第55話 魔人は遊ぶ
ディディエ司祭の声に、私は弾かれたように父さんから距離を取った。
その横をジェイド師範が一気に駆け抜け、続いてガフ、バルド、セイルが地下空間へなだれ込んでくる。
「ガフ!」
「おう!」
ジェイド師範の声に応じ、ガフが盾を構えて父さんとの間に割り込んだ。バルドとセイルも左右へ散り、ついさっきまで私一人しかいなかった場所に、あっという間に四人の大人が陣取る。
「クロノさん、こちらへ!」
振り返ると、ディディエ司祭が私と父さんたちの間へ入り、片手を床へ向けていた。ごごっ、と低い音を立て、私たちを守るように分厚い岩壁がせり上がる。
その後ろには、息を切らしたエルヴィンがいた。
「クロノさん!」
「エルヴィン……」
「だから待ってくださいって言ったでしょう!」
「ご、ごめん……」
怒られた。最近怒られてばかりだな……。
でも、今はその声すらありがたかった。
ジェイド師範もいる。ディディエ司祭もいる。何故かガフたちまでいる。さっきまで一人で父さんと母さんを相手にしていた時とは違う。
これなら、もしかして。
「あら」
母さんの声がした。
巨大な門の前に立ったまま、こちらを振り返っている。けれど、その口元に浮かんだ笑みを見ても、もう母さんだとは思えなかった。
「あなたたち、そちらについたのね。ローザはもうどうでもいいのかしら?」
ガフの眉がぴくりと動いた。盾を構えたまま母さんを睨み、低く舌打ちする。
「……ちっ。その喋り方。セレナの中にいた奴か」
その言葉を聞いた瞬間、校外学習の海辺で会った、あの妖艶な女の顔が浮かんだ。
やっぱり、母さんの笑い方が似ていたんじゃない。
中にいるのが、同じなんだ。
「ふふっ、覚えていてくれたのね」
「忘れるかよ。ローザなら心配いらねぇ。もうこの司祭に頼んで、治してもらう手筈は済んでる」
ガフが一瞬だけディディエ司祭へ視線を向ける。
「ですが、その前に、この状況をどうにかしなければなりませんね」
「だな」
母さんの姿をした女は、興味を失ったように肩をすくめた。
「そう。なら好きにすればいいわ」
再び門へ片手を向ける。白い聖光が流れ込み、扉を覆っていた白い模様がまた一つ、音もなく消えた。
「ジェイド師範!」
「分かってる!」
私が叫ぶより早く、ジェイド師範は剣へ手をかけていた。
だけど、その前に父さんが立つ。
いや、父さんの身体を使っている、なにかが。
「その傭兵たち、なかなかの手練よ。油断しない方がいいわ」
「へぇ」
父さんが楽しそうに笑った。門の方へ視線だけを向ける。
「君は引き続き、そっちを頼むよ」
「言われなくてもそのつもり」
「じゃあ……」
父さんが司祭服の内へ手を入れた。次の瞬間、剣と盾が滑るように姿を現す。
「……え?」
取り出してから構えるまで、その動きに迷いはない。
父さんは、普段そんな物騒なものを持ち歩く人ではない。それなのに、どちらも昔から使い続けてきたものみたいに手へ馴染んでいた。
父さんの中の何かが、剣先を軽く持ち上げる。
「こっちは僕が遊んであげよう」
「ずいぶん余裕じゃねぇか」
バルドがハルバードを構えた。
「そう見えるかい?」
「見える。その余裕がいつまで続くか試してやるよ」
「……バルド」
セイルが父さんを見据えたまま、低く言った。
「こいつ、今までのとは格が違うぞ」
「チッ……分かってるっつーの」
セイルも槍を構え直す。ジェイド師範は二人のやり取りを聞きながら、三人へ素早く視線を巡らせた。
「まずは奴を押さえる。身体は借り物だ。殺すなよ。ガフは俺と正面、バルドは右。セイルは左から足を止めろ。ディディエ、クロノたちを頼む」
「了解」
「おう」
「分かった」
「任せてください」
たった数秒で、全員の役割が決まった。
父さんは門へ続く中央に立ち、その十数歩ほど後ろに母さんと巨大な門がある。左右には太い石柱が何本も並び、私とエルヴィンの前にはディディエ司祭。
つまり、父さんさえ押さえれば母さんまで届く。
ジェイド師範たちが、それぞれ武器を構えた。
ガフの《鏡盾式》。バルドの《破剣式》。そしてジェイド師範は、二人の動きに合わせるように重心を落とし、《迅玉式》の構えを取った。その横では、セイルがすでに蒼氷魔法の詠唱へ入っている。
どれも学院で見てきたものとは少し違って見えた。足の置き方も、武器の角度も、身体の沈め方も違う。それなのに、むしろこちらの方が完成されているように見えた。長い実戦の中で、余計なものを削ぎ落としてきたような構えだ。
その場に満ちる気迫に、思わず息を呑む。
みんな、本気だ。
「行くぞ!」
ジェイド師範の声と同時に、ガフが一直線に飛び込んだ。
父さんの剣が振り下ろされる。金属同士が激しくぶつかり、地下に甲高い音が響いた。
けれど、ガフは力任せに受け止めない。盾を斜めに滑らせ、振り下ろされた剣を外側へ流す。
「今だ!」
空いた正面へジェイド師範が踏み込み、父さんの剣を持つ腕へ斬りつける。それとほとんど同時に、右側からバルドのハルバードが低い軌道で迫った。
「おらぁっ!」
さらに左側から、白い冷気が石床を走る。
「凍てつく息吹よ、地を這い、その足を縛れ――《氷縛陣》!」
セイルが床へ手を向けると、蒼白い冷気が一気に父さんの足元まで奔った。霜が靴へ絡みつき、そのまま脛までを厚い氷で包み込む。
その後ろでは、ディディエ司祭が私とエルヴィンを庇うように杖を構えている。
前にはガフとジェイド師範。右にはバルド。足元はセイルの蒼氷。
父さんの身体のことが心配で、素直に喜ぶ気にはなれない。
それでも。
お願いだから、このまま何とか止めて。
「おぉ」
囲まれているはずの父さんが、なぜか楽しそうに声を上げた。
「ちゃんと考えてるんだねぇ」
それでも、四人の攻撃は止まらなかった。
ガフが正面を塞ぎ、ジェイド師範がその隙を突く。父さんが身をかわそうとすれば、今度はバルドがその先へ回り込む。さらにセイルの蒼氷が足元から動きを封じ、逃げ道を削っていく。
一つを防げば次が来る。避けた先には、もう別の攻撃が待っていた。
まるで四人で一人を攻めているんじゃない。最初から全部の動きが決まっていたみたいだった。
「……すご」
これが、実戦を潜り抜けてきた人たちの戦いなんだ。
だけど。
「いいねぇ」
父さんは笑っていた。
ジェイド師範の剣を盾で流し、身体をわずかに沈めてバルドの刃をかわす。ガフが逃げ道を塞ぐように踏み込めば、その力に逆らわず位置をずらし、足元を封じていた氷さえ、いつの間にか砕いて抜け出している。
おかしい。
四人がこれだけ激しく動いているのに、父さんだけはほとんどその場から動いていない。剣を少し傾ける。半歩だけずれる。盾をひとつ返す。たったそれだけで、ジェイド師範たちの攻撃が次々と空を切っていく。
まるで、四人の方が父さんに動かされているみたいだった。
ジェイド師範たちの猛攻は途切れない。それでも父さんは危なげなく、全部を受け流していく。
「……ありえない」
私には、もう誰がいつ攻撃して、父さんがどう防いだのかすら追えなかった。
ただ一つだけ分かる。
四人が本気で父さんを押さえようとしているのに、父さんの中にいるあいつだけは、まだ楽しそうに笑っている。
「なかなかやるねぇ」
父さんが笑った。
その直後。
ぶわっ!
「きゃっ!」
凄まじい風が地下空間を駆け抜けた。
反射的に腕で顔を庇り、ぎゅっと目を閉じる。髪がめちゃくちゃに煽られ、身体まで後ろへ持っていかれそうになる。
しばらくして風が弱まり、恐る恐る目を開ける。
「……え?」
さっきまで父さんを囲んでいた四人が、全員ばらばらの場所へ吹き飛ばされていた。
ガフは盾を構えたまま床を滑り、バルドは石床へ片膝をついている。ジェイド師範も離れた場所で剣を支えに立ち上がり、セイルの足元には砕けた氷が散らばっていた。
その中心で、父さんだけが何事もなかったみたいに立っている。
「今の……」
「……翠嵐魔法です」
隣でエルヴィンが呟いた。いつもの落ち着いた顔は消え、父さんを見つめる目が険しくなっている。
その父さんの中にいる何かは、吹き飛ばした四人ではなく、自分の身体の方に興味を持ったらしい。手を開き、確かめるように何度か握り直す。
「……へぇ。やはりこの身体、すこぶる調子がいいねぇ」
剣を軽く振るだけで、その周囲に風がまとわりついた。
「昔の身体を思い出すよ」
何を言ってるんだ。
昔の身体?
そんなことより、私は父さんから目を離せなかった。
父さんって……こんなことできたの?
中にいる何かが、父さんの身体を使っているから?
司祭なんだから魔法が使えることくらいは知っている。昔、神殿騎士団にいたことも聞いた。でも、あの四人をまとめて相手にして、平然としていられる人だなんて知らない。
「もう一度だ!」
ジェイド師範の号令で、四人が再び飛び込んだ。
けれど、結果は変わらない。
ガフが詰めれば力の向きをずらされ、バルドのハルバードは盾の縁で軌道を外される。セイルの冷気を避けながら、ジェイド師範の剣まで紙一重でかわしていく。
それでも父さんは、誰一人仕留めようとはしなかった。
ただ、楽しそうに攻撃をいなし続けている。
「……遊ばれてる」
隣でエルヴィンが呟いた。
その一言で、さっきから感じていた違和感がすっと腑に落ちた。
父さんの中にいるあいつは、みんなを倒そうとしているんじゃない。必死に向かってくる四人を相手に、その様子を楽しんでいる。
「……舐めやがって」
ジェイド師範も同じことに気づいたらしい。一度距離を取り、父さんを睨みつける。
「最初から俺たちを倒す気すらねぇのか」
「倒す?」
父さんが不思議そうに首を傾げた。
「せっかくこれから面白いものが見られるのに?」
口元を緩める。
「君たちがどこまで足掻けるか、もう少し見ていたいしねぇ」
こいつ……本当に遊んでる。
「全員、一度下がってください!」
ディディエ司祭が叫んだ。
「もう《翠嵐鏡》の身体を完全に使いこなしています! まともに押さえ込める相手ではありません!」
「……すいらん、きょう?」
思わず声が漏れた。
「それって……父さんのこと?」
誰も答えない。
父さんの中にいる何かだけが、面白そうにこっちを見た。
「へぇ。娘には何も話してないんだね。ちなみに、君の母親は西の大神殿で、魔王様を封じる法王の娘で――」
「クロノさん!」
ディディエ司祭の声が遮った。
「耳を傾けてはいけません!」
「……!」
法王の娘? 魔王を封じる?
思わず母さんを見る。
白い聖光が、今も巨大な門へ流れ込み続けている。
「……え」
減ってる。
最初は幾重にも門を覆っていた白い模様が、もう半分も残っていない。私たちが父さんに気を取られている間にも、一つ、また一つと消えていた。
「ジェイドさん!」
「ああ。作戦を変える!」
ジェイド師範が門を見据えた。
「奴を押さえるのは後だ! 一人通せばいい! まずは聖女を門から引き剥がせ!」
その一言で、全員の動きが変わった。
「ガフと俺が正面で引きつける! バルドは右、セイルは左から抜けろ!」
「おう!」
「了解!」
バルドとセイルが、父さんではなく、その向こうにいる母さんを見た。
地下空間には何本もの太い石柱が並んでいる。父さんが中央を塞いでいても、その左右には十分な隙間がある。
二人で左右から回り込むつもりだ。
「行くぞ!」
ガフとジェイド師範が同時に正面から飛び込んだ。ガフの盾と父さんの剣が激突し、鈍い音が地下空間に響く。
今度のガフは受け流さない。身体ごとぶつかるように押し込み、父さんをその場へ縫い止める。
「ぐっ……!」
「おぉ」
父さんの足が、初めてわずかに後ろへ滑った。そこへジェイド師範の剣が続く。
父さんがそれを剣で受けた瞬間だった。
「今だ! 行け!」
右側の石柱沿いをバルドが駆ける。反対側ではセイルも一気に走り出した。
二人とも父さんには目もくれない。狙っているのは、その先にいる母さんだけだ。
「抜けた……!」
父さんの左右を二人が通り過ぎる。
いける。
そう思った、その時だった。
父さんの目から、ほんの一瞬だけ笑みが消えた。
「これはいけない……」
けれど、すぐにまた楽しそうに口元を緩める。ガフの盾へ剣を押し当てたまま、父さんが笑った。
「なら、これはどうかな」
剣を引く。
その刀身に、翠色の風が絡みついた。
「天を奔る風よ、我が刃に集いて、阻むものを薙ぎ払え――」
ぞわり、と空気が震えた。
「《烈風剣》」
父さんが剣を横薙ぎに振り抜いた。
一閃。
翠色の斬撃が、左右へ抜けたバルドとセイルをまとめて薙ぐように広がった。何が飛んだのか、私にはほとんど見えなかった。
ただ次の瞬間、二人の間に立っていた太い石柱へ一本の線が走った。
「え……」
ずるり、と上半分がずれる。
直後、轟音とともに石柱が真っ二つに崩れ落ちた。
「ぐあっ!」
「くっ……!」
同時に、バルドとセイルの身体も左右へ吹き飛ばされる。
バルドは咄嗟にハルバードを盾にしたらしい。けれど衝撃までは殺しきれず、石床を何度も転がって止まった。
セイルも蒼氷の壁を展開していた。だが、それすら砕かれ、そのまま別の石柱の根元へ叩きつけられる。
「バルド! セイル!」
二人とも倒れたまま動かない。血を流してはいる。でも、身体が斬り裂かれているわけじゃない。
真っ二つになった石柱を見る。
もし、あれと同じものをまともに二人へ当てていたら。
考えるだけで背筋が冷たくなった。
……手加減したんだ。
「惜しかったねぇ。でもさすがに人数が多いか。バラバラに動かれても面倒だ」
父さんが空いた左手を下へ向けた。
「影よ、這え。血を蝕み、その身を黒く染めろ――《暗蝕》」
黒い靄が床を這い、バルドとセイルの身体へ絡みついた。
「なっ……!」
あれは、マークやイザベラ、ガストンの首筋に浮かんでいた、あの黒い痣。
靄が消れたあと、二人の肌にも細い黒筋がじわりと浮かび上がる。
父さんは何事もなかったみたいに、剣を肩へ乗せた。
「これで少し静かになるかな」
「バルド! セイル!」
ガフが叫ぶ。それでも二人から返事はない。
ジェイド師範は歯を食いしばり、剣を握り直した。ガフも荒い息を吐きながら、もう一度盾を構える。
前衛は、もう二人しか立っていない。
それでも父さんだけは、息一つ乱さず笑っていた。
その時。
ぱきん。
戦いの音に比べれば、あまりにも小さな音だった。
けれど、なぜかはっきり聞こえた。
母さんの前。
巨大な門を覆っていた最後の白い模様が、消えた。
「……終わったわ」
母さんの姿をした女が、ゆっくりと手を下ろす。
全員の動きが止まった。
「おや。もう終わったのかい」
「ええ」
母さんが口元を緩める。
「思っていたより、この身体は使いやすかったわ」
ごごごごご……。
足元が揺れた。
「な、何……?」
巨大な黒い門が震えている。
今まで無数の白い模様に覆われていた両開きの扉。その中央に、細い黒い線が走った。
「まさか……」
「全員、下がれ!」
ジェイド師範が叫ぶ。
次の瞬間、巨大な扉が、ずずずずず……とゆっくり左右へ開き始めた。
その隙間の向こうには、何も見えない。
真っ暗だった。
夜よりも、昨日の黒霧よりも、もっと深い闇。
その闇が門の隙間から地下空間へ染み出し、床を這うように広がっていく。
父さんの姿をした何かが、開いていく門を見上げた。
そして、私たちを振り返る。
「お待たせ」
にっこりと笑う。
「君たちが、この地獄の最初の目撃者だ」
「……え?」
闇の奥で、何かが動いた。
一つ。
二つ。
違う。
その後ろにもいる。
さらに、その奥にも。
何十、何百……数えられない。
次の瞬間、門の向こうから影が雪崩れ込んできた。
「うわっ!」
人の身体に獣の頭を持つような影。鱗に覆われた魚人のような影。大きな翼を広げた鳥人のような影。
どれも確かな形を持っているようで、輪郭は黒い靄みたいに揺らいでいる。
そんな異形の影が、次から次へと巨大な門を抜けてきた。
父さんが笑う。
「はーっはっはっは」
母さんがゆっくりと片手を掲げた。
「さあ、行きなさい。まずはこの栄都セレスティアから堕としてしまいましょう」
「魔族……」
ディディエ司祭の掠れた声が聞こえた。
「何ですか……これ……」
エルヴィンの声も震えている。
あまりの数に、誰もすぐには反応できなかった。
異形の群れは、こちらへ向かってこなかった。そのまま黒い奔流となって宙を流れ、私たちの頭上をぶわっと通り過ぎていく。
獣の頭を持つものも、魚人のようなものも、鳥人のようなものも。
まるで何かに引かれているみたいに、次から次へと地上へ続く階段へ殺到していった。
「待っ……」
声が出なかった。
あの階段の先には聖堂院がある。その向こうには街があって、何も知らない人たちが大勢暮らしている。
なのに、何から止めればいいのかも分からない。
どんどん出てくる。
それでもまだ終わらない。巨大な門の奥には、さらに無数の影が蠢いていた。
私はただ、その光景を見ていた。
「……嘘でしょ」




