第52話 暗蝕
黒霧を抜けた直後、聞き覚えのある声が飛んできた。
「クロノさん!?」
顔を向けると、ディディエ司祭とジェイド師範、その後ろに武装した三人の司祭がいた。
五人とも、今まさに私たちが出てきた黒霧へ入ろうとしていたらしい。
競技場を見渡すと、まだ魔獣との戦いが続いている。ほかの司教や司祭、警備の傭兵たちは、エリシア先輩やカタリナ先輩たち上級生と一緒に、魔獣の討伐や負傷者の救護にあたっていた。いつの間にか東護騎士団も駆けつけているようだった。
「ディディエ司祭!」
帰ってこられた。
本当に競技場へ戻ってこられたんだ。
そう思った途端、身体から力が抜けそうになる。あの黒霧の中で、ビーノたんのライトが効かなかったら、今もあの中を彷徨っていたかもしれない。
その直後、ディディエ司祭がものすごい勢いでこちらへ駆けてきた。
「クロノさん! 怪我はありませんか!?」
「え? あ、私は大丈夫です」
肩を掴まれ、顔や腕を確かめられる。
ジェイド師範も私たちへ目を走らせた。
「全員いるな?」
ミーナ、リリス、アルガス、エルヴィン、シャーロット。ちゃんと六人いる。
その瞬間だった。
「あなたたちは何を考えているんですか!」
「ひゃっ!?」
怒鳴られた。
しかも、怒鳴ったのは厳しいジェイド師範じゃない。あの優しいディディエ司祭だ。
「私は戻りなさいと言いましたよね!? この暗影がどれほど危険なものかも分からないまま、子どもだけで飛び込むなんて!」
「ご、ごめんなさい!」
反射的に頭を下げる。
めちゃくちゃ怒ってる……。普段のディディエ司祭からは想像できないくらい怖い。
「もし一人でも戻ってこなかったら、私は……!」
そこで声が途切れた。
恐る恐る顔を上げると、私の肩を掴んでいる手が、ほんの少し震えていた。
……ああ。
心配してくれてたんだ。
私はマークを助けることしか考えていなかった。でも、ディディエ司祭たちは、私たちを助けるために、あの危険な黒霧へ入ろうとしてくれていた。
「……ごめんなさい」
今度は、心の底から謝った。
でも、今は謝ってる場合じゃない。
「それより!」
私は後ろを振り返った。
「マークと、イザベラと、ガストンが!」
ディディエ司祭の表情が変わった。
ガフに背負われたマーク。
バルドの背中で意識を失っているイザベラ。
そして、セイルに支えられたガストン。
「イザベラさんが一番危ないです!」
シャーロットが駆け寄る。
「黒い痣が全身に広がっています! マーク君とガストンさんにも同じものがあって、《清祥〈セレス〉》でも消えませんでした!」
ジェイド師範が三人の状態を確かめ、低く呟いた。
「……暗蝕だな」
「担架を三つ! 治療場へ連絡してください!」
ディディエ司祭の声に、後ろの司祭たちがすぐに動く。その横で、ジェイド師範がガフたちを見た。
「……ガフか」
ガフは少し気まずそうに視線を落とした。
「どうも、ジェイドさん」
バルドは無言で軽く頭を下げ、セイルも、
「ご無沙汰しています」
と続いた。
……知り合い?
傭兵と元冒険者って、どこかで繋がりでもあるのかな。こんな時じゃなかったら、ものすごく気になる。
「お前ら、なんでこんなところにいる」
「そこはまあ、いろいろありまして」
ガフは曖昧に笑った。
「話すと長いです」
「そうか」
ジェイド師範はそれ以上聞かなかった。
「なら後で話を聞かせろ」
「はい」
三つの担架が運ばれてきた。
ガフたちは、マーク、イザベラ、ガストンをそれぞれ担架へ慎重に移していく。
その様子を確認していたディディエ司祭が、黒霧へ目を向けた。
「クロノさん。グラン殿とサラサ様は? 中でお二人の姿を見ませんでしたか?」
「私は見てません。でも……」
ガフから聞いた話を思い出す。
「もっと奥にいるみたい。父さんは枢機卿と、母さんはセレナって人と戦闘になったって、この傭兵の、ガフ……さんから聞きました」
ディディエ司祭とジェイド師範の表情が変わった。
「セレナだと?」
ジェイド師範がガフを見る。
「ああ。うちの団長代理です。今回は枢機卿から、この会場の警備を任されてました」
「私たちも奥まで行こうとしたんですけど……」
私は黒霧を振り返った。
「父さんたちがいるところまでは、辿り着けなくて」
胸の奥が少しざわつく。
父さんと母さんは、まだあの奥にいる。
でも、母さんが簡単にどうにかなる姿なんて、どうしても想像できなかった。
「……きっと大丈夫」
「クロノさん?」
「父さんと母さんなら、きっと大丈夫です」
自分に言い聞かせるように、もう一度そう言った。
ディディエ司祭はしばらく黒霧を見つめたあと、静かに頷いた。
「分かりました。お二人のことはこちらに任せてください。クロノさんは、今はマーク君たちと治療場へ」
「……はい」
「ガフ……さん」
声をかけると、ガフが振り返った。
「マークを背負ってくれて、ありがとう」
「さんはいらねえよ」
「え?」
「ガフでいい。さっきまでやり合ってた相手に、さん付けされんのも変だろ」
やり合ってた相手、か……。
呼び捨てにしたら、それはそれで変な感じがする。でも本人がいいなら、いいのかな。
「……じゃあ、ガフ。ありがとうね」
「おう」
「クロノさんたちも治療場へ向かってください。詳しい話は後で聞きます」
「はい!」
怒られるのも、事情を聞かれるのも後でいい。今はマークたちを診てもらわないと。
その時、競技場の向こうから魔獣の咆哮が響いた。観客席の周辺では、司祭や傭兵、東護騎士団の騎士、上級生たちがまだ戦いを続けている。
ガフがそちらへ目を向けた。
「ジェイドさん。うちの連中もまだ戦ってるみたいなんで、俺らもあっち手伝ってきてもいいっすか」
「ああ。お前らが手伝ってくれるなら助かる」
「うっす」
ガフはそう言ってから、ディディエ司祭を見る。
「今回の騒ぎ、枢機卿とうちの団長代理が噛んでる。俺らが知ってることは、このあと全部話す」
ディディエ司祭は隣のジェイド師範へ視線を向けた。ジェイド師範が小さく頷く。
「……分かりました」
セイルが競技場へ視線を走らせた。
「大型がまだ残ってるな」
「……加減してたんで、イライラしてたんだ。さっさと蹴散らそうぜ」
バルドが吐き捨てるように言った。三人はそれぞれ武器を構え直した。
ジェイド師範が鼻を鳴らした。
「お前ら、俺の指揮下に入れ。大型から潰す。勝手に突出するな」
「うっす」
ガフは気遣うように、担架に横たわるマークへ目を向けた。その表情が、ほんの少し曇る。
「早く治るといいな」
「うん。ありがとう」
その頃には、バルドは上機嫌でジェイド師範の後を追って歩き出していた。
「ガフ、行くぞ」
「ああ、分かってる」
セイルに声をかけられ、ガフも二人の後を追っていった。ついさっきまで私たちとやり合っていた三人が、今度はジェイド師範と一緒に魔獣へ向かっていく。
なんだか変な感じだ。
「クロノ!」
今度は離れたところから大きな声が飛んできた。振り向くと、カタリナ先輩が数人の上級生を引き連れて、こっちへ走ってくる。
「あー、暗影に突っ込んだ命知らずな一年生がいるって聞いたけど、やっぱりクロノたちだったか」
「えっ」
横を見ると、みんなもなんとも言えない顔をしている。私たち、いつの間に命知らず認定されたの?
……蜘蛛の事件の時?
「ディディエ司祭、この子たちは私が連れていけばいいのね?」
「お願いします」
「任された!」
早い。司祭の返事を聞く気が最初からない。
「さあ行くわよ! クロノは元気そうね! 歩きながら話を聞かせて! あの暗影の中、どうなってるのか気になってたのよ!」
「は、はい!」
カタリナ先輩は満足そうに頷く。
……この人、こんな時でもすごいな。
私は一度だけ黒霧を振り返った。
父さん。母さん。
きっと、大丈夫だよね。
胸の奥に残る小さな不安を振り払うように前を向き、私たちは担架に付き添って競技場をあとにした。
⸻
競技場の外に設けられた簡易治療場は、ごった返していた。
長机や簡易ベッドが並び、その間を司祭や治療師たちが忙しそうに行き来している。治療を受けているのは生徒や観客だけじゃない。
負傷した司祭や傭兵の姿もあり、東護騎士団の騎士たちが怪我人を次々と運び込んでいた。
幸い、私たちと同じ一年生には大きな怪我はなかったらしい。すでに治療を終え、家族と一緒に帰った子も多いと聞いた。
「……よかった」
あんなに魔獣が出てきたのに、大怪我をした子どもはいない。それだけでも救いだった。
私たちも簡単に診てもらった。擦り傷や打撲はあったけれど、大きな怪我はない。魔法を使い続けたリリスたちはかなり消耗しているらしく、今日は絶対に休むよう言われていた。
私は腕や膝に小さな傷があるくらいだった。緊張が切れたせいか、急に身体が重く感じる。
でも、マークたちは違う。
「この痣は……」
三人を診ていた司祭の顔が険しくなる。
「聖水を」
透明な水を染み込ませた布が、まずイザベラの首筋へ当てられた。私は息を止めて見つめる。
「……あ」
黒い筋が、少しずつ薄くなっていく。
「効いてる……!」
「やはり暗蝕ですね」
マークとガストンにも同じ処置が施される。
「聖水で進行は抑えられます。ただ、この三人は暗蝕が深い。ここでは十分な治療ができません。すぐに附属治療院へ移します」
「……治りますか?」
「聖水が効いている以上、手立てはあります。まずは急ぎましょう」
何もできないわけじゃない。
その言葉だけで、少し救われた。
様子を見ていたカタリナ先輩が口を開く。
「私は競技場に戻るから。あなたたちもちゃんと診てもらうこと! 勝手に抜け出したら、今度は私が剛岩で閉じこめるからね!」
私たちは揃って背筋を伸ばした。
「は、はい!」
私たちの返事を聞いて、カタリナ先輩は満足そうに頷いた。
「よし! じゃあ、みんな行くわよ!」
「え、ちょっ、まだ報告が!?」
「報告なんて後よ! 今は何よりも動くこと!」
上級生たちの声も聞かず、カタリナ先輩はもう走り出していた。
……本当に嵐みたいな人だな。
⸻
しばらくして、治療院の大型馬車が到着した。マークたち三人が担架ごと運び込まれていった。
同級生のみんなも馬車が来るまで一緒に待ってくれていたけれど、大きな怪我がないことを確認されると、それぞれ保護者とともに帰ることになった。
「あなたは、ご家族のことだけ見ていればいいのですわ」
リリスはいつもの澄ました顔でそう言ったけれど、少しだけ心配そうにマークたちの方を見ていた。
「今度、あの魔獣みたいなの俺にも乗らせてくれ」
アルガスはそんなことを言いながら、ぽん、と私の肩を叩く。普段は荒っぽいけど、根は優しい奴だ。たぶん、元気づけようとしてくれてるんだと思う。
「み、みなさん、きっと大丈夫です!」
シャーロットは両手を胸の前で握りしめながら、少し涙ぐんでいた。そんなに心配されると、こっちまで余計に心配になる。だ、大丈夫だから……。
「クロノちゃん」
ミーナが私の手をぎゅっと握る。
「元気出してね」
「……うん」
ミーナには、複雑な言葉はいらない。
最後に、エルヴィンが少し考えるようにしてから口を開いた。
「クロノさん。うちの商会から治療に使えそうな薬草を持って、明日また来ます!」
こいつは本当に頼りになるんだよな……。
「ありがとう。みんなも、本当にありがとう」
感謝してもしきれない。
なんだか、少し泣きそうになった。みんながいなければ、マークはそのまま連れていかれていた。
私は馬車へ乗り込んだ。
中は静かだった。揺れる車内でマークたちの様子を見ながら、顔についた汚れを濡らした布でそっと拭っていく。
⸻
聖堂院附属治療院へ着くと、三人はすぐに治療室へ運ばれた。扉が閉まり、私は廊下の椅子に座った。中から何人もの司祭が出入りしている。
落ち着かない。何度か立ち上がりかけたけれど、邪魔になるだけだと思い直して座った。
どのくらい経ったのか分からない。
やがて、白い祭服を着た年配の司教が治療室から出てきた。
「ご家族の方ですね?」
「はい!」
勢いよく立ち上がる。
「マークは!? イザベラとガストンも!」
「三人とも、ひとまず命の危険は脱しました」
「……本当ですか?」
「はい。聖水で暗蝕の進行を抑え、聖光魔法による処置を行いました。容体は安定しています」
「……よかったぁ」
力が抜けて、椅子へ座り直した。
「ただし、完全な浄化には特級相当の聖光魔法が必要です」
「特級……」
また不安が顔を出す。
「心配はいりません。この治療院にも扱える者がおります。時間は必要ですが、きちんと治療できますよ」
「……はい」
今度こそ、長く息を吐いた。
⸻
その夜、私は治療院に泊まることになった。
マークとイザベラ、ガストンは同じ治療室で休んでいる。三人ともまだ眠っているけれど、呼吸は穏やかだ。黒い痣も昼間よりずっと薄くなっていた。
私はマークのベッドの横に座り、その手を握った。
「……あったかい」
黒霧の中では、呼びかけても起きなかった。
このままどうにかなってしまったら。
ずっと、そんなことばかり考えていた。
でも今は、ちゃんとここにいる。
「早く起きてよ。まだまだ私の共犯者でいてもらわないと困るんだからね」
マークの手を両手で包み、椅子の背へ身体を預けた。
治療室は静かだった。
「……父さん、母さん」
結局、今日は一度も会えなかった。
まだ黒霧の向こうで戦っているのかな。
母さんは灯火の聖女だ。
父さんは、母さんほど強くはないのかもしれない。でも、私にとっては昔からずっと、優しくて、太ってて、頼りになる父さんだ。
それに、ディディエ司祭たちもいる。
「……大丈夫だよね」
自分に言い聞かせるように呟く。
明日になれば、きっと会える。
マークたちが無事だって伝えたら、二人とも安心するはずだ。
「父さん……母さん……」
瞼が重くなる。
私はマークの手の温かさを確かめながら、そのまま眠りに落ちた。




