第47話 暗影の奧へ
リリスの号令と同時に、《ワールウィング》が動き出した。
明るい避難口へ下っていく人波を背に、私たちは競技場の外周通路を逆走する。目指すのは、競技場を挟んだ真向かい、その最上段。
黒い影に沈む来賓席だ。
「左前方に二体! 右前方に三体です!」
最後尾から、エルヴィンの声が飛ぶ。
「ミーナさんはそのまま左へ! アルガスさんは右をお願いします!」
「任せて!」
「おう!」
ミーナが石床を蹴った。
迅玉式の鋭い踏み込みで、一気に魔獣の懐へ潜り込む。振り下ろされた爪の下をすり抜け、そのまま片手剣を横薙ぎに振り抜いた。
「はあっ!」
破剣式の重さを乗せた一閃。
刃は手前の魔獣を斬り抜き、その勢いのまま、後ろから迫っていたもう一体まで薙ぎ払った。
二体の魔獣が、ほとんど同時に崩れ落ちる。
「二体まとめて!?」
「じゃんじゃんいっくよー!」
「じゃんじゃん!?」
「へっ! こっちも負けてられねえな!」
反対側では、アルガスが両手剣を右肩の後ろへ引き絞っていた。
十歳の身体には、明らかに不釣り合いな大剣。両脚を大きく開いて踏ん張り、迫ってくる三体の魔獣を睨み据える。
「紅蓮よ、我が刃に宿れ!」
短い詠唱とともに、両手剣の刃が赤く燃え上がった。炎は剣身を包み込み、切っ先へ向かって凝縮していく。
「まとめて吹っ飛べえっ!」
アルガスが両手剣を横薙ぎに振り抜いた。
刃を包んでいた炎が前方へ放たれ、三体の中央で爆発する。
轟音と熱風が、広い通路を駆け抜けた。
「うわっ!」
思わず腕で顔を庇う。
爆炎に呑み込まれた二体が、黒い塊となって石床を転がっていった。
「よっしゃ!」
けれど、爆発の端にいた一体は倒れていない。身体の半分を焦がしながら炎の中から飛び出し、陣形の中央にいるリリスへ襲いかかる。
「リリス!」
鋭い爪が振り下ろされた。けれど、リリスは退かない。半歩だけ前へ踏み込み、長槍の柄で爪を外へ受け流す。
鏡盾式。
「詰めが甘いですわ!」
攻撃を逸らした勢いのまま穂先を返し、体勢を崩した魔獣の脇腹へ突き込んだ。魔獣が石床へ叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
「クロノさんにいいところを見せたいからといって、そんな派手な魔法を使っていては、すぐに魔力が尽きますわよ!」
「うるせえ! このくらい大丈夫だ!」
「では、その魔法、あと何発撃てますの?」
「……あと三発くらいだ」
「肝心な時のために残しておくものですわ!」
言い合いながらも、二人はすぐに元の位置へ戻った。
アルガスが派手に道をこじ開け、その取りこぼしをリリスが中央で仕留める。相変わらず喧嘩ばかりなのに、戦いになると妙に噛み合っていた。
ミーナとアルガスが左右を切り開き、中央をリリスが埋める。前へ出た者が戻るまで、残った者が穴を塞ぐ。
魔導倒旗戦の練習で、みんなが何度も繰り返していた動きだ。
その時、私は外から見ているだけだった。だけど今は、その陣形の中を一緒に走っている。
そして、相手は旗を守る同級生じゃない。
牙も爪も、本物だ。
「前方に魔獣を複数確認! 速度は落とさないでください! 囲まれる前に、このまま中央を突破します!」
エルヴィンの指示に従い、《ワールウィング》が速度を上げた。
その時、私たちの左側で、石床を覆っていた黒い影がぶくりと膨れ上がる。
「クロノさん、左です!」
シャーロットが叫んだ。
影の中から、大きく裂けた口が飛び出す。
「うわっ!」
反射的に右へ跳ぶ。けれど、魔獣の牙は、すぐ目の前まで迫っていた。
「剛岩よ、壁となれ! 《石壁》!」
エルヴィンの詠唱に応じ、私と魔獣の間で石床が勢いよくせり上がる。
牙が石壁へ食い込み、鈍い音が響いた。
「クロノさん、そのまま下がって!」
エルヴィンが短杖を横へ振る。石壁が、魔獣を押し潰すように倒れ込んだ。けれど、魔獣は寸前で牙を引き抜き、崩れ落ちる壁の横へ素早く跳び退く。
「かわされました! クロノさん、来ます!」
着地した魔獣が低く身を沈めた。
飛びかかってくる。
でも、残念。
こっちはもう、照準済みだ。
パンッ!
額を撃ち抜かれた魔獣が大きくのけぞり、そのまま石床へ倒れ込んだ。
「よし!」
「クロノさん、進みますわよ!」
「うん!」
さっき、あの魔獣が影から飛び出す直前、石床の黒がわずかに膨らんだ。
今ので分かった。
「エルヴィン! 影が膨らんだ場所から出てくる!」
「承知しました。クロノさんも出現位置の確認をお願いします!」
私は走りながら、通路に落ちた影へ目を凝らした。
「右前、二体!」
膨らんだ影へ先回りするように銃口を向ける。
パンッ!
飛び出しかけた一体の額を、弾丸が撃ち抜いた。魔獣が石床へ倒れ込む横を、ミーナが駆け抜ける。
「はあっ!」
片手剣が鋭く閃き、残る一体も斬り伏せた。
「いいね、クロノちゃん!」
「影を見れば、出てくる場所が読める!」
「それなら、前衛の死角も補えますね!」
エルヴィンの声が返ってくる。
足手まといにならないようにしないと……。
私にも、できることがあるはずだ。
そう思えたのも、ほんの一瞬だった。
走り続けるミーナへ、横から魔獣の爪が伸びる。ミーナは身体をひねったものの、避けきれない。制服の袖が裂け、肌に新たな赤い線が走った。
「ミーナさん!」
シャーロットが私の横から飛び出す。
見覚えのある、細かな足運び。もう、ぎこちなさはない。滑るように間合いを詰める、迅玉式の動きだ。何度も練習したからこそ分かる。
足運びは、もう見よう見まねじゃない。ちゃんと、自分のものになっている。
シャーロットは一気にミーナとの距離を詰め、傷口へ手をかざした。淡い聖光が広がり、流れかけていた血が止まる。
「ありがとう、シャーロットちゃん!」
「ま、まだ治療は終わっていません!」
「動くのに困らなければ十分!」
ミーナはすぐに前列へ戻った。シャーロットも、その背を追って元の位置へ駆け戻る。入学したばかりの頃なら、誰かの後ろで震えていたはずなのに。今だって、怖くないはずがない。
それでも、シャーロットは走っている。
その後も、陣形は崩れなかった。
影の膨らみを見つけ、私とエルヴィンが全体へ伝える。
アルガスの紅蓮が魔獣の足を止め、リリスの蒼氷が逃げ道を塞ぐ。その間をミーナが駆け抜けるたび、黒い身体が次々と石床へ崩れ落ちていった。
誰かが傷つけば、シャーロットがすぐに駆けつける。
倒した数なんて、もう分からない。
それでも、確実に前へ進んでいた。
「正面、開きました!」
エルヴィンの声が飛ぶ。
「大階段まで一気に進みます!」
前衛の三人が陣形へ戻る。
私たちは魔獣の群れを抜け、外周通路を駆け抜けた。
ミーナの呼吸は荒く、裂けた袖には、止まったはずの血が薄く滲んでいる。
アルガスも、頬や腕にいくつもの浅い傷を負い、制服のあちこちを煤で黒く汚していた。
それでも、二人は前衛から退かない。
私たちは、その背中を頼りに走り続けた。
振り返れば、避難口へ流れ込む人々の姿はすでに遠く、悲鳴も怒号も競技場の下方へ沈んでいた。
対して、私たちの正面には大階段がそびえている。上へ行くほど光は薄れ、石段の色も黒く濁っていた。まるで、階段そのものが暗影の中へ沈んでいるみたいだ。
私たちは、来賓席へ続く大階段へ飛び込んだ。息を切らしながら、ひたすら石段を駆け上がる。
「あなたたち!」
遠くから、鋭い声が飛んできた。
ディディエ司祭だ。
競技場の下段で、何体もの魔獣を石壁によって押さえ込みながら、こちらを見上げている。
「どこへ向かっているのですか!」
「ら、来賓席です!」
私が叫び返した瞬間、ディディエ司祭の顔色が変わった。
「いけません! そちらは暗影が濃すぎます! ただちに引き返しなさい!」
反対側からは、エリシア先輩の声も飛んでくる。
「クロノさん!? 何をしているの! そっちは避難路じゃないわ!」
周囲で魔獣を食い止めていた上級生たちからも、次々と怒声が上がった。
「戻れ!」
「その先へ近づくな! 死ぬぞ!」
足が、ほんの一瞬だけ止まりかけた。ディディエ司祭はもちろん、エリシア先輩たちは、私たちよりずっと強いだろう。
その人たちが、本気で行くなと言っている。
でも。
その先には、マークがいる。
「分かってる!」
アルガスが両手剣を抱えたまま叫んだ。
「でも、クロノの弟がいるんだ! 置いて逃げられるかよ!」
「マークくんを確保しましたら、ただちに戻りますわ!」
リリスも走りながら声を張る。
「ディディエ司祭、申し訳ありません! あとでいくらでも叱ってください!」
「今、叱っているのです!」
「帰りましたら、改めてよろしくお願いいたしますわ!」
「リリスさん!」
ディディエ司祭の怒声を背中に受けながら、私たちは階段を駆け上がった。
上るたび、背後の声が遠ざかっていく。
石段の両脇には黒い影が溜まり、足元へ細い指のように伸びていた。
一人では、ここまでたどり着けなかっただろう。みんながいたから、進めた。
やがて、大階段の最上段へたどり着く。
けれど、その先にあるはずの来賓席は見えなかった。
黒い霧。
濃く淀んだ影が、通路の奥をすべて覆い隠している。ゆっくりと波打ちながら、階段の上からこちらへ流れ出していた。
「なに、これ……」
目を凝らしても、その先は何も見えない。
ほんの数歩先に床があるのかさえ分からなかった。
「な、中の様子が、まったく分かりません」
シャーロットが短杖を向ける。
杖先から生まれた淡い光は、黒い霧へ触れた途端に呑み込まれた。
「光まで消えるの?」
エルヴィンが眉間に皺をよめて呟く。
「中へ入れば、方向も分からなくなる可能性があります……」
「なら、全員でつながって進みますわ」
リリスが迷わず言った。
「絶対に、前後の者から離れてはなりません」
私たちは一列に並び直した。
先頭はリリス。
その後ろにミーナ、私、シャーロット、エルヴィン、アルガスと続く。
リリスは長槍の穂先を前へ向け、ミーナは空いた手でその制服をつかんだ。私はミーナの制服の背を握る。後ろからは、シャーロットの手が私の肩へ触れた。
さらにその後ろでは、エルヴィンがシャーロットの制服をつかみ、アルガスは両手剣を肩へ担いだまま、エルヴィンの背を握っている。
「クロノちゃん、絶対に離さないでね」
「ミーナちゃんもね」
「では、進みますわよ」
リリスが黒い霧へ足を踏み入れた。
その姿が、あっという間に闇へ呑み込まれる。
私たちも、つながったまま後へ続いた。
一歩。
冷たい何かが、頬と身体を撫でていく。
二歩。
魔獣の鳴き声も、ディディエ司祭たちの声も、急速に遠ざかっていった。
三歩。
完全な暗闇だった。目を開けているのか、閉じているのかさえ分からない。
ミーナの制服を握る指先。
肩へ置かれたシャーロットの手。
それだけが、みんなとまだつながっていることを教えてくれていた。
「全員、入ったぞ!」
暗闇の後ろから、アルガスの声が響く。
その瞬間。
足元の石床が、わずかに沈んだ。
「えっ……?」
身体が前へ引かれる。
耳の奥で、何かが弾けた。
次の一歩を踏み出した途端、肌にまとわりついていた冷たい霧が消える。闇そのものが裏返ったように、視界が一気に開けた。
そこには、来賓席の白い石床だけが残されていた。座席も、手すりも、壁もない。
平らな石床がどこまでも続き、遠くへ行くほど黒い靄に沈んでいる。その先には地平線すらなく、空間の果てを塗り潰すような闇だけが広がっていた。
空も、光源も見えない。それなのに、白い床だけが薄ぼんやりと浮かび上がっている。
まるで競技場の一角だけを切り取り、終わりのない闇の中へ引き延ばしたみたいだった。
慌てて後ろを振り返る。
さっきまで駆け上がってきた大階段は、どこにもない。代わりに、黒い霧の壁が音もなく揺らめいていた。
「階段が……消えた?」
「僕たちの周囲ごと、競技場から切り離されたのかもしれません」
エルヴィンの声を聞きながら、再び前を向く。リリスを先頭に、周囲を警戒しながらゆっくりと進んだ。
一歩進むたび、白い石床を踏む足音だけが、不自然なほど大きく響く。
数歩進んだ、その時。
ガキンッ!
前方の黒い靄から、金属同士が激しくぶつかる音が響いた。
「前方に人影ですわ!」
リリスが長槍を構えたまま、足を止める。
黒い靄の向こうで、複数の人影が激しく動いていた。
私たちから三十メートルほど先。
黒いメイド服を翻し、振り下ろされたハルバードを細剣で受け流しているのは、イザベラだった。
相手はバルド。
重い刃と破剣式の踏み込みで、イザベラの進路を正面から塞いでいる。
その隣では、セイルの細槍と小さな斧が何度もぶつかっていた。
「ガストン……!」
ガストンが握っているのは、庭仕事で使っている小斧だった。服に目立った裂け目はなく、血を流している様子もない。
それなのに、顔色はひどく青ざめ、息も荒い。細槍を受け流すたびに足元が揺れ、身体が大きく傾いていた。
その拍子に襟元がずれ、首筋から黒い筋が一瞬だけ覗く。
「今の……」
目を凝らす間もなく、ガストンは小斧を振り上げ、再びセイルへ踏み込んだ。立っているだけでも、つらそうだ。それでも退かず、さらに奥へ進もうとしている。
そして、二人の戦いよりさらに先。
戦いの様子を見ている男が、小さな子どもを背負って立っていた。
男の肩から、細い両腕が力なく垂れ下がっている。
「え……?」
肩口から覗く、丸い頬。
見慣れた服。
そして、暗闇の中でも見間違えるはずのない金色の髪。
「マーク!」
返事はない。
頭は男の肩へ預けられ、瞼を固く閉じている。首筋には、墨を流したような黒い筋が浮かんでいた。
さっき、ガストンの襟元から一瞬だけ見えたものと、よく似ている。
太さは違う。
けれど、色も、肌の上を這う形も同じに見える。二人とも、黒い影を身に受けたみたいだった。
「マーク!」
もう一度、声を張り上げる。
マークから返事はない。
代わりに、その声へ反応した男が勢いよく肩越しに振り返った。
私の顔を見た瞬間、その目が大きく見開かれる。
「あの時のガキ!?」
その顔には、見覚えがあった。
フォスティエ商会の裏口へ回り込み、私とエルヴィンを捕まえようとした男。
ガフ。
確か、そう呼ばれていた。
ガフの視線が、私の手にあるソーカの杖へ落ちる。片手を腰の剣へ伸ばしかけ、警戒するようにマークを背負い直した。
「なんで、ガフがマークを……?」
考えている暇はなかった。
「まずい! あの時のガキが仲間を連れてきやがった!」
ガフがバルドたちへ叫ぶ。
「俺はこいつを連れて、アネゴんとこへ戻る!」
「行け、ガフ!」
バルドがハルバードを振り下ろしながら応じた。
「ここは俺たちが押さえる!」
セイルも細槍を翻し、ガストンを後ろへ押し戻す。
「クロノ様!」
イザベラが私に気づいた。
バルドのハルバードを鋼糸で絡め取りながら、鋭い声を上げる。
「危険です! 追ってはなりません!」
「お嬢様、お戻りください!」
ガストンも、苦しげに息を吐きながら叫んだ。けれど、ガフはもう私たちに背を向けていた。意識を失ったマークを背負い、暗影の奥へ走り出す。
「待って!」
その背中を追おうと踏み出した私の右手から、セイルの細槍が伸びた。
その穂先をリリスの長槍が横から弾く。
さらにガストンが小斧を振り込み、セイルを右側へ押し返した。
「クロノさん、行きなさい!」
反対の左手からは、バルドのハルバードが振り下ろされる。
だが、刃に絡みついたイザベラの鋼糸が、その軌道を外へ引いた。
「ここは俺たちが支える!」
アルガスが飛び込み、ハルバードの柄を両手剣で下から跳ね上げる。
イザベラとアルガスに軌道を逸らされたハルバードが、私のすぐ横の石床へ深く食い込んだ。
「剛岩よ、地を穿て! 《土穴》!」
エルヴィンが短杖を振り下ろす。
バルドの踵の下で石床が陥没した。
「なっ!?」
片足を取られ、バルドの身体が大きく傾く。
その懐へ、ミーナが飛び込んだ。
「私が相手だ!」
片手剣が鋭く閃く。
バルドはハルバードの柄で刃を受け止め、陥没した足場から足を引き抜きながら横へ跳び退いた。
右ではリリスとガストンがセイルを押さえ、左ではイザベラたちがバルドを引き離す。
その瞬間、正面を塞いでいた二人が退き、ガフの背中へ続く道が開いた。
ガストンの身体が、再び大きくよろめく。
シャーロットが咄嗟に駆け寄り、その肩を支えた。
「クロノちゃん、早く! ガストンさんは私が見ています!」
「弟、取り返してこい!」
シャーロットとアルガスの声が、背中を押した。
私はソーカの杖を強く握り締める。
マークを背負って遠ざかっていく、ガフの背中。
何度呼んでも、マークは動かない。
返事もしない。
その事実が、胸の奥を強く締めつけた。
待ってて、マーク。
今、助けるから。
「みんな、ありがとう! 行ってくる!」
そして、開かれた道を駆け抜け、ガフを追って暗影の奥へ飛び込んだ。




