第53話 立入禁止の棟
翌日の昼、僕は家を出た。
昨日の騒ぎを受けて、聖堂院リュミエールはしばらく休みになった。昨夜届いた知らせでは、一週間ほど授業を停止し、競技場や校内の安全確認が終わるまで、生徒は登院しないようにとのことだった。
本来なら、僕も家で大人しくしているべきなのだろう。それでも、どうしてもクロノさんたちのことが気になった。
手には、小さな布袋を持っている。
昨日、治療院へ向かうクロノさんに、商会から治療に使えそうな薬草を持ってくると約束したからだ。
今朝、父にそういう薬草がないか相談してみたところ、暗蝕そのものを治せるようなものは扱っていないらしい。ただ、衰弱した身体を整えるために使われるものなら商会にもあるというので、少し分けてもらった。
それと、念のためだと護身用の《聖煌石》まで持たされた。西の聖都アストラルにいる法王猊下が作ったという、商会でも滅多に手に入らない貴重な結界石だ。
見舞いに行くだけだと言ったのだけれど。
その時、父から昨日の騒ぎについてもいくつか話を聞いた。
父も昨日は遅くまで、物資の補給などで裏方の手伝いをしていたらしい。商人のところには物だけじゃなく、いろんな話も集まってくる。
競技場を覆っていた黒霧は、昨夜のうちに消えたらしい。残っていた魔獣もほとんど討伐され、今は東護騎士団や司祭たちが競技場と聖堂院周辺の捜索を続けているという。
けれど。
クロノさんのご両親と、枢機卿アルフォンス猊下。それに傭兵団の団長代理、セレナの行方は、まだ分かっていない。
昨日、ガフから聞いた話では、クロノさんのご両親は黒霧のさらに奥に残っていたはずだ。
グラン様は枢機卿と。
サラサ様は、セレナと戦っていたという。
そして、その枢機卿アルフォンス猊下についても、昨夜から妙な噂が広がっていた。
競技場に魔獣を放ったのは、アルフォンス猊下ではないか。
さらに、ソーカ家と灯火の聖女を敵に回したことから、すでに魔族に身体を乗っ取られていたのではないか、と。
もちろん、まだ公式に発表された話ではない。
黒霧は消えた。
なのに、クロノさんのご両親はいない。
考えれば考えるほど落ち着かなくなり、僕は聖堂院附属治療院へ向かっていた。
⸻
昨日とは違い、昼の治療院は静かだった。
廊下にはまだ慌ただしく行き交う司祭の姿があるものの、昨日の簡易治療場ほどではない。
受付で名前を告げ、クロノさんたちがいる部屋を教えてもらう。
「失礼します」
個室の扉を開くと、目に入ったのは三つのベッドだった。
マーク君、イザベラさん、ガストンさん。
三人ともまだ眠っている。
首筋や腕に残っていた黒い痣は昨日よりかなり薄くなり、特にマーク君のものは、よく見なければ分からないほどになっていた。
近くにいた司祭へ薬草の入った袋を渡し、三人の様子を尋ねる。
「容体は安定していますよ。暗蝕の進行も止まっています」
「……よかった」
ようやく胸を撫で下ろした。
けれど、部屋を見回してすぐに気づく。
クロノさんがいない。
「あの、ここにいた金髪の女の子は、どこへ行ったか分かりますか?」
「クロノさんですか?」
司祭は少し考えた。
「つい先ほどまでは、こちらにいらっしゃいましたよ」
「そうですか……」
急に不安になった。昨日、家族のために一人であの魔獣の群れへ飛び込もうとした人だ。
三人の容体が落ち着いた途端、また何かしに行ったのではないだろうか。
廊下へ出て、何人かの司祭や治療師へ尋ねて回る。
一人目は知らない。
二人目も見ていない。
三人目の司祭が、ようやく思い出したように顔を上げた。
「……ああ、金髪の子なら、少し前に上へ向かっていきましたよ」
「上ですか?」
「ええ。最上階の見晴らし台の方へ」
「ありがとうございます!」
走り出しかけて、すぐに歩く。治療院の中だ。走ってはいけない。こういう時、ミーナさんなら、たぶんそのまま走るのだろうけど。
階段を上りながら、小さく息を吐く。
少なくとも、まだ建物の中にはいるらしい。
それだけで、少し安心した。
⸻
最上階の扉を開けると、眩しい日差しが差し込み、屋上を抜ける風が髪を揺らした。
「クロノさん?」
見晴らし台には誰もいない。
遅かったのだろうか。
周囲を見回しながら端まで進み、手すり越しに下を覗く。
「あっ」
治療院の前を、小さな人影が走っていた。
金色の髪。
「クロノさん!」
身を乗り出して叫ぶと、下を走っていたクロノさんが足を止め、こちらを見上げた。
「エルヴィン!?」
「どこへ行くんですか!」
距離がある。
通りに、互いの声が大きく響いた。
「父さんと母さんがいたの!」
「え?」
クロノさんが少し先の通りを指さす。
「あっちを歩いてた!」
僕も指された方へ目を凝らす。
通りには行き交う人の姿がちらほら見える。けれど、その中にクロノさんの両親らしい二人の姿は見当たらなかった。
「どこですか?」
「さっき見晴らし台から見かけたの! 父さんと母さん!」
クロノさんが焦ったように通りの先を見る。
「待ってください!」
思わず声を張り上げた。
「それ本当にご両親ですか!?」
「え?」
クロノさんの動きが止まる。
「昨日の黒霧は、もう消えたそうです。それでも、グラン様とサラサ様だけは見つかっていません!」
「……どういうこと?」
「僕にも分かりません。でも、それだけじゃないんです!」
今朝、父から聞いた話が頭をよぎる。
「枢機卿が、魔族に身体を乗っ取られていた可能性があるって話も出ています! 昨日、ご両親はその枢機卿たちと戦っていたんですよね?」
「う、うん……」
「だったら、一度司祭の方に知らせてください! 本当にご両親なのか、確かめてからでも――」
「あっ、待って!」
クロノさんが慌てて通りの先を振り返った。
「角を曲がる!」
「クロノさん!」
「父さんと母さんだよ! 見間違えるわけないでしょ!」
クロノさんは、もう一度こちらを見上げた。
「ごめん、エルヴィン! マークたちが無事だって伝えないと!」
そのまま走り出してしまった。
「だから待ってくださいって!」
僕は手すりから離れ、階段へ駆け込んだ。
下まで何段あるんだ。階段を数段飛ばしで駆け下り、そのまま廊下も構わず走る。
普段のクロノさんは、もう少し周りを見る人だと思っていた。少し口は悪いけれど、僕たちが慌てている時ほど妙に冷静だったりする。
それなのに、家族のことになると、どうしてこうミーナさんみたいになるんですか。
……いや、廊下を全力で走っている僕が言えたことじゃないか。
「クロノさん!」
治療院を飛び出す。
……いない。
クロノさんは、西にある聖堂院の方へ走っていったはずだ。僕もすぐに後を追ったけれど、視界の開けた大通りまで出ても、あの金色の髪はどこにも見当たらない。
「クロノさん!?」
角を曲がる。
やっぱり、いない。
僕は頭を抱えた。
「……まずい、まずい、まずい!」
ものすごく嫌な予感がする。
早く見つけないと。
また何か、とんでもないことが起きる気がする。
⸻
さらに西へ向かい、聖堂院の敷地へ入った。
校舎へ続く中庭を走り抜けようとしたところで、前から見覚えのある人たちが歩いてくる。
「エルヴィン君?」
ディディエ司祭だった。
隣にはジェイド師範。その後ろには、昨日の傭兵三人組、ガフ、バルド、セイルもいる。
三人まで一緒にいるところを見ると、昨日の件について話を聞いたところなのかもしれない。
「ディディエ司祭!」
「どうしたんですか。そんなに慌てて」
「クロノさんを見ませんでしたか!?」
ディディエ司祭の顔が固まった。
「……クロノさん?」
ジェイド師範も眉をひそめる。
「治療院にいるんじゃないのか?」
「いたんです! でも、ご両親を見かけたと言って追いかけてしまって!」
「両親?」
ガフの表情が変わった。
「まずくねえか、それ」
「……やっぱり、そう思いますよね」
僕も同じことを考えていた。
ガフはディディエ司祭へ視線を向けた。
「さっき話しただろ。セレナの様子がおかしくなった時期と、あの枢機卿が絡み始めた時期が重なってるって」
「ええ」
セイルが低く唸るように言った。
「もし枢機卿が本当に魔族に乗っ取られてたなら、セレナだって同じだった可能性がある」
ディディエ司祭の表情が険しくなる。
「そして、最後にその二人と戦っていたのが、グラン殿とサラサ様……」
「もし、あいつらが人の身体を乗っ取れるなら」
ガフが低い声で続けた。
「二人に何があったか分からねえ」
胸の奥が冷たくなった。僕が考えたくなかったことを、ガフとセイルも考えている。クロノさんが見た二人が、本当に本人とは限らない。
「探しましょう」
僕が言い終えるより早く、ディディエ司祭が歩き出した。
「ジェイド師範も来てください」
「ああ」
ジェイド師範が傭兵三人へ目を向ける。
「お前らも来い。人探しなら人数が多い方がいい」
「うっす」
「了解」
セイルも頷き、バルドは無言で武器を担ぎ直した。僕たちは全員で、クロノさんを追って西へ向かった。
⸻
しばらく進んだところで、バルドが急に足を止めた。
「おい! あれ!」
バルドが指さした先、古い建物の脇に見覚えのある丸い車体が停まっていた。
「ビーノたん……」
昨日、黒霧から僕たちを連れ出したクロノさんの乗り物だ。最初は魔獣かと思ったけれど、本人いわく違うらしい。
「これ、聖女のガキのだよな?」
「はい。間違いありません」
そこは、聖堂院の敷地の西端だった。
目の前にあるのは、ほかの校舎から少し離れて建つ古い石造りの建物。
窓は少なく、壁もどこか重苦しい。
遠目に見たことはあるし、入学時の案内でも説明された。
立入禁止の棟だ。
生徒が近づいていい場所ではない。
「ここって……」
ディディエ司祭が立ち止まった。
その顔から、さっと血の気が引く。
「ディディエ司祭?」
正面の大きな扉が開いていた。たしか、普段は厳重に施錠されているはずだ。
「なんで開いてるんだ?」
ジェイド師範が扉へ近づこうとする。
「それ以上、近づかないでください!」
ディディエ司祭の鋭い声に、全員が足を止めた。
「なんだ?」
「ここは立入禁止区域です」
「それは見れば分かる。何があるんだ?」
ディディエ司祭はすぐには答えなかった。
開いた扉の向こうは薄暗く、奥までは見通せない。建物の中から、ひんやりとした空気だけが流れてきていた。
「……皆さん、ここから先で聞いたことは他言無用にしてください」
ジェイド師範の顔も険しくなる。
「そこまでの場所なのか」
「はい」
ガフも茶化すことなく、短く頷いた。
「分かった」
ディディエ司祭は一度だけ息を整えた。
「この建物の地下には、巨大な門が封印されています」
「門?」
「宵界へ通じるとされる門です」
背筋が冷たくなった。
「宵界って……」
「かつて魔王や魔人たちが、暁界へ渡るために使ったとされる門。その一つが、この地下にあります」
誰もすぐには言葉を返さなかった。
やがて、ガフが低い声で尋ねる。
「そんなもんが、なんで聖堂院の地下にあるんだよ」
「正確には逆です」
ディディエ司祭は、開いた扉の奥から目を離さない。
「この門を監視し、封印を守ること。それも、聖堂院リュミエールがこの地に置かれている理由の一つなのです」
僕は改めて建物を見る。
本来なら閉ざされている扉が開き、その前にはクロノさんのビーノたんが残されている。
考えたくない。
でも、ほかに理由が思いつかない。
クロノさんは、父親と母親を追って、この建物の中へ入った。
宵界へ通じる門が封印された、この扉の向こうへ。
「……だが、行くしかないだろ」
ジェイド師範が開いた扉へ足を向ける。
僕も続こうとした。
「エルヴィン君」
低い声に、足が止まった。
ディディエ司祭が振り返っている。
「あなたは、ここで待っていてください」
「絶対に嫌です」
思ったより強い声が出た。
ディディエ司祭の眉が寄る。
「クロノさんが、この中にいるんですよね」
「だからこそです。昨日、あなたたちがどれほど危険な目に遭ったか、忘れたわけではないでしょう」
「忘れていません」
あの黒霧も。
魔獣も。
マーク君たちの暗蝕も。
忘れられるわけがない。
「でも、ここまで追ってきて、僕だけ待っているなんてできません」
「エルヴィン君」
「おい」
ジェイド師範が間に入った。
「押し問答してる時間はない。ここに一人で残して、勝手に追ってこられる方が面倒だ」
ディディエ司祭が眉をひそめる。
「しかし……」
「連れていくぞ。エルヴィンも男だ。好きな子が危険なら、大人しく待っていられるわけもないだろ」
「す、好きな子!?」
思わず変な声が出た。
クロノさんのことが、好き?
そんなこと、今まで考えたこともなかった。
でも。
無事でいてほしいと思う。
危ないことをしていたら止めたいし、困っていたら助けたい。それに、こうして必死になって追いかけている。
……これって、そういうことなんだろうか。
急に顔が熱くなった。
「図星か? だが、今それを考えてる場合じゃないだろ」
「だ、誰のせいですか!」
ジェイド師範は小さく鼻を鳴らした。
ディディエ司祭は苦い顔をしたまま僕を見つめ、ガフたち三人もどこか呆れたような顔をしている。
張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
数秒。
やがて、ディディエ司祭が深く息を吐いた。
「……絶対に、私から離れないでください」
「はい」
「戦おうとも考えないこと。危険を感じたら、すぐに下がる。私が戻れと言ったら、今度こそ必ず従ってください」
「分かりました」
「……本当に?」
「はい!」
それでも、ディディエ司祭の表情から心配そうな色は消えなかった。
「あなたを守りながら戦えるほど、この先が甘い場所だとは思わないでください」
「……はい」
ディディエ司祭は僕の返事を確かめると、ようやく開いた扉へ向き直った。
「行きます」
ディディエ司祭を先頭に建物へ入る。ジェイド師範が続き、ガフたち三人もそれぞれ武器へ手をかけながら後を追った。
僕も、そのすぐ後ろへ続く。薄暗い建物の奥には、地下へ続く石階段が口を開けていた。
冷たい空気が、その奥から吹き上がってくる。
昨日、あの黒霧へ入った時と少し似ている。
クロノさん。どうしてあなたは、昨日あれだけの目に遭った次の日に、また一人でこんな場所へ入っていけるんですか。
凄腕のジェイド師範に、ガフたち傭兵もいる。きっと大丈夫だ。
それでも、もし駄目だったら。
服の内側にある《聖煌石》を、指先でそっと確かめる。その時は、僕が何をしてでもクロノさんだけは逃がす。
絶対に。
そして、これが終わったら、クロノさんにはもっとたくさんの商品開発を手伝ってもらうんだ。
そう決めて、僕は大人たちの背中を追い、地下へ降りていった。




