っている。父さんが五男坊だったことは、前に聞いたことがある。でもそういえば、その兄弟の話を聞いたことは一度もなかった。
「昔のソーカ家は、今よりずっと大きな家だった」
「名門だったんだよね」
マークが口を挟む。
「知っていたのか?」
「だいたい」
マーク、なんだかんだ情報通だからな。
いつも私だけ何も知らん。
「ソーカ家は、代々魔族を探し出すことに長けていた。魔族の気配を察し、潜伏している者を見つけ出し、討つ。異端審問官を多く輩出してきた家系だ。私も神殿騎士団に所属しながら、異端審問官として働いていた」
「父さんが……異端審問官?」
「ああ」
前に神殿騎士だったとは聞いた。でも、そこまでガチガチの対魔族専門職だったとは聞いてない。
「特にソーカ家は、魔族の気配を見つける能力を買われていた。大神殿と法王を守る役目も担っていたんだ」
父さんはそこで一度言葉を切った。
「だからこそ、私たちは油断した」
父さんの表情から、いつもの穏やかさが消える。
「黄竜は、古い記録にも魔王の右腕として記されている、《魔人》と呼ばれる存在だ」
黄竜。
その名前を口にした時だけ、父さんの声には別の響きが混じっていた。
「中でも、気配を隠すことにかけては群を抜いていた。誰も気づけなかった。ソーカ家の誰一人として」
「黄竜は、私の父に入り込んだ」
「……え」
一瞬、意味が分からなかった。父さんのお父さん。
つまり。
「お爺ちゃんに……?」
「ああ」
父さんは頷いた。
「父の身体を奪った黄竜は、兄たちの身体も配下の魔族に奪わせた。そうしてソーカ家を内側から崩し、家族も、親戚も……次々と殺していった」
膝の上に置かれた父さんの拳が、白くなるほど握られていた。
「私だけが、生き残った」
「……待って」
背中が冷たくなる。
「それって……今回の父さんと、同じ……?」
「ああ」
父さんは私を見なかった。
「私は、父と同じことをされかけた」
母さんが、黙ってその拳の上へ手を重ねる。
「もしクロノが止めてくれなければ……私は父と同じように、自分の家族をこの手で……」
「父さん」
それ以上は聞きたくなかった。
「それは父さんじゃないよ」
ようやく父さんが私を見る。
「それに、起きなかったことでしょ」
しばらくして、握られていた拳から力が抜けた。
「……そうだな」
それだけ答えて、父さんは息を吐いた。
「クロノのおかげだ」
たぶん、この怖さが父さんの中からすぐに消えることはない。
「黄竜の目的は、魔王の復活だった」
話はまだ終わっていなかった。
「そのまま配下と魔獣を引き連れ、大神殿の地下へ向かった。封印されている魔王を解放するために」
「魔王って……本当に封印されてるんだ」
「ええ。されているわ」
今度は母さんが答えた。
「西の聖都アストラル。その大神殿の地下深くに」
父さんは頷く。
「黄竜の企みは、法王と神殿騎士団、それからサラサ、そして生き残った私によって阻止した」
「倒せなかったの?」
「逃げられた」
短い返事だった。
「黄竜も深手を負っていた。だが、仕留めきれなかった。奴は各地で騒動を起こしながら、東へ逃げた」
「それで父さんも……」
「ああ」
「黄竜を追って、セレスティアまで来たんだ」
「そうだ」
父さんの目の奥に、鋭い光が宿った。
「私は、あいつを討つために東へ来た」
復讐か……。
父さんはその言葉を使わなかったけど、私にはそう聞こえた。そんな物騒なものを、あの優しい父さんがずっと胸の奥に抱えていた。
私は、何も知らなかった。
「……それからは、私の話ね」
今度は母さんが、静かに口を開いた。
「入学式の時に言ってたこと?」
「そう」
「うち、秘密多すぎない?」
「クロノに言われたくないわね」
「ぐっ」
何も言い返せない。
「私の父は、ユリウス・ヨハネ・クレメンスよ」
「……はい?」
「法国を治める法王。今も西の大神殿にいるわ」
数秒、頭の中で意味を組み立てる。
法王、この国の王様。つまり、その娘。
……え?
そういえば、父さんが乗っ取られてた時にも、そんなこと言ってた気がする。
いや、あの時はそれどころじゃなかったけど!
「……母さんって、この国の王様の娘なの!?」
「そうよ」
「そうよ、じゃないよ!」
思わずテーブルを叩きそうになった。
「え、待って! じゃあ私、法王の孫!?」
「そうね」
「マークも!?」
「オレも今そこに驚いてる」
マークもちゃんとは知らなかったらしい。
「だから私、聖堂院であんな注目されてたんだ……」
「オレは、母さんがすごい人なのは知ってたけど……法王の娘までは知らなかった」
なんなんだ、この家。父さんは対魔族専門の名門貴族。母さんは法王の娘。私、急に自分の家系図を見るのが怖くなってきた。
「私は法王の娘として、幼い頃から魔王の封印を守るための教育を受けてきたの」
母さんは、昔をたどるようにゆっくり言葉を続けた。
「聖光と紅蓮を学んで、結界を張って、魔王の封印を強めたり、街や人々を守ったり。そうしているうちに、《灯火の聖女》と呼ばれるようになったわ」
「いや、『そうしてるうちに』で済ませる内容じゃないでしょ」
「母さんだからね」
マークが妙に納得している。
「黄竜が逃げたあと、グラン……お父さんは一人で東へ向かおうとした」
母さんが、隣の父さんへ顔を向ける。
「止めたのよ。何度も」
「……あの頃は、聞く耳を持っていなかったな」
「本当よ。何を言っても聞かないんだから」
父さんは何も言い返さず、黙ってスープを口にした。母さんがため息をつく。
「お父様も当然反対したわ。黄竜を追うだけでも危険なのに、私まで大神殿を離れるなんて許されるはずがないもの」
「そりゃそうだよ」
「でも」
母さんは少しだけ間を置いた。
「神殿騎士団長のレオンが、私に言ったの」
レオン。知らない名前だ。
「『後悔するくらいなら、追いなさい。法王猊下のことは私に任せて。グラン殿を一人で行かせてはいけません』って」
「あの言葉がなかったら、最後の一歩は踏み出せなかったかもしれないわね」
「で?」
「追いかけたわ」
「爺ちゃんの許可は?」
「もらってないわよ」
「……つまり?」
「家出ね」
「法王の娘が家出したぁ!?」
思わず声が裏返った。
「そういう言い方をすると、少し聞こえが悪いわね」
「他にどう言えば聞こえ良くなるの!?」
隣でマークが肩を震わせている。さっきまで張りつめていた父さんの口元も、ほんの少し緩んだ。
「だって、放っておけなかったのよ」
母さんが父さんを見る。
「この人、本当に黄竜を討つことしか考えてなかったから」
「否定はできない」
「一人にしたら、復讐だけして、そのまま死ぬつもりなんじゃないかって思った」
母さんはそこで、ふっと父さんを見る。
「だから追ったの。黄竜を倒すためでもあったけど……それ以上に、この人を一人にしたくなかった」
父さんが気まずそうにスープへ視線を落とした。
なんだ。ラブラブじゃないか。急に父さんと母さんの馴れ初めを聞かされてる気分になってきた。
「それで二人で東へ?」
「ああ。正確には、二人だけではない」
父さんは、ガストンたちへ目を向けた。
「ソーカ家からは、先代の頃から護衛と武術指南を務めていたガストンと、魔法や教育を任されていたエルマ。神殿騎士団からは、サラサの護衛騎士だったイザベラとヴァンが同行してくれた」
「……え、みんな最初から一緒だったの?」
「ああ。黄竜を追いながら、六人で各地を渡った。そして最後に辿り着いたのが、セレスティアだった」
「そこで、あなたが生まれたのよ」
母さんが私を見る。
「私?」
「ええ」
「オレは?」
「それからマークも」
「ついでみたいじゃん」
「あなたも大事に決まってるでしょう」
「ふーん」
マークがすねたようにパンを一口かじった。今食べるんかい。てか、さっきから父さんとマークだけ普通に食べてるんだけど。二人とも、身体だけじゃなく神経まで図太いらしい。
父さんが続ける。
「二人には、普通に育ってほしかった」
「普通?」
「ああ。私たちは、生まれた時から役目が決まっていた」
父さんはソーカ家の息子として、魔族を見つけ、討つために。母さんは法王の娘として、国と魔王の封印を守るために。
何をするべきか、どう生きるべきか。
二人とも、それを自分で選ぶより先に決められていたんだ。
「だから、クロノとマークには同じものを背負わせたくなかった」
母さんが続ける。
「法王の孫だからとか、ソーカ家の子だからとか。そんな理由で、あなたたちまで生き方を決められる必要はないと思ったの」
「何が好きなのか。何をしたいのか。それを自分で見つけて、自分で選んでほしかった」
父さんがそう言って、少しだけ笑った。
「だから黙っていた」
私は、二人の顔を見た。
その時になって、今まで当たり前だと思っていたことが、少しずつ違って見えてきた。
魔法が使えなくても、父さんも母さんも私を責めなかった。何か変なことを始めても、呆れたり怒ったりはしたけど、頭ごなしにやめろとは言わなかった。
マークが好きなことに夢中になっていても、好きにさせていた。私たちに「こうなりなさい」と言ったことなんて、一度もない。
あれは全部、ただ甘やかしていたわけじゃなかったんだ。
「……そっか」
ようやく分かった気がした。
父さんと母さんは、自分たちが選べなかったものを、私たちには選ばせてくれていたんだ。
「じゃあ」
マークが手を上げた。
「オレも言っておいた方がいいよね」
なんだ、お前もあるんか。体重が限界を超えたか?
「何?」
「オレ、人の色が見えるんだ」
「……色?」
「魔法の色」
さらっと言った。
「父さんは緑。母さんは赤と白。オレは赤と白と黄色」
「ちょっと待って」
「姉ちゃんは何もない」
「そんなチートあったの!?」
「うん」
「いつから!?」
「結構前から」
「結構前!? アバウトすぎ!」
私が魔力ゼロを隠すために、どれだけ苦労したと思ってるんだ。
「じゃあ、私は前世のことまでマークに話してたのに、それ隠してたの!?」
「うん」
「言えよ!」
「姉ちゃんも父さんと母さんには言わなかったじゃん」
「ぐぬぬ……!」
正論をぶつけるんじゃない。
「それだけじゃないんだ」
マークが少し真面目な顔になった。
「たまに、人の色の奥が黒く濁って見えることがある」
父さんの表情が変わった。
「アルフォンス猊下を見た時も、黒く見えていたのか?」
「うん。真っ黒だった」
父さんがしばらく黙り込む。
「……お前が思っている以上に、特別な力なのかもしれないな」
「そうなの?」
マークはきょとんとしていたが、そこで何かを思い出したように「あ」と声を上げた。
「そういえば、枢機卿の隣にいた女の人も前に見たことあるよ」
「……え?」
母さんがマークを見る。
「いつ?」
「結構前。街で母さんのこと見てた。遠かったけど、あの人の黒いのだけはすごくはっきり見えた」
「それ、なんで今まで言わなかったの!?」
「言うタイミングがなくて……」
「タイミングとかじゃないでしょ!」
「ごめん、姉ちゃん」
「今度私に隠し事したら、マジでポテチ出さないからね!」
「それはやめて!」
マークの顔色が変わった。いや、今回はマジで怒った。母さんは額を押さえ、父さんは何とも言えない顔をしている。
「それから」
母さんがマークを見る。
「あなたの黄色のことだけど」
「これ?」
マークが自分の手を見つめる。
「おそらく、雷鳴よ」
「雷鳴……」
「魔王と戦うために現れるとされる、特別な力」
父さんが続ける。
「伝承では、雷鳴を宿す者は魔王と戦うために現れる。その者を、勇者と呼ぶ」
「…………」
数秒の沈黙。
「マーク、勇者なの!?」
「オレに聞かれても分かんないよ!」
「両親が英雄で、弟が勇者だった件!」
「姉ちゃんうるさい!」
うち、おかしくない?
父さんは魔族狩りの騎士で、
母さんは法王の娘で聖女、
んでもって弟はオタクの勇者。
……なんなんだ、この家。
まあ、私も人のこと言えないんだけど。
「クロノ」
父さんが私を見る。
「お前についても、話を聞いている」
ぎくっ。
「誰から?」
「ディディエ司祭からは以前から報告を受けていた。事件のあとにはエルヴィン君、それから現場にいた傭兵たちからもな」
逃げ道が塞がれた。
「……何を?」
「地下で、お前の額に奇妙な紋章が現れたそうだな」
「…………」
「二つの輪が連なったような印」
∞。
「あれは古い聖典では、創造神クロノアに結びつけられる紋章として記されている。太古の昔、《聖王》に現れた印ともな」
そんな大層なものだったの!?
「それに、お前が魔力を使わず、見たこともない道具を生み出していたことも知っている」
父さんは責めるでもなく、ただ事実を確認するように言った。
「……まあ、ここまでやったら、さすがに隠しきれないよね」
ここまで来たら、もう逃げる理由もなかった。
「私も」
声が少し震えた。
「私も、話してないことがある」
マークがこちらを見る。父さんと母さん。
イザベラも、ガストンも、エルマも。
心臓が妙にうるさい。今まで何度も考えた。
もし話したら、どうなるんだろうって。
「私……この世界に生まれる前の記憶がある」
誰も口を挟まない。
「別の世界で、一度生きてた。そこで死んで、それから気づいたら、こっちで赤ちゃんになってた」
母さんの目がわずかに見開かれた。
「私が今まで出してた物も、全部その世界にあった物なの。食べ物も、道具も、遊ぶ物も……私が前の世界で見たり、使ったりしたことがある物」
少しだけ息を吸う。
「《限界具現〈ゲンカイ・マテリアライズ〉》は、私が前の世界で知ってた物を、この世界に出す力なんだ」
マークが頷いた。
「バレてたけどね」
「そ、そうなの!? ……って、マーク、今は私のターン!」
「はい!」
なんで私の人生最大級の告白で、お前だけ平常運転なんだ。でも、そのおかげで少しだけ息ができた。
「……怖かったんだ」
私は続ける。
「変な目で見られるのも怖かったけど。それより……」
父さんと母さんを見る。
「気持ち悪いって思われるのが怖かった」
母さんの指先が、ぴくりと動いた。
「本当のクロノはどこに行ったんだって。私が誰かの身体を奪ったみたいに思われたらどうしようって」
喉の奥が詰まる。
「私のこと……娘じゃないって思われるのが、一番怖かった」
誰も、すぐには答えなかった。その沈黙が、やけに長く感じる。言わなきゃよかったかな。
「クロノ」
椅子が鳴った。
母さんが立ち上がり、そのまま私を抱きしめた。
「あなたはクロノでしょう?」
「……母さん」
「十年間育ててきた娘を、そんな話一つで娘じゃないなんて思えるわけないでしょう」
抱きしめる腕に、少しだけ力がこもる。
「前の世界で誰だったとしても、この世界で泣いたり、笑ったり、マークと喧嘩したりしてきたのはあなたよ」
「私も同じだ」
父さんが言う。
いつの間にか、こちらへ手を伸ばしていた。
大きな手が、私の頭に乗る。
「お前がどこから来たとしても、私たちの娘であることは変わらない」
「……本当に?」
「ああ」
その一言で、胸の奥にずっと引っかかっていたものがほどけた。
転生してから十年。ずっと怖かった。
でも今、初めてもう隠さなくていいんだと思えた。
「姉ちゃん、泣いてる」
「うるさい」
「鼻も赤い」
「ポテ……」
「ごめんなさい!」
すると母さんが、私を抱いたまま付け足した。
「それに、変な物も山ほど出してきたものね」
「今それ言う!? マーク、援護!」
「……さっき私のターンって言ってたじゃん」
部屋に笑い声が広がった。イザベラは何も言わなかった。ただ、いつもより強く唇を結んでいる。エルマはハンカチを口元へ当て、ガストンはいつもの顔のままだった。ただ、私と目が合うと、ほんの一度だけ頷いた。
「クロノ。マーク」
父さんが改めて私たちを見る。
「今日の話を聞けば、自分たちには何か大きな役目があると思うかもしれない」
勇者、創造神クロノアの紋章。
確かに、字面だけならだいぶ重い。
「だが、それに従う必要はない」
母さんも頷く。
「マークが本当に勇者だとしても、クロノがどれだけ特別な力を持っていたとしても」
そして、はっきりと言った。
「あなたたちの人生は、あなたたちのものよ」
その言葉が、すっと胸に落ちてきた。
「ていうかさ」
マークがふっと笑った。
「父さんと母さんの願い、ちゃんと叶ってるよ」
二人が首を傾げる。
「だって姉ちゃん、めちゃくちゃ好き勝手に育ってきたもん」
父さんが吹き出した。
「それは……否定できないな」
「ちょっと父さん!」
「クロノ、そこは自覚しなさい」
「母さんまで!」
でも、私も笑った。
たしかに、好き勝手に育った。
好きなことをして、好きなものに夢中になって。
変な物を呼び出して、友達を作って。
誰かに決められたからじゃない。
全部、私が選んできた。
「……じゃあ、これからもそうする」
自分の胸に手を当てる。
「勇者とか、印とか、宿命とか。そんなの知らない」
マークを見る。
「マークだってそう。勇者だからって、やりたくないことする必要ないでしょ」
「うん」
「私も、自分がやりたいことしかやらない」
窓の外から、子どもの泣き声が聞こえた。
荷車が軋み、人の声が重なる。
家を失って逃げてきた人たち。
そして、その人たちを受け入れるために、自分の家まで明け渡した村の人たち。
食べるものも、眠る場所も。
明日どうなるかも分からない人たちが、この小さな村にあふれている。
誰かに言われたからじゃない。
何か特別な役目があるからでもない。
変な印が出たからでもない。
「で」
私は窓辺まで歩き、外を見る。
「今、私がやりたいのは、この村で困ってる人たちを助けること」
その瞬間、額が熱を持った。
「クロノ!」
母さんが声を上げる。みんなが驚いたように、一斉に私を見た。視界の端で、淡い光が揺れている。額へ手を当てなくても分かった。
《∞》。
でも、今度は苦しくない。意識もはっきりしている。そして、頭の片隅にずっとあった感覚が消えていた。
一日に何回、あと何回、消すのにも一回、眠れば回復。そんな数字が、どこにもない。
ただ一つだけ、はっきりと分かる。
《限界具現〈ゲンカイ・マテリアライズ〉》。
残り回数、∞。
「……やっぱり」
思わず笑った。回数の制限は、なくなっていた。
「ね! マーク!」
弟を見ると、マークも勢いよく立ち上がった。
その瞬間、髪がふわりと逆立つ。
「うん!」
「私とマークに任せて!」
「任せて!」
父さんと母さんは、しばらく何も言わなかった。
「……いい子に育ったわね」
「ああ」
父さんは、それだけ答えた。
なんだこれ。めちゃくちゃ感動的な空気になってる。こういうの、ちょっと恥ずかしいんだけど。
「よし!」
私は勢いよく振り返った。
「さあ、参謀マーク!」
「はい!」
「とりあえず、この村の問題点を解決するよ! 何からいこうか!」
マークは腕を組み、本気で考え始めた。
そして。
ぐぅぅぅぅ。
マークの腹が盛大に鳴った。
今の食事じゃ、足りなかったらしい。
「……まずは、食料からかな!」
私はじっと弟を見る。
「それ、村のためだよね?」
「もちろん!」
即答。
……怪しい。
でもまあ、食料が足りないのは本当だ。
だったら、まずはそこから始めよう。




