第50話 ビーノたん
先へ進むか、引き返すか。
引き返すとしても、どうやってこの闇を抜ければいい? そう迷った、その時だった。
イザベラの手から、細剣が滑り落ちた。硬い音を立てて、白い石床を跳ねる。
「……え?」
彼女は何かを堪えるように眉を寄せ、それでも私とマークを庇うように、一歩だけ前へ出た。
けれど、その膝が折れた。
「イザベラ!」
咄嗟に手を伸ばしたが、マークを抱えたままでは届かない。倒れかけた身体を、すぐそばにいたミーナが受け止めた。
「大丈夫!?」
呼びかけても、反応はない。長い黒髪が床へ流れ、瞼も固く閉じられていた。
「……無茶をしおって」
ガストンが小斧を杖代わりにして、ふらつきながら歩み寄る。けれど、その足取りも危うい。ほんの数歩進んだだけで、呼吸が大きく乱れていた。
「大丈夫! ガストンまで倒れちゃう!」
「しかし……」
「シャーロットちゃん!」
「う、うん!」
シャーロットが急いで彼女のそばへ膝をつく。首筋へ手を伸ばした瞬間、その顔が強張った。
「黒い痣が……」
襟元から、墨を垂らしたような黒い筋が覗いている。
「少し、服を緩めます」
シャーロットが胸元のボタンへ指をかけたところで、その手が止まった。周囲には、アルガスやエルヴィンだけでなく、ガフたちもいる。
「みんな、あっち向いてて!」
「は?」
アルガスが間の抜けた声を出す。
「早く!」
「わ、分かったよ!」
アルガスが慌てて背を向けた。エルヴィンもすぐに顔を逸らし、ガフたち三人も黙って反対側を向く。
「絶対に見ないでよ!」
「見ねえよ!」
「俺まで疑うな!」
バルドの怒鳴り声を無視して、私はマークをミーナへ預けた。
「少しだけお願い」
「うん。任せて」
ミーナがマークを受け取り、頭を支えながら抱きかかえる。私はシャーロットと一緒にメイド服の襟元を緩め、黒い布をそっとずらした。
「……なに、これ」
息が止まった。襟元から覗いていたものだけではない。
鎖骨から。肩から。脇腹から。
細いものも、太いものも、幾重にも絡み合いながら、胸の中心へ向かって黒い筋が伸びていた。袖を少しまくると、腕にも同じ痣が浮かんでいる。
まるで、身体中に散らばった黒い何かが、心臓を目指して集まっているようだった。
「こんなに……」
シャーロットの手が震える。それでもすぐに聖光を灯し、イザベラの身体を包み込んだ。
「清らかな風よ、穢れを祓え―― 清祥!」
淡い光が全身を巡り、黒い痣へ染み込んでいく。けれど、痣は少しも薄くならない。
「シャーロットちゃん、どう?」
「待って。今、診るから……」
シャーロットは目を閉じ、懸命に意識を集中させる。その額へ、じわりと汗が浮かんだ。
やがて、目を開く。
「呼吸も脈もあります。でも、すごく弱いです」
「マークよりも?」
「……はい」
シャーロットが唇を噛んだ。
「マーク君の痣は、今は広がっていません。でも、イザベラさんのものは、身体の奥まで達しているみたいです」
「そんな……」
「マーク君は貴族ですもの。魔力を持つ者は、それだけ魔法への耐性も高くなりますわ」
リリスが振り向かないまま、静かに告げた。
「身体が頑丈だからといって、魔法にまで強いとは限りません」
「私の聖光では、これ以上は分かりません」
シャーロットは悔しそうに俯く。
「《清祥》でも消えないということは、普通の毒や呪いとは違います。早く、私より強い聖光を扱える人に診てもらわないと。このまま眠らせておくのは危険だと思います」
一番危ないのは、マークだと思っていた。次に倒れるなら、ガストンだと思っていた。
けれど、本当に限界だったのは、イザベラだった。
顔色が悪くても。呼吸が苦しくても。身体中を痣に蝕まれていても。マークを取り戻すまで、一度も剣を下ろさなかった。
「ごめん、イザベラ……」
動かない手を、両手で握る。
「気づいてあげられなくて、ごめん」
冷たい。それでも強く握れば、ほんのわずかに温かさが残っている。
「ずっと無理してたんだね」
返事はなかった。ガストンが、苦しそうに息を吐く。
「イザベラは……私が知るかぎり、ずっとそういう女でございます」
声が掠れていた。
「主の前では、決して弱みを見せません。己が倒れるまで、役目を果たそうとする」
「そんなの駄目だよ……」
「ええ。まったく、困った女でございます」
ガストンはそう言いながら、顔を伏せた。
「服を戻すね」
私はシャーロットと一緒に、イザベラのメイド服を整えた。
「もういいよ!」
声をかけると、男子たちがこちらを振り向いた。全員が、床へ横たわるイザベラを見る。
「どうなんだ」
ガフが問う。
シャーロットは首を横へ振った。
「すぐに、治療できる人のところへ連れていかないと危険です」
空気が再び張りつめる。
セイルは横たわるイザベラへ目を落とした。
「……その状態で、あれだけ動いていたのか」
ガフも険しい顔で彼女を見つめる。
「これ以上、負傷者を増やすべきじゃない。戻るべきだ」
アルガスがすぐに反論した。
「この先にいるのが、クロノの母ちゃんなんだよな? だったら、このまま突っ込んだ方が早いだろ。直接治してもらえばいい!」
「確かに、それが一番早えな」
バルドが大きく頷いた。
「ガキのくせに、いいこと言うじゃねえか」
「誰がガキだ!」
「俺から見りゃ、全員ガキだ!」
「駄目だ」
ガストンの低い声が、二人の言い争いを遮った。小斧へ両手を置き、どうにか立っている。
それから、私へ顔を向けた。
「クロノ様方は、絶対に奥へ進んではなりません」
「でも、母さんがいるんだよ」
「だからこそです」
ガストンは乱れた息を整え、言葉を続けた。
「旦那様と奥様は、マーク様を逃がすために残られました。その意思を無駄にしてはなりません」
エルヴィンが静かに口を開く。
「この闇を抜けられれば、外へ出られます。外には聖堂院の司祭や治療師もいるはずです。負傷者を抱えたまま進むより、救援を求める方が助かる可能性は高いと思います」
「そのとおりですわ」
リリスが長槍を握ったまま頷く。
「そもそも、マークさんを取り戻したら、すぐにこの場を離れるという話でしたでしょう? ここでさらに奥へ進めば、このお二人が命を懸けてマーク君を守った意味まで失われますわ」
「わ、私も、戻った方がいいと思う」
シャーロットが小さく手を上げた。
「聖女様がまだ戦っているなら、私たちが行くことで、守らなきゃいけない人を増やしてしまうかもしれないから……」
「奥の聖女へ直接診せる方が早いのは確かだ」
セイルが冷静に告げる。
「だが、あの闇の先がどうなっているか分からない。負傷者を抱えて賭けに出るべきではない」
「辿り着けばいいんだろ」
アルガスが両手剣を肩へ担ぐ。
「俺が前を開ける」
「簡単に言わないでくださる?」
リリスが睨みつけた。
「この先にいるのは、マークくん達へ黒い影を浴びせた者たちですのよ。負傷者を抱えたまま、どうやって突破するおつもりですの?」
「一人じゃねえ。みんなでやれば突破できる!」
「そのみんなに、守らなければならない方が三人もいるのですわ!」
二人の声がぶつかり合う。
「おいおい、喧嘩してる場合じゃねえだろ」
ガフが呆れたように割って入った。
奥へ進めば、母さんにすぐ診てもらえるかもしれない。けれど、負傷者を抱えたまま、枢機卿とセレナのいる場所へ向かうことになる。
外へ戻れば、救援を呼べる。でも、その間にも父さんと母さんは戦い続けているかもしれない。
どちらも間違っていない。
だからこそ、決められなかった。
「クロノちゃん」
ミーナがマークを抱いたまま、私を見つめる。
「どうする?」
全員が、私の答えを待っていた。けれど、何も言えない。
私はビーノたんの座席へ腰を下ろし、黙ったまま俯いた。頭の中がぐるぐるする。
マークとイザベラ、ガストンを、一刻も早く母さんに診せたい。父さんと母さんにも会いたい。今も戦っている二人を助けたい。
それなら、奥へ進んだ方がいい。
でも、この先には枢機卿とセレナがいる。意識のないマークとイザベラ。歩くのがやっとのガストン。
みんなを連れて進めば、父さんや母さんの足を引っ張るかもしれない。それに、ここで奥へ向かえば、私たちを逃がそうとしたイザベラたちの意思まで踏みにじることになる。
どうすればいい。何が正しい。
どちらを選んでも、誰かを危険に晒す。
答えは見つからない。
それでも、何か見落としているものはないかと、私は足元へ目を向けた。
ビーノたんの前照灯が、白い石床を照らしている。
「……ん?」
私は顔を上げた。
光が当たっている場所だけ、黒い靄が薄い。
ほんのわずかだ。けれど、気のせいではない。前照灯の周囲では、闇の表面が剥がれるように後ろへ退いている。
「クロノさん?」
エルヴィンの声にも答えず、ハンドルへ手を伸ばした。スイッチへ指をかける。
「何をしてますの?」
「ちょっと待って」
前照灯を上向きへ切り替えた。
カチッ。
光が強く、遠くへ伸びる。
その瞬間。
黒い靄が、大きく波打った。
「なっ……!」
アルガスが息を呑む。
強い光を嫌がるように、闇の表面がめくれ上がっていく。黒い布を押し退けるように、光の筋が奥へ伸びた。その先に、向こう側の白い石床が現れる。
さらに奥には、見慣れた競技場の観客席と、降り注ぐ日の光が見えていた。
「闇が……避けていますわ」
リリスが目を見開く。
私はハンドルを横へ動かした。光が外れた場所へ、黒い靄がすぐに流れ込んでくる。
消えたわけじゃない。照らしている間だけ、押し退けられている。
シャーロットの聖光では、こんな反応は起きなかった。でも、ビーノたんの前照灯は、私がいた世界の光だ。
この世界には存在しない、異質な光。
だからこそ、この世界の暗影魔法を退けられるのかもしれない。
「これなら……」
ハンドルを強く握る。
「外へ出る道を作れるかもしれない」
「てか、さっきから気になってたんだけどよ」
アルガスが、ドッドッドッと唸るビーノたんを訝しげに見つめた。
「なんなんだよ、それ。生きてんのか?」
「生き物ではないですよね?」
エルヴィンも、丸い前照灯と車体を興味深そうに観察している。
「鉄の塊が自ら光を放ち、車輪で走る……。どのような仕組みなのでしょう」
「クロノちゃんが出す、いつもの女神様の世界のものだよ!」
ミーナが得意げに答えた。
「ミーナさん」
リリスの冷たい声が飛ぶ。
「ここには部外者もいますわ」
「あっ」
ミーナの笑顔が固まった。
「ご、ごめん!」
「め、女神様の世界だと……?」
ガフは、何かを思い出したように目を細めた。セイルは無言のまま、前照灯と私の手元を交互に見ている。バルドも、私の持つソーカの杖へ視線を移した。
「……まさか、その杖も同じなのか?」
三人が、そろって私を見る。
まずい。
ガストンを含め、仲間たちは全員、遠い目をしていた。
あの顔は知っている。
私の説明を諦めた顔だ。
「これは、ビーノたん!」
私は五十㏄の原チャリの座席を、ぽふっと叩いた。
「私の相棒です!」
「それ、名前と敬称しか説明してねえだろ」
「細かいことは気にしないで!」
ガフがすかさず笑って突っ込む。
「ハハハ! クロノっていったな。なんか、お前がどういう奴か分かってきたわ!」
仲間たちから、諦めの混じった乾いた笑いが漏れた。
「今は脱出が先! ここから出られるかもしれない!」
これ以上の追及を雑に押し切り、私は座席から降りた。
「私が道を作る。みんな、ビーノたんの後についてきて!」
「それなら、負傷者は俺たちが運ぶ」
ガフは床に横たわるマークとイザベラへ目を向けた。ほんの一瞬、苦いものを噛みしめるように口元を歪め、それから、座り込んだままのガストンを見る。
「俺が坊主を背負う。セイルは爺さんを頼む」
「分かった」
セイルが短く頷いた。
「おい、バルド。お前はその女だ」
「俺が?」
バルドは、床に横たわるイザベラの長身を見下ろした。
「さっきまで斬り合ってた女を、俺に背負えってのか」
「この中じゃ、お前が一番力がある。それとも、ガキどもに運ばせる気か?」
「……ちっ。分かったよ」
バルドは面倒そうに舌打ちすると、イザベラの前へしゃがみ込んだ。
「起きたら、運ばせた分くらいは礼を言わせろよ」
「意識のない相手に何を言っていますの」
リリスの冷たい声を浴びながら、バルドはイザベラの両腕を肩へ回し、その身体を背負い上げた。
イザベラは、まだ目を覚まさない。白い顔に血の気はなく、閉じた瞼も動かなかった。
一刻も早く、この闇の外へ連れ出さなければならない。
ガフがマークを背負い、ずり落ちないように細い腕をしっかりと掴んだ。
私はビーノたんのハンドルを握り、前照灯を闇の壁へ向ける。
「ミーナちゃん!」
「うん!」
ミーナが車体の後ろへ回り込み、ぐっと押した。前照灯で闇を照らしたまま、ビーノたんがゆっくりと前へ進む。
黒い靄が左右へ剥がれ、光の筋に沿って細い道が現れる。
バルドがイザベラを、ガフがマークを背負って後に続いた。アルガスとリリスが、その両脇を固める。そのすぐ後ろでは、セイルに肩を借りたガストンが、かろうじて足を進めていた。
最後尾では、エルヴィンとシャーロットが短杖を構え、背後を警戒する。
そうして私たちは、ビーノたんが切り開く道を、一列になって進んでいった。
やがて、黒い靄が途切れる。
ビーノたんの前輪が闇を抜けた。
頬に、外の風が触れる。
次の瞬間、眩しい光が一気に視界へ流れ込んだ。
私たちは、競技場へ戻ってきた。




