第48話 黒い痣
開かれた道を駆け抜けたものの、ガフの背中は遠ざかっていった。
「待って!」
意識を失ったマークを背負っているのに、速い。大人と十歳では、歩幅も体力も違いすぎる。息はすでに上がり、足も重くなり始めていた。このまま走っても、追いつけない。
私はソーカの杖を持ち上げた。
銃口の先に、ガフの背中が重なる。けれど、そのすぐ上では、マークの細い腕が、走るたびに力なく揺れていた。
駄目だ。
撃てない。
少しでも狙いを外せば、マークに当たる。
「だったら……!」
頭に思い浮かべたのは、前世で何度も乗った、小さくて可愛らしい原動機付き自転車。
丸い前照灯。
滑らかな曲線を描く車体。
バイク好きだった前世の父が、「ちょっとそこまで出かける時用に」と買ってくれた、私の相棒。
「限界具現! ビーノたん!」
白い石床の上で、光が弾けた。
集まった光の粒が輪郭を描き、丸みを帯びた車体へ変わっていく。
私の愛車。五十ccの原チャリ!
ハンドルをつかんで跨がり、キーをひねる。
キュルルル、ぶるんっ!
小気味よい排気音が、暗影の静寂を跳ね回った。
「な、なんだ!?」
ガフが肩越しに振り返る。
目玉がこぼれ落ちそうなほど、その目が見開かれた。
「魔獣か!?」
「違う! 私の愛車!」
「あ、愛車!?」
私はアクセルをひねった。
「いっけえええっ!」
ビーノたんが、白い石床の上を走り出す。
いくらガフが速くても、マークを背負ったまま原チャリから逃げ切れるはずがない。
前照灯がその背中を捉え、みるみる距離が縮まっていく。
やがて、ガフの横へ並んだ。
「止まって!」
「止まれるか!」
「じゃあ、先に行く!」
「はあ!?」
そのままガフを追い抜く。
十メートルほど先でブレーキをかけ、車体を斜めに滑らせて進路を塞いだ。タイヤが白い石床を擦り、甲高い音が暗闇へ響く。
「止まって!」
ガフは数歩手前で足を止めた。
荒い呼吸を繰り返しながら、私とビーノたんを交互に見る。
やがて、警戒するように腰の剣へ手を伸ばした。
「……やるしかねえのか」
「待って! まずは話し合い!」
「そう言って、その魔獣に襲わせる気だろ!」
「魔獣じゃないし、そんなことしない!」
「貴族のガキの言うことなんざ、信用できるか!」
怒鳴りながらも、ガフはすぐには剣を抜かなかった。背中のマークへ片腕を回し、頭を支えながら、ゆっくりと白い石床へ下ろしていく。
膝が床につく直前まで身体を抱え、頭が石へ触れないよう慎重に横たえた。少なくとも、マークを傷つけたいわけではないらしい。
ガフは立ち上がると、マークを背後へ庇い、剣を抜いた。
「話し合いてえなら、そこで話せ」
「じゃあ聞く」
私はビーノたんを降りた。
エンジンは止めず、ソーカの杖を握ったままガフを見据える。
「なんでマークを攫ったの?」
「お前には関係ねえ」
「関係あるよ! 私の弟なの!」
ガフの眉間へ、深い皺が寄る。
「……弟、か」
剣先が、わずかに下がった。
「俺にも、助けなきゃならねえ仲間がいる」
「仲間?」
「ローザって女だ。前の団長の頃から、ずっと一緒に戦ってきた」
ガフは奥歯を噛み締めた。
「半年前から、黒い痣に身体を蝕まれてる。日に日に弱って、今じゃまともに立つこともできねえ」
「黒い痣……」
「一年前に死んだ団長も同じだった。普通の治療じゃ、どうにもならなかった」
剣を握る指に力がこもる。
「セレナは、言うとおりに働けば、ローザを治すための金も伝手も用意すると約束した」
「セレナって、誰?」
「今、俺たちの傭兵団を仕切ってる女だ。死んだ団長の女房で、俺たちはアネゴと呼んでる」
ガフは一度だけ目を伏せた。
「今日、俺たちが聞いてたのは、来賓席の内扉を押さえておけって話だけだった。だが、騒ぎが始まってから命令が変わった」
「マークを捕まえろって?」
「ああ」
遠くで、金属同士が激しくぶつかる音が響いた。
仲間たちは、今もバルドたちと戦っている。
長話をしている時間はない。
それでも、ここでガフを止めなければ、マークを取り戻せない。
「何があったの?」
ガフはすぐには答えなかった。
周囲を覆う黒い靄へ視線を向け、低い声で口を開く。
「……最初に、聖光を使う女が、来賓席を覆うようなでかい結界を張った」
「聖光を使う女……?」
「ああ。その直後、枢機卿が影を広げた。結界の外側は、全部この暗闇に呑まれた」
ガフは剣先で、周囲を覆う黒い靄を示す。
「出口も見えなくなった。外と切り離されたみてえにな」
「それから?」
「セレナに命令された。あの子どもを捕まえろってな」
ガフの視線が、床へ横たわるマークへ落ちる。
「だが、すぐに動ける状況じゃなかった。司祭が枢機卿へ突っ込んで、女はセレナと紅蓮の魔法をぶつけ合ってた」
父さんと、母さんが……。
「その隙に、爺さんとメイドが坊主を連れて逃げようとした」
ガフの表情が険しくなる。
「だが、枢機卿が三人へ影を放った。爺さんとメイドが前へ出て、まともに受けた。坊主も巻き込まれたはずだ」
「三人とも……?」
「それでも、二人は止まらなかった。坊主を連れて、そのまま逃げた」
ガフは、来た道の向こうへ目を向ける。
「俺たちは、あとを追った。だが、あの闇の壁に行く手を塞がれて、三人は外へ出られなかった」
「それで、追いついたの?」
「ああ」
握られた剣が、わずかに下がる。
「追いついた時には、二人とも影のせいで動きが鈍ってた。それでも、坊主を渡そうとはしなかった」
遠くから、再び激しい金属音が響いた。
今も、イザベラとガストンは戦っている。
「揉み合いになった。バルドとセイルが二人を押さえて、その隙に俺が坊主を奪った」
ガフは、マークから目を逸らした。
「……命令だった」
それ以上、何も言わなかった。
私は床へ横たわるマークを見る。
襟の隙間から、墨を流したような黒い筋が覗いていた。さっき、ガストンの襟元から見えたものと、よく似ている。
「待って」
「何だ」
「ローザさんの痣って、マークについてる痣と同じ?」
ガフの視線が、マークの首筋へ落ちた。
その瞬間、表情が凍りつく。
「……なんで、こいつにも」
剣先が、ゆっくりと下がっていった。
「同じだ。ローザも、最初はそのくらい細かった」
「気づいてなかったの?」
「そんな余裕あるかよ」
ガフは、マークの首筋を食い入るように見つめる。
「影を浴びたことしか見てねえ。痣が出てるなんて、今初めて気づいた」
「じゃあ、この痣は……枢機卿の黒い影を受けたせいかもしれないってこと?」
「……ああ」
ローザを治せると言ったセレナ。
そのセレナと手を組む枢機卿の影を浴びたマークに、ローザと同じ痣が現れている。
「それって……」
喉が乾く。
「治せる人たちじゃなくて、同じものを生み出してる人たちなんじゃないの?」
ガフは何も答えなかった。
マークの首筋を見つめたまま、その顔がゆっくりと歪んでいく。
「セレナが枢機卿と手を組んだ時は、これでローザを治せるかもしれねえと思った。だが……違う」
長い沈黙のあと、掠れた声が落ちた。
「最初から、あいつらがばら撒いてたのか……?」
握られていた剣が、小さく震えていた。
その疑問に、私も答えることはできない。
けれど、セレナが黒い痣と無関係とは思えなかった。
「だったら、ローザさんを母さんに診てもらって!」
「何?」
「私の母さんは、灯火の聖女なの」
ガフが顔を上げる。
「治せるなんて約束はできない。母さんが診れば絶対に助かるなんて、そんな嘘も言えない」
私は一歩だけ前へ出た。
「でも、お願いすることはできる」
「お前の母親が、俺たちみたいな奴の仲間を助けるとでも思ってんのか?」
「分からない!」
「分からないだと?」
「絶対に助けられるなんて、言えないから!」
ガフの口が閉じた。
「でも、何もしないで見捨てたりはしない」
私はソーカの杖を握り締める。
「ローザさんは、何もしてないんでしょ?」
ガフの表情が止まった。
「あなたたちが悪いことをしたからって、その人まで見捨てる理由にはならない」
「……お前」
「もし母さんでも治せなくて、ほかの治療にお金が必要なら、私が出す」
四紋札の考案料として、フォスティエ商会から受け取ったお金。
それで足りるかどうかは分からない。
それでも、今あるものを出し惜しみするつもりはなかった。
「足りなかったら、エルヴィンやフォスティエ商会にも頼んでみる」
「俺たちは、その商会を襲ったんだぞ」
「知ってる。最低だし、許したわけじゃない」
商会を襲ったことも。
私たちを攫おうとしたことも。
マークを連れていこうとしたことも。
「でも、それとローザさんの命は別だから」
ガフは剣を構えたまま、私を見ていた。
黒い靄が、遠くでゆっくりと揺れている。
暗闇の向こうから、再び激しい金属音が響いた。
一秒。
二秒。
もっと長く感じる沈黙が続く。
ビーノたんのエンジンだけが、白い石床の上で低く唸っていた。
「……嬢ちゃんを信用したわけじゃねえ」
「うん」
「貴族も、商人も、お前の母ちゃんの聖女様も信用できねえ」
「うん」
「だが……」
ガフは、もう一度マークの黒い筋を見る。
「セレナを信じる理由は、なくなった」
剣先が完全に下がった。
やがて、刃がゆっくりと鞘へ収められる。
「俺は、お前の話に賭ける」
「本当に?」
「ああ」
ガフはマークのもとへ膝をつくと、頭を支えながら慎重に抱き上げた。再び背中へ負ぶい、腕と脚をしっかりと固定する。
「仲間のところまで俺が運ぶ。そこで、お前に返す」
「そのまま逃げたりしない?」
「お互い信用してねえんだろ」
「うん」
「なら、そいつで俺の横につけ。逃げようとしたら、また前を塞げ」
「分かった」
そういえば、商会でエルヴィンの魔法を斬り落とした時も、ガフはすぐに剣を鞘へ戻していた。少なくとも、子どもを平気で傷つけられる人ではない。
「分かった。もう、うだうだ言わない」
私はソーカの杖を下ろした。
「今だけ、信じる」
「信じるなんて簡単に言うなよ……」
「一時休戦ね。マークをお願い」
「ああ」
私はビーノたんへ跨がった。
ガフが来た道を引き返し、私はその隣を走る。
暗闇の向こうから、金属同士がぶつかる音が近づいてきた。
やがて、揺れる黒い靄の奥に、戦い続ける仲間たちの姿が浮かび上がる。
ついさっきまで敵だった男と、目覚めないマークを連れて、私はその戦場へ戻った。




