第51話 ビーノたん
先へ進むか、引き返すか。引き返すとしても、どうやってこの闇を抜ければいい?
そう迷った、その時だった。
イザベラの手から、細剣が滑り落ちた。硬い音を立てて、白い石床を跳ねる。
「……え?」
イザベラは何かを堪えるように眉を寄せ、それでも私とマークを庇うように、一歩だけ前へ出た。けれど、その膝が折れた。
「イザベラ!」
咄嗟に手を伸ばしたが、マークを抱えたままでは届かない。倒れかけた身体を、すぐそばにいたミーナが受け止めた。
「大丈夫!?」
呼びかけても、反応はない。長い黒髪が床へ流れ、瞼も固く閉じられていた。
「……無茶をしおって」
ガストンが小斧を杖代わりにして歩み寄る。けれど、その足取りも危うい。ほんの数歩進んだだけで、呼吸が大きく乱れた。
「ガストンまで動いちゃ駄目!」
「しかし……」
「シャーロットちゃん!」
「う、うん!」
シャーロットが急いでイザベラのそばへ膝をつく。首筋へ手を伸ばした瞬間、その顔が強張った。
「黒い痣が……」
襟元から、墨を垂らしたような黒い筋が覗いている。
「少し、服を緩めます」
シャーロットが胸元のボタンへ指をかけたところで、その手が止まった。周囲にはアルガスやエルヴィンだけでなく、ガフたちもいる。
「男の人たち、あっち向いてて!」
「は?」
「早く!」
「わ、分かったよ!」
アルガスたちが慌てて背を向ける。ガフたち三人も、黙って反対側を向いた。
「絶対に見ないでよ!」
「見ねえよ!」
ガフの声を背中で聞きながら、私はマークをミーナへ預けた。
「少しだけお願い」
「うん。任せて」
ミーナがマークの頭を支えながら抱きかかえる。私はシャーロットと一緒にメイド服の襟元を緩め、黒い布をそっとずらした。
「……なに、これ」
息が止まった。
襟元から覗いていたものだけじゃない。
鎖骨から、肩から、脇腹から。細いものも太いものも、幾重にも絡み合いながら、胸の中心へ向かって黒い筋が伸びている。袖を少しまくると、腕にも同じ痣が浮かんでいた。
まるで、身体中に散らばった黒い何かが、心臓を目指して集まっているみたいだった。
「こんなに……」
シャーロットの手が震える。それでもすぐに聖光を灯し、イザベラの身体を包み込んだ。
「清らかな風よ、穢れを祓え――《清祥》!」
淡い光が全身を巡り、黒い痣へ染み込んでいく。けれど、痣は少しも薄くならない。
「シャーロットちゃん、どう?」
「待って。今、診るから……」
シャーロットは目を閉じ、懸命に意識を集中させる。額へ、じわりと汗が浮かんだ。
やがて、目を開く。
「呼吸も脈もあります。でも、すごく弱いです」
「マークよりも?」
「……はい」
シャーロットが唇を噛んだ。
「マーク君の痣は、今は広がっていません。でも、イザベラさんのものは、身体の奥まで達しているみたいです」
シャーロットは悔しそうに俯く。
「私の聖光では、これ以上は分かりません。《清祥》でも消えないということは、普通の毒や呪いとは違うと思います。早く、もっと強い聖光を扱える人に診てもらわないと……」
一番危ないのは、マークだと思っていた。
次に倒れるなら、ガストンだと思っていた。
でも、本当に限界だったのはイザベラだった。
顔色が悪くても。呼吸が苦しくても。身体中を痣に蝕まれていても。マークを取り戻すまで、一度も剣を下ろさなかった。
「ごめん、イザベラ……」
動かない手を、両手で握る。
「気づいてあげられなくて、ごめん」
冷たい。それでも強く握れば、ほんのわずかに温かさが残っている。
「ずっと無理してたんだね」
返事はなかった。
「イザベラは……私が知るかぎり、ずっとそういう女でございます」
ガストンの掠れた声が聞こえた。
「主の前では、決して弱みを見せません。己が倒れるまで、役目を果たそうとする」
「そんなの駄目だよ……」
「ええ。まったく、困った女でございます」
ガストンはそう言いながら、顔を伏せた。
私はシャーロットと一緒にイザベラの服を整えた。
「もういいよ」
みんながこちらを振り向く。
「どうなんだ」
ガフが訊く。
シャーロットは小さく首を横へ振った。
「すぐに治療できる人のところへ連れていかないと危険です」
空気が張りつめる。
セイルが横たわるイザベラへ目を落とした。
「……その状態で、あれだけ動いていたのか」
私も改めてガストンを見る。小斧を杖代わりにして、どうにか立っている。顔色はイザベラほどではないものの、首筋には同じ黒い筋が浮かんでいる。ここに、この二人を長く置いておくわけにはいかない。
「クロノ様」
ガストンが、低い声で呼んだ。
「我々は、引き返すべきです」
「でも、母さんがこの先にいるんだよ。母さんなら、イザベラたちを治せるかもしれない」
「だからこそです」
ガストンは乱れた息を整えながら続けた。
「旦那様と奥様は、マーク様を逃がすために残られました。その意思を無駄にしてはなりません」
言葉に詰まった。
エルヴィンが静かに黒い靄の奥を見る。
「この闇を抜けられれば、外には聖堂院の司祭や治療師もいるはずです。負傷者を三人抱えたまま、この先へ進むより、救援を求める方が安全だと思います」
「でも、この先にクロノの母ちゃんがいるんだろ?」
アルガスが両手剣を握り直した。
「だったら、直接連れてった方が早くねえか?」
「辿り着ければ、ですわ」
リリスが短く返す。
「この先にいるのは、マークさんたちへ黒い影を浴びせた者たちですのよ」
セイルも静かに頷いた。
「……俺も、あの場所へ戻るのは勧めない」
その声は、いつもよりわずかに低かった。
「枢機卿、セレナ、それにお前たちの父親と母親。あの四人の戦いは、俺たちが割って入れるようなものじゃなかった。使っている魔法も、威力も、何もかも桁が違う」
セイルは、ガストンの首筋に浮かぶ黒い痣へ目を向ける。
「この二人がここまで傷んだのも、まともに斬られたからじゃない。あの戦いに巻き込まれた結果だ」
一拍置いて、黒い靄の奥へ視線を向けた。
「今の状態であそこへ戻れば、助けるどころか全員まとめて死ぬぞ」
ごくり、とアルガスの喉が鳴った。
さっきまで「母さんのところへ連れていった方が早い」と言っていたアルガスも、今度は何も言わない。
「……まあ、そうだな」
バルドも低く唸った。それで、話は決まった。
父さんと母さんのことは心配だった。本当なら、今すぐにでも迎えに行きたい。
でも、意識のないマークとイザベラ。それに、歩くのもやっとのガストンを連れて、あの四人の戦いの中へ戻るなんてできない。
まずは、この三人を外へ連れ出す。
今は、それしかなかった。
問題は。
私は後ろを振り返った。
そこにあるのは、どこまでも続く黒い靄だけ。来た時に通った大階段も、競技場も見えない。
「……どうやって戻ろうか?」
誰も答えなかった。
私はビーノたんの座席へ腰を下ろす。
どうすればいい。何が正しい。マークを助けたい。イザベラも、ガストンも。本当は父さんと母さんだって放っておけない。
でも、全部を選べる方法なんて……。
「……ん?」
ふと、足元へ視線が落ちた。
ビーノたんの前照灯が、白い石床を照らしている。
その先。
光が当たっている場所だけ、黒い靄が薄い。ほんのわずかだ。でも、気のせいじゃない。前照灯の周囲だけ、闇の表面が避けるように後ろへ退いている。
「クロノさん?」
エルヴィンの声にも答えず、ハンドルへ手を伸ばした。スイッチへ指をかける。
「何をしてますの?」
「ちょっと待って」
前照灯を上向きへ切り替えた。
カチッ。
光が強く、遠くへ伸びる。
その瞬間。
黒い靄が、大きく波打った。
「なっ……!」
アルガスが息を飲む。
強い光を嫌がるように、闇の表面がめくれ上がっていく。黒い布を押し退けるみたいに、一本の光が奥へ伸びた。
その先に白い石床が現れる。
さらに向こうには。
「競技場……!」
見慣れた観客席。そして、外から降り注ぐ日の光。
「闇が……避けていますわ」
リリスが目を見開いた。
私はハンドルを横へ動かしてみる。
光が外れた場所へ、黒い靄がすぐに流れ込んできた。消えたわけじゃない。照らしている間だけ、押し退けられている。
シャーロットの聖光では、こんな反応は起きなかった。でも、ビーノたんの前照灯は、私がいた世界の光だ。この世界には存在しない、異質な光。
だから、この世界の暗影に効く……?
「これなら……」
ハンドルを強く握る。
「外へ出る道を作れるかもしれない!」
みんなの視線が、一斉にビーノたんへ集まった。
「てか、さっきから気になってたんだけどよ」
アルガスが、ドッドッドッと唸る車体を訝しげに見る。
「なんなんだよ、それ。生きてんのか?」
「生き物ではないですよね?」
エルヴィンも丸い前照灯を覗き込む。
「鉄の塊が自ら光を放ち、車輪で走る……」
「クロノちゃんが出す、いつもの女神様の世界のものだよ!」
ミーナが得意げに答えた。
「ミーナさん」
リリスの冷たい声が飛ぶ。
「ここには部外者もいますわ」
「あっ」
ミーナの笑顔が固まった。
「ご、ごめん!」
「女神様の世界……?」
ガフが眉を寄せる。セイルは何も言わず、前照灯と私の手元を交互に見ていた。バルドまで、私のソーカの杖へ視線を移す。
まずい。後ろを見る。仲間たちは全員、遠い目をしていた。
……この顔は多分私の説明を諦めた顔だ。
「これは、ビーノたん!」
私は五十㏄の原チャリの座席を、ぽふっと叩いた。
「私の相棒です!」
「それ、名前と敬称しか説明してねえだろ」
「細かいことは気にしないで!」
ガフがすかさず笑って突っ込む。
「ハハハ! クロノっていったな。なんか、お前がどういう奴か分かってきたわ!」
仲間たちから、諦めの混じった乾いた笑いが漏れた。
「今は脱出が先! ここから出られるかもしれない!」
これ以上の追及を雑に押し切り、私は座席から降りた。
「私が道を作る。みんな、ビーノたんの後についてきて!」
「それなら、負傷者は俺たちが運ぶ」
ガフがマークとイザベラ、それからガストンへ目を向けた。
「俺が坊主。セイルは爺さんを頼む」
「分かった」
セイルが短く頷く。
「バルド、お前はメイドの女だ」
「俺が?」
バルドが床に横たわるイザベラを見る。
「ついさっきまで敵だった女だぞ」
「この中じゃ、お前が一番力あるだろ。それともガキどもに運ばせる気か?」
バルドは面倒そうに舌打ちすると、イザベラの前へしゃがみ込んだ。
「チッ、分かったよ。起きたら、運ばせた分くらいは礼を言わせろよ」
「意識のない相手に何を言っていますの」
リリスの冷たい声を浴びながら、バルドはイザベラの両腕を肩へ回し、その身体を背負い上げた。
まだ意識は戻らない。それに、いつ急に悪化するかも分からない。
一刻も早く、ここから出なければ。
ガフがマークを背負い、セイルがガストンの肩を支える。私はビーノたんのハンドルを握り、前照灯を黒い靄へ向けた。
「ミーナちゃん!」
「うん!」
ミーナが車体の後ろへ回り込み、ぐっと押す。前照灯で闇を照らしたまま、ビーノたんがゆっくりと進んだ。
黒い靄が左右へ剥がれ、光の筋に沿って細い道が現れる。
私がミーナとビーノたんを先頭で押す。
その後ろを、負傷者を背負ったガフたちが進む。リリスとアルガスが左右を固め、最後尾ではエルヴィンとシャーロットが短杖を構えて周囲を警戒していた。
誰も喋らない。前照灯の先に現れる白い石床だけを追って、一歩ずつ進む。
やがて。
黒い靄が、途切れた。
ビーノたんの前輪が闇を抜ける。
頬に、外の風が触れた。
次の瞬間、眩しい光が一気に視界へ流れ込んだ。
私たちは、競技場へ戻ってきた。




