第49話 置かれた武器
黒い靄の奥では、仲間たちとバルドたちの戦いが、まだ続いていた。
バルドはイザベラとアルガスに挟まれ、セイルはリリスの長槍を捌きながら、横から斬り込むミーナを細槍で牽制している。
後方では、エルヴィンが短杖を向け、その傍らでシャーロットが、ふらつくガストンの身体を支えていた。
ガストンの顔色は、先ほどよりもさらに悪い。
呼吸をするたびに肩が上下し、小斧を握る手にも力が入っていなかった。
イザベラも、動きこそ乱れていないものの、普段より呼吸が深い。それでも細剣を下ろさず、バルドの前に立ち続けている。
一方、バルドとセイルの攻撃にも、先ほどまでの鋭さはなかった。
間合いを詰めることをためらいながら、それでもガフたちのもとへ向かう道だけは、頑なに塞ぎ続けている。
その時、バルドの視線がこちらへ向いた。
「なんだ、ありゃ……? ガフもいるぞ」
全員がこちらを振り向く。
ビーノたんに乗った私と、マークを背負うガフに気づいた瞬間、戦場の動きがぴたりと止まった。
「やめだ、やめ!」
ガフの怒声が、静まり返った空間へ響き渡る。
「この仕事は降りる!」
「なんだと!?」
バルドがハルバードを構えたまま、目を見開いた。
「その坊主はどうした!」
「返すことにした!」
「はあ!?」
「説明しろ」
セイルの短い声が飛ぶ。
ガフは背中のマークを示した。
「こいつの首を見ろ!」
バルドとセイルの視線が、マークの首筋へ向けられる。
セイルが細槍を構えたまま、数歩だけ近づいた。
リリスが即座に長槍を突きつけ、その足を止める。
「それ以上、クロノさんに近づかないでくださる?」
「痣を見るだけだ」
セイルは足を止め、目を細めた。
その顔から、わずかに血の気が引く。
「……ローザと似ている」
「似てるんじゃねえ。同じだ」
ガフが奥歯を噛む。
「こいつは枢機卿の黒い影を浴びた。それで、ローザと同じ痣が出てる」
バルドの指が、ハルバードの柄を強く握り込んだ。
「だが、セレナを切ったら、ローザを治す当てがなくなるぞ」
「分かってる」
「分かってて降りるだと?」
「ほかの道があるかもしれねえ」
ガフが私へ顎を向けた。
「この嬢ちゃんの母親は、灯火の聖女だ。ローザを診てもらえるよう、自分で頼むと言ってる。治療に金が必要なら、それも出すとな」
セイルが小さく呟く。
「……やはり、さっき枢機卿とセレナを相手にしていた女が、灯火の聖女か」
バルドの表情に、疑いが浮かんだ。
「貴族の聖女様が、俺たちみたいな傭兵の仲間を診てくれるとでも?」
「治せる保証はねえ。診てもらえる保証だってねえ」
ガフは言葉を濁さなかった。
「だが、嬢ちゃんが自分で頼むと言ってる」
「そんな子どもの口約束に、ローザの命を賭けるのかよ」
「セレナの約束には、もう賭けられねえ!」
ガフの声が、白い石床を震わせる。
「ローザを治すと言った連中が、同じ痣をばら撒いてるかもしれねえんだぞ! そっちを信じ続ける方が正気じゃねえ!」
バルドが言葉を失う。
ハルバードの刃が、少しだけ下がった。
「事情はすべて分かっていませんが、誰かを治療するためのお金が必要なのですね」
エルヴィンの声が、張りつめた空気の中へ届いた。
短杖を構えたまま、一歩だけ前へ出る。
「それなら、僕も出します」
「お前が?」
「僕はフォスティエ商会の人間です。必要な金額を聞かなければ、どこまで用意できるかは断言できません」
エルヴィンは、ガフたちをまっすぐ見据えた。
「ですが、クロノさん一人に背負わせるつもりはありません。足りなければ、父にも頼みます」
バルドが、私とエルヴィンを交互に見た。
「俺たちは、その商会を襲ったんだぞ」
「忘れてはいません」
エルヴィンの声は冷静だった。
「許したわけでもありません」
「なら、なぜだ」
「クロノさんが助けると決めたからです」
エルヴィンは目を逸らさなかった。
「僕も、そのためにできることをします」
「貴族も商人も、口では綺麗事ばかりだ」
「でしたら、言葉ではなく結果を見てください」
エルヴィンは静かに言い切った。
「僕たちが本当に動くかどうか、その目で確かめればいい」
それ以上、何も言わなかった。
白い石床の上へ、短い沈黙が落ちる。
先に動いたのは、セイルだった。
「ガフ」
細槍を向けたまま、静かに問いかける。
「ローザを診せられるという話だけで、決めたのか」
「違う」
ガフは首を横へ振った。
「セレナを信じる根拠が、全部なくなったからだ」
セイルの視線が、マークの黒い筋へ戻る。
「……俺も、あの女が変わったことには気づいていた」
苦い声だった。
「団長が死んでから、しばらくは泣き崩れて、見ていられないほどだった。だが、ある日を境に、人が変わったようになった」
細槍を握る手に、わずかに力がこもる。
「命令の内容も、団へ入れる人間も変わった。それでも、ローザを救うという約束がある限り、疑わないようにしていた」
「セイル……」
「もう、見ないふりはできない」
細槍の穂先が、ゆっくりと床へ向けられた。
「少なくとも、この黒い筋の正体を確かめるまでは、セレナの命令には従えない」
バルドだけが、まだハルバードを握っていた。
奥歯を噛み、セイルとガフを睨みつける。
「勝手に決めやがって……」
誰も答えなかった。
やがてバルドは、苛立ちを叩きつけるように、ハルバードの石突きを床へ打ちつけた。
「俺は降りねえ」
「バルド!」
「ローザを助ける道が本当にあるのか、この目で確かめる」
ハルバードを構え直すことはなかった。
「それまでは、お前らについていく。見張るためにな」
ガフが眉をひそめる。
「それを降りるって言うんだよ」
「うるせえ!」
バルドは顔を歪めた。
「ローザが死んだら、俺はお前らを許さねえぞ」
「分かってる」
「そこの嬢ちゃんもだ」
「うん」
「簡単に返事すんな!」
アルガスが両手剣の向こうで眉をひそめる。
「こいつ、助けてもらう側の態度かよ」
「アルガスさん、今は黙っていてくださいまし」
リリスに窘められ、アルガスが不満そうに口を閉じた。
バルドはしばらく私を睨んでいたが、やがてハルバードを白い石床へ横たえた。
ガフも腰から剣を鞘ごと外し、その隣へ置く。
セイルも細槍から手を離した。
三人の武器が、白い石床の上へ並んだ。
ミーナが、張りつめていた息を小さく吐く。
けれど、リリスもアルガスも、まだ武器を下ろしてはいない。
イザベラの細剣も、ガフの胸元を捉えたままだった。
「クロノ様。こちらへ」
「大丈夫。この人たちは、マークを返してくれる」
「信用なりません」
イザベラの声は冷たく、切っ先は微動だにしない。
「俺たちだって、信用してもらおうとは思ってねえ。今は利害が一致しただけだ」
ガフは両手を見える位置へ上げた。
それから、ゆっくりと膝をつき、マークを背中から下ろす。
頭を支えながら抱き直し、私へ差し出した。
「約束どおり返す」
「マーク!」
私は差し出された弟の身体を受け止めた。
「っ……!」
想像していたより、ずっと重い。
全身から力の抜けた身体に腕が沈み、そのまま取り落としそうになる。
「クロノ様」
すぐにイザベラの腕が伸び、マークの背中と頭を支えた。
二人で抱きかかえるようにして、ゆっくりとその場へ膝をつく。
マークは私たちへ身体を預けたまま、ぴくりとも動かない。
頬へそっと手を触れる。
「マーク、分かる? 私だよ!」
返事はない。
けれど、胸は規則正しく上下している。
呼吸も穏やかだ。
まるで、深く眠っているだけのように見えた。
「よかった……」
張りつめていたものが、一気に緩みそうになる。
私は震える腕に力を込め、マークを強く抱き締めた。
「クロノちゃん」
シャーロットの声が飛ぶ。
ガストンを支えていた手を離し、こちらへ駆け寄ろうとする。
けれど、その瞬間。
ガストンの膝が、がくりと折れた。
「ガストンさん!」
シャーロットが慌てて抱き留める。
「大丈夫ですか!?」
「申し訳ございません。少々、力が抜けただけでございます」
ガストンは小斧を床へつき、どうにか身体を支え直した。
顔色は青白く、額には冷たい汗が滲んでいる。
ずれた襟元から、黒い筋が先ほどよりも濃く覗いていた。
「クロノ様……申し訳ございません。マーク様を、お守りしきれず……」
「謝らないで」
私はマークを抱いたまま、首を横へ振った。
「ガストンが守ってくれたから、マークは無事だった。ありがとう」
「もったいなき、お言葉でございます」
ガストンは弱々しく笑い、片膝を立てようとする。
「無理はしないでください」
シャーロットが、そっと腕を支えた。
「なに、わしも老骨ゆえ、少々堪えただけでございます」
「それを少々とは言いません」
それでもガストンは、小斧を杖代わりにゆっくりと立ち上がった。
「それよりも、イザベラの方が……」
「ガストン」
静かな声が、それ以上の言葉を遮った。
イザベラはいつもと変わらない表情で、ガストンを見据えている。
ただ、その顔にはほとんど血の気がなく、細剣を握る指先も白くなっていた。
「しかし、お前の方が……」
「今は、マーク様の確認が先です」
二人の視線が、しばし正面からぶつかり合う。
「……後で必ず、診てもらえ」
イザベラは一瞬だけ目を伏せた。
「ええ」
ガストンは不満を残したまま、ようやく口を閉ざした。
シャーロットは二人を気にするように視線を揺らしたが、すぐに私のもとへ駆け寄ってくる。
「マーク君を診せて!」
「お願い!」
私はマークを抱いたまま、その場へ膝をついた。
シャーロットが首筋へ手をかざすと、柔らかな聖光が小さな身体を包み込む。
淡い光が、黒い筋へ触れる。
けれど、痣は消えない。
「わ、私では、この痣を消すことはできないみたいです。でも……」
シャーロットは目を閉じたまま、慎重にマークの状態を探る。
「呼吸も脈も乱れていません。黒い痣も、今は広がっていないと思います」
「じゃあ、マークは大丈夫なの?」
「絶対とは言えません。でも、今すぐ危険な状態ではないと思います」
「よかった……」
胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩んだ。
痣は消えていない。
マークも、まだ目を覚まさない。
それでも、すぐに失ってしまうわけではない。
その言葉だけで、周囲からも安堵の息が漏れた。
ガフはその様子を見つめたあと、イザベラへ顔を向けた。
「許してくれとは言わねえ。俺たちがやったことも、なかったことにはできねえ」
「当然です」
「全部終わったら、逃げずに責任は取る」
イザベラは細剣を向けたまま、冷たく答えた。
「その言葉、忘れないでください」
「ああ」
ガフは静かに頷いた。
三人が、私たちの仲間になったわけではない。
罪が消えたわけでもない。
それでも、セレナのために握っていた武器を、自分たちの意思で置いた。
けれど、安堵している場合ではない。
マークを逃がすために、あの場へ残った二人がいる。
「父さんと、母さんは……」
私の声に、ガフたちの表情が強張った。
父さんと母さんは、今もまだ暗影の奥で、枢機卿とセレナを食い止めている。
それに、この暗闇から出る方法だって考えなければならない。
マークを取り戻しただけでは、終われない。




