第54話 母さんの笑い方
マークの手を握ったまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
目を覚ました時には、もうだいぶ日が高くなっていた。
マークもイザベラもガストンも、まだ眠っている。三人とも昨日より顔色はよさそうで、黒い痣もかなり薄くなっていた。
少しだけ安心した。
それとは別に、昨日から走り回って、黒い霧の中にも入って、そのまま治療院で一晩である。服も身体もなんとなくべたついていて、ものすごく気持ち悪い。
……風呂入りたい。
治療院の人に頼んで、患者用の浴室を借りた。
石造りの浴槽に張られたお湯は、壁に埋め込まれた紅蓮の魔石で温めているらしい。こういうところだけ見ると、魔法って本当に便利である。
とはいえ、シャンプーまではないので、そこはいつもの《限界具現》頼みだ。
髪を洗い、湯船に肩まで浸かる。
「はぁぁ……」
思わず声が漏れた。
昨日から酷使しっぱなしだった身体に、お湯が染みる。
しばらく何も考えずにぼんやりしていたけれど、静かになると結局、頭に浮かぶのは同じことだった。
父さんと母さん。
二人とも、どこにいるんだろう。
昨日は黒霧のもっと奥で戦っていると聞いた。ディディエ司祭たちにも任せたし、父さんと母さんなら大丈夫だと思っていたけれど、結局一晩経っても顔を見ていない。
マークたちがあんな状態になっていることだって、まだ知らないはずだ。
「早く帰ってきてよ……」
小さく呟き、もう一度肩まで湯に沈んだ。
風呂を出たあとは、《限界具現》でコーヒー牛乳を一本。
「んー、美味しい」
やはり風呂上がりにはこれである。
身体はすっかりさっぱりした。
でも、気持ちは全然落ち着かない。
少し風に当たりたくなって屋上へ向かうと、そこには街を見渡せる見晴らし台があった。
昼の風に吹かれながら、ぼんやりと街を眺める。聖堂院の方では、昨日の騒ぎの後始末をしているのか、人の出入りが多かった。
その中に、見覚えのある二人の姿を見つけた。
「……え?」
思わず身を乗り出す。
遠目でも分かる、少し恰幅のいい体つきに白い司祭服。その隣には、赤を基調に白い布地を合わせた、見慣れた貴族仕立てのドレス。
間違いない。
「父さーん! 母さーん!」
何度呼んでも、さすがにここからでは届かない。
二人はそのまま、聖堂院の方へ歩いていく。
無事だったんだ。
そう思った瞬間、もうじっとしていられなかった。私は急いで見晴らし台を下り、そのまま治療院の外へ飛び出した。
「クロノさん!」
走り出したところで、頭上から聞き覚えのある声が飛んできた。振り返って見上げると、さっきまで私がいた見晴らし台から、エルヴィンが身を乗り出している。
昨日の黒霧はもう消えたこと。でも、父さんと母さんの姿はまだ確認されていないこと。それから、枢機卿が何かに身体を乗っ取られていたかもしれないという話まで聞かされた。
司祭へ知らせてから追った方がいい。
エルヴィンはそう言った。
でも、私が見たのは間違いなく父さんと母さんだった。それよりも今は、ようやく二人の無事な姿を見つけられたことの方が大きかった。
そうこうしている間にも、二人はどんどん遠ざかっていく。
「ごめん、エルヴィン! マークたちが無事だって伝えないと!」
私はそのまま二人を追った。
⸻
途中で《限界具現》したビーノたんを走らせ、ようやく二人の姿を捉えた時には、もう聖堂院の敷地まで来ていた。
ちょうど学院の西端にある、古びた建物へ入っていくところだった。
「いた!」
思わず声が出る。
そこで、少しだけ引っかかった。
確か、あそこって立入禁止じゃなかったっけ? 入学した時、近づかないようにと言われた覚えがある。
でも、父さんと母さんが入っていったのは間違いない。ここまで追ってきて帰るわけにもいかない。
ビーノたんを建物の脇へ止め、私も二人のあとを追った。
中には、人の気配がなかった。
「父さん? 母さん?」
呼びながら廊下を進み、途中にある部屋をいくつか覗いてみる。
ある部屋には、難しそうな印がびっしり書き込まれた紙が、壁や机の上に何枚も並べられていた。
結界……ってやつかな。
よく分からないけれど、何かを研究している部屋みたいだ。
別の部屋には、魔獣の姿や、どう見ても人間とは思えない何かが描かれた資料が積まれていた。
角の生えた人型。黒い翼を持つもの。
見ているだけで嫌な感じがして、私はすぐにその部屋から離れた。
「……何なの、ここ」
廊下の奥まで進むと、上へ続く階段と、地下へ続く階段に行き当たった。
二階へ向かう方は暗い。
一方、地下へ続く階段には、魔力灯がぽつぽつと灯っていた。父さんと母さんが行ったのは、たぶんこっちだ。
私はソーカの杖を握り直し、その階段へ足を踏み入れた。
思っていたよりも、ずっと深い。
壁には一定間隔で魔力灯が並んでいるけれど、ところどころ消えていて薄暗い。下へ降りれば降りるほど、空気まで冷たくなっていくような気がした。
「父さん! 母さん! いるんでしょ!」
返事はない。
なんで二人が、こんなところにいるんだろう。
エルヴィンに言われたことが、今さら頭をよぎった。黒霧は消えたのに、二人は見つかっていない。
でも、だからって何だ。
さっき私が見たのは、間違いなく父さんと母さんだった。あの二人が本当に父さんと母さんなのかなんて、そこまで疑い始めたら何も信じられなくなる。余計な考えを振り払い、さらに階段を下りていく。
やがて、その先で景色が一気に開けた。
「……なに、ここ」
思わず足が止まる。
地下とは思えないほど巨大な空間だった。
なんだか、ものすごく既視感がある。
いつぞやの、霧絹蜘蛛の洞窟。ただし、今回のパーティーメンバーは私一人である。
天井は聖堂院の大講堂よりもずっと高く、何本もの太い石柱が並んでいる。壁や床には見たことのない模様が刻まれ、その淡い光だけが広い地下空間を照らしていた。
そして、その最奥。
壁いっぱいに埋め込まれるように、巨大な両開きの扉があった。
門……なのかな。
黒っぽい材質で造られた扉には、白く輝く見慣れない模様がいくつも浮かび、その上から鎖みたいな光が何重にも絡みついている。
明らかに普通の扉じゃない。
でも今は、そんなものどうでもよかった。
その前に、二人の人影が立っていたからだ。
「父さん! 母さん!」
二人が振り返る。
父さんの表情が、一瞬だけ鋭くなった。
私を見るなり、反射的に身構えたようにも見えたけれど、その横で母さんがすぐに返事をした。
「あら! クロノ!」
その声を聞くと、父さんもすぐにいつもの穏やかな表情へ戻った。
「んん? クロノじゃないか」
「……どうしてここに来たの?」
父さんと母さん。
顔を見た瞬間、胸の奥にずっと詰まっていたものが一気にほどけた。
「よかった……!」
私は二人の近くまで走った。
「父さん! 母さん! こんなところで何してんの!?」
「それは……」
父さんが少し困ったように眉を下げる。
「色々あってね。心配をかけた」
「色々って何!? 昨日から二人とも帰ってこないし、治療院にも来ないし!」
「ごめんなさいね、クロノ」
母さんも申し訳なさそうに私を見る。
「あなたにも心配をかけてしまったわね」
「ほんとだよ! それどころじゃなかったんだから!」
そうだ。
二人にも早く教えないと。
「マークたちは無事だよ!」
「マークが?」
母さんの表情が変わった。
「何かあったの?」
「大ありだよ! マークもイザベラもガストンも、暗蝕っていうのにやられてたの!」
「暗蝕……」
父さんの表情も険しくなる。
「うん。首のところとか真っ黒になってて、三人とも意識なくて……私、本当にどうなるかと思ったんだから」
「それで、今は?」
母さんがすぐに聞いてきた。
「附属の治療院。聖水で進行も止まってるし、ちゃんと治せるって。さっき見た時は、痣も昨日よりずっと薄くなってた」
「そう……」
母さんが胸元に手を添え、ほっと息を吐いた。
「よかった。本当に……」
「治療院にいるなら、ひとまず安心だな」
父さんもそう言って表情を緩める。
その様子を見て、ようやく肩の力が抜けた。
……やっぱり父さんと母さんじゃん。
何を変なこと考えてたんだ、私は。
エルヴィンにあんな話をされたせいで、こっちまで疑い深くなっていたらしい。
「もう……本当に心配したんだからね。マークたちは倒れてるし、父さんと母さんはいなくなるし。私、昨日からずっと走り回ってる気がする」
「ごめんなさいね」
母さんが私を見て、ふっと口元を緩めた。
「ふふっ」
ぞわっ、と背中を冷たいものが走った。
「……え?」
母さんが不思議そうに首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
ただ笑っただけだ。なのに、その笑い方が妙に引っかかった。どこかで見た気がする。
少し考えて、不意に校外学習の海辺で出会った女の顔が浮かんだ。
どこか妖艶な雰囲気の女。
口元だけが先に動いて、目はまったく笑っていない。あの時、妙に嫌だと思った笑い方。
似ている。
ただ、それだけだ。
そう思おうとした。
「……母さん?」
「なあに?」
私は十年間、この人の娘をやっている。
声も、顔も、仕草も知っている。それなのに、今の母さんを見ていると、ほんの少しだけ何かがずれている気がした。
「もう一回……笑ってみて」
「え?」
「クロノ、何を言っているんだ?」
父さんまで怪訝そうに私を見る。
そりゃそうだ。
自分でも何を言ってるんだと思う。
母さんは一瞬だけ戸惑ったあと、もう一度口元を緩めた。
「ふふ。急にどうしたの?」
やっぱり。
「……違う」
「何が?」
「その笑い方」
母さんの表情が止まった。
「母さん、そんな笑い方しない」
「クロノ?」
「母さんの笑い方は……もっとキツい」
しん、と静かになった。
言ってから、本物の母さんなら烈火のごとく怒りそうだなと思った。
でも、目の前の母さんは怒らない。
ただ、じっと私を見ていた。
「……父さん?」
二人とも何も答えない。
嫌な感じが、急に大きくなった。
「父さんも……そうなの?」
母さんの目が、ゆっくりと細くなる。
「……ふふ」
口元だけが先に動いた。
目は、まったく笑っていない。
そして、にちゃり、と口の端が吊り上がる。
「……っ」
これだ。
海辺で会った、あの女と同じ笑い方。
「あの子だけかと思ったけど……姉弟そろって、よく見てるのね」
「……え?」
声も、喋り方も母さんに似ている。
でも、違う。
言葉の選び方も、間の取り方も、私の知っている母さんとは少しずつずれている。
隣にいる父さんも、さっきまでの穏やかな表情を消していた。
「やっぱり、君もソーカ家ということかな。魔法は使えないみたいだけど、妙なところで勘がいいねぇ」
父さんの声。
口調だって、それほど遠くはない。
なのに、聞けば聞くほど父さんじゃない。
エルヴィンの言葉が頭をよぎる。
枢機卿は、魔族に身体を乗っ取られていたかもしれない。
「……まさか」
私は一歩下がった。
「父さんと母さんじゃ……ない?」
二人は答えない。
けれど、それで十分だった。
目の前にいるのは、間違いなく父さんと母さんの身体だ。
なのに、その中身だけが違う。
そんな馬鹿みたいなこと、あるのか?
でも、もう否定しきれなかった。
「……誰?」
母さんの姿をした何かが、面白そうに私を見る。
父さんの姿をした何かも、否定しなかった。
「父さんと母さんから……出ていって」
ソーカの杖を構え、二人へ向ける。
でも、引き金にかけた指は動かなかった。
中にいるのが何だろうと、目の前にあるのは父さんと母さんの身体だ。
撃てるわけがない。
「その魔力を持たない魔導具」
父さんの姿をした何かが杖へ目を向け、楽しそうに首を傾げた。
「使わないのかい?」
「……っ」
私が撃てないことを分かったうえで言っている。
「趣味が悪いわよ」
母さんの姿をした何かが呆れたように言った。
「そうかな。僕はなかなか面白いと思うけどねぇ」
「父さんと母さんの口で喋るな……!」
杖を握る手に力が入る。
その時、母さんの姿をした女が、ふいに私から視線を外した。
「どうせ攻撃できないわ」
そして巨大な扉へ向き直る。
「さて。予定通り始めましょうか」
「……何を?」
女が片手を伸ばした。
その掌に、白い光が集まり始める。
「え……」
一度だけ見たことがある。
フォスティエ商会での事件の時、母さんが冒険者に使った聖光魔法。
暖かくて、綺麗だった光が、今は巨大な扉へ向けられている。
「何するの?」
返事はない。
白い光が、扉の表面を覆っている見慣れない白い模様へ流れ込んだ。
その瞬間、絡みついていた光の一つが、すうっと消えた。
「……え?」
続いて、もう一つ。
また一つ。
何をしているのかは分からない。
あの巨大な扉が何なのかも知らない。
でも、立入禁止の建物の地下に隠された扉だ。
その表面を覆っている白い光を、今の母さんが一つずつ消している。
なんか、嫌だ。
ものすごく嫌な感じがする。
「ちょっと待って! 何してんの!?」
私は母さんの方へ走ろうとした。
その前に、父さんが立つ。
「そこまでだよ」
「どいて!」
「それは困るなぁ」
「母さんの身体で何してんの!? あの扉も何なの!?」
「質問が多いねぇ」
「どけって言ってるでしょ!」
杖を向ける。
父さんの身体が、その先にある。
撃てない。
でも、このまま好きにさせていいとも思えなかった。
母さんの聖光が触れるたび、扉を覆っていた白い光が減っていく。
あれが全部消えたら、どうなる?
分からない。分からないけど、絶対にろくなことにはならない気がした。
父さんの姿をした何かが、そんな私を見て薄く笑った。
「そういえば、君の弟にはまんまと逃げられたからねぇ」
「……弟?」
一瞬、意味が分からなかった。
「マークのこと?」
「さてね」
その返事だけで、胸の奥が冷たくなる。
「まあ、それは後でいい」
父さんの姿をした何かの視線が、私へ戻る。
正確には、私が握っているソーカの杖へ。
「それより君だ。その妙な杖にも……少し興味が出てきた」
「……は?」
ゆっくりと一歩、こちらへ近づいてくる。
「とりあえず、確保しておこうかな」
私は同じだけ後ろへ下がった。
「ちょ、ちょっと待って。確保って何!? どこかに連れてく気!?」
「大丈夫だよ。怖がらなくていい」
「それが一番怖いんだけど!」
逃げるべきだ。
でも、父さんと母さんを置いていけない。
後ろでは、母さんの聖光が巨大な扉へ流れ続けている。そのたびに、白く輝いていたものが一つずつ消えていく。
止めたい。
でも、どうすればいい。
父さんと母さんを傷つけずに、目の前の何かだけをどうにかする方法なんて、今の私には思いつかない。
父さんの姿をした何かが、ゆっくりと手を伸ばしてくる。
その時だった。
地下空間に、いくつもの足音が響いた。
「クロノ!」
聞き慣れた声に振り返る。階段の方から、何人もの人影が駆け込んできた。
先頭にはジェイド師範。
その後ろにディディエ司祭とエルヴィン。
そして、ガフ、バルド、セイル。
「クロノさん! グラン殿から離れて!」
ディディエ司祭の声が、地下空間に響いた。




