第46話 ワールウィング
剣を抜いた父さんと、白い結界を広げる母さん。その二人を見上げたまま、私は動けずにいた。何が起きているのかは分からない。
けれど、普段はどうにも頼りない父さんが、枢機卿へ本気で剣を向けている。
それだけで、ただ事ではないと分かった。
次の瞬間。
来賓席に落ちていた影が、一斉に膨れ上がった。
「え……?」
黒い波が石床を駆け抜け、父さんたちの姿を呑み込んでいく。
「父さん……? 母さん! マーク!」
目を凝らしても、影の奥は見通せない。
直後、黒い塊が来賓席の欄干を飛び越えた。
四本の脚。
裂けたような大口。
影を無理やり獣の形へ固めたような何かが、観客席へ着地する。
一拍遅れて、悲鳴が弾けた。
「きゃあああっ!」
「魔獣だ!」
椅子の下から。石柱の陰から。人々の足元に落ちた影から。黒い獣たちが、次々と這い出してくる。
「ちょ、ちょっと待って! なんで競技場の中から魔獣が出てくるの!?」
もちろん、答えてくれる人はいない。ついさっきまで私の満点に沸いていた観客席は、一瞬で恐怖に塗り潰されていた。
椅子が倒れ、荷物が踏み散らされる。泣き叫ぶ子どもを抱えた母親が、階段へ駆け込む。逃げる者と家族を捜す者がぶつかり、押された生徒が転倒した。
その頭上を、魔獣の爪が薙ぐ。
「待ってください!」
鋭い声が、混乱を切り裂いた。
ディディエ司祭だった。
「観客席では大規模な魔法を使わないでください! 周囲の方々を巻き込みます!」
飛びかかってきた魔獣の横から石床が盛り上がり、その身体を弾き飛ばす。
「生徒は東側の避難口へ! 上級生は低学年の誘導を! 司祭は魔獣を観客から引き離してください!」
ばらばらだった人々の動きに、一本の流れが生まれた。司祭たちが魔獣と観客の間へ入り、土壁や氷の障壁で進路を塞いでいく。
視界の端では、通路脇で待機していた警備の傭兵たちも、壁際の武器立てから得物を取り、魔獣の迎撃へ走っていった。
競技場を挟んだ反対側の観客席では、エリシア先輩の翠嵐が、子どもへ飛びかかった魔獣を吹き飛ばす。
「低学年を先に通して! 上級生は通路の左右を守りなさい!」
「了解!」
高等部の生徒たちが、避難する人々を挟むように展開する。
カタリナ先輩も、倒れた生徒を片腕で抱き起こしながら、迫る魔獣を剛岩で牽制していた。
「立てる者は止まるな! 負傷者は私たちが運ぶ!」
ほかの生徒たちも、ただ逃げているわけではない。剛岩の壁が魔獣の突進を受け止め、蒼氷がその脚を石床へ縫い留める。
転びかけた子どもの身体を、翠嵐の風がそっと支えた。
みんな、戦っている。
司祭も、先輩たちも、観客席にいた戦える人たちも。
それでも、影から現れる魔獣の数が多すぎた。
「クロノさん!」
聞き慣れた声に、肩が跳ねる。
振り向くと、リリスがすぐ目の前に立っていた。
「ぼうっとしている場合ではありませんわ!」
「いや、だって、父さんたちが……!」
「ここに残っていても、何もできません! まずは私たちが避難しなければ、救助の邪魔になりますわ!」
すぐ近くで、アルガスが迫ってきた魔獣へ炎を放つ。人のいない方向へ追い払うと、東側の通路を指さした。
「あっちだ! 通路が塞がる前に行くぞ!」
「こ、こちらです! 小さい子から先に進んでください!」
シャーロットも、震える声を張り上げながら、同級生たちを中等部の先輩へ引き渡している。
「クロノちゃん、行こう!」
ミーナに右腕をつかまれた。
反対側には、エルヴィンが回り込む。
「立ち止まる方が危険です。今は人の流れに乗ってください!」
「ちょ、待って! 自分で歩けるから!」
二人に両側から支えられ、私は避難する人々の波へ押し込まれた。
リリスたちも、周囲の同級生を誘導しながら、少し後ろから続いてくる。
前からも後ろからも、人が押し寄せていた。
その流れに運ばれながら、私は何度も来賓席を振り返る。けれど、父さんたちがいた場所は、今も黒い影に覆われたままだった。
母さんとイザベラなら、きっと戦える。
父さんも剣を持っていた。
ガストンだって、あの倉庫に傷だらけの武具を並べ、今も丁寧に手入れしていた。たぶん、ただの庭師じゃない。
それでも。
マークは、まだ九歳だ。
走るのだって得意じゃない。
あの混乱の中を、ちゃんと逃げられるだろうか。
転んでいないだろうか。
黒い獣に襲われていないだろうか。
マークに何かあったら……。
「……駄目だ」
胸の奥が、嫌な形に縮んだ。
このまま逃げるなんて、できない。
私たちは、すでに競技場の低い位置まで下りていた。
少し先には、外へ通じる東側の避難口が見える。大勢の観客が、日の差し込む出口へ向かって流れ込んでいた。
そこから振り返ると、来賓席は競技場を挟んだ真向かいにある。
すり鉢状の観客席を越えた先。
競技場の最上段近く。
黒い影に覆われた来賓席は、ひどく遠く、そして高く見えた。
みんなが明るい出口へ下っている。
私たちも、このまま進めば外へ出られる。
でも、マークはあの暗闇の中にいる。
私は、人の流れの中で足を止めた。
「クロノちゃん?」
まだ腕をつかんでいたミーナが、すぐに気づく。
「止まっちゃ駄目だよ。早く行かないと!」
「……ごめん」
私はミーナの手を外し、黒い影に覆われた来賓席を見上げた。
「弟のマークが、あそこにいる」
「え……?」
「私、戻る」
避難口へ向かう人々に背を向ける。
「マークを見つけて、連れてくる」
父さんも、母さんも、イザベラも、ガストンも心配だ。でも、今、一番放っておけないのはマークだった。
「母さんたちと合流できたら、すぐに避難通路へ戻るから」
自分に言い聞かせるように告げ、一歩踏み出した。
その隣へ、ミーナも迷わず並ぶ。
「じゃあ、私も行く!」
「絶対駄目!」
思わず声を張り上げた。
「何がいるかも分からないんだよ! ミーナちゃんまで危ない目に遭う必要ないから!」
「クロノちゃんを一人で行かせる方が、絶対に駄目だよ!」
「ですが、二人だけで向かうのも無謀です」
いつの間にか、エルヴィンも人の流れから外れていた。
「僕も行きます」
「エルヴィンまで何言ってんの!?」
「これまで僕は、何度もクロノさんに助けられてきました」
いつもの穏やかな表情のまま、まっすぐに私を見る。
「あなたが困っている時に逃げたのでは、いつまで経っても恩を返せません」
「だからって、これは危なすぎるよ!」
どうしよう。巻き込みたくない。言葉を探しているうちに、背後から足音が近づいてきた。
「今さら何言ってんだ」
振り返ると、アルガスが人の波をかき分けて戻ってきた。
その隣には、息を切らしたシャーロットもいる。
「仲間の弟が危ねえんだろ。俺も行くぜ」
「わ、私も行きます!」
「二人まで……」
シャーロットの声は震えていた。足も、握り締めた両手も、隠しようがないほど震えている。
それでも、彼女は一歩も下がらなかった。
「誘導していた子たちは、中等部の先輩にお願いしました」
震える息を飲み込み、私を見つめる。
「もう、守られているだけではいたくありません。今度は私も、誰かを守りたいんです」
どうして、誰も逃げてくれないんだ。
頼もしい。
でも、それ以上に怖い。
私のせいで、みんなまで傷ついたら。
「まったく、どなたも勝手ですこと」
最後の同級生を上級生へ預けたらしいリリスが、銀髪を払いながら歩いてきた。
呆れたような顔で、私たちを見ている。
「リリス。ちょうどよかった。みんなを連れて避難して」
「お断りしますわ」
即答だった。
「霧絹蜘蛛の時に助けられた借りを、まだ返しておりませんもの」
「リリスまで……」
「それに、せっかく仕上げた陣形ですもの。ここで使わず、いつ使うというのです?」
「今それ言う!?」
リリスは私のツッコミを軽く受け流し、来賓席へ続く大階段を見上げた。こちらでは、大勢の人々が避難口へ下っている。
その真向かいでは、黒い影が来賓席から下へ広がり、通路を埋めようとしていた。
私たちは、その流れに逆らって立ち止まっている。
「クロノさん」
エルヴィンが、黒い影に覆われた来賓席へ目を向ける。
「救出の優先対象は、マークくんでよろしいですね?」
「うん」
迷いはなかった。
「みんな心配。でも、母さんとイザベラは戦える。父さんも、昔は騎士だったって聞いてる」
私はエルヴィンをまっすぐ見返した。
「ガストンも、たぶん普通の庭師じゃない。でも、マークは違う。まだ九歳で、走るのも得意じゃないから」
「分かりました」
エルヴィンが静かに頷いた。
「目的は、マークくんの発見と保護。見つけ次第、来た道を引き返します」
「うん」
「大人の方々の戦いへは、可能な限り介入しません。僕たちは、マークくんを連れ出すことだけに集中します」
言葉にされて、頭の中に絡まっていた不安が、一本の道へ変わっていく。
マークを見つける。
守る。
そして、みんなで逃げる。
「それでいい」
「決まりですわね」
リリスが五人を見渡した。
「ばらばらに進めば、すぐに囲まれます。練習した陣形を使いますわよ」
シャーロットが、はっと顔を上げる。
「ワ、ワールウィングですね」
「ええ」
リリスは力強く頷いた。
「ですが、前衛が素手のままでは心許ありませんわね」
「だったら、ちょうどいいもんがあるぜ!」
アルガスが、数歩先にある通路脇の柱へ駆け出した。
「ちょっと、アルガス!?」
柱の陰には、剣や槍、斧などを収めた武器立てがあった。魔導祭の警備中に不測の事態が起きた際、傭兵や司祭が使うための予備武器だろうか。
先ほど警備の傭兵たちが得物を取っていったものの、まだ何本か残されていた。
金属のぶつかる音が響く。
アルガスは大きな両手剣を引き抜いた。
その重さに一瞬よろめきながらも、すぐに肩へ担ぐ。さらに片手剣と長槍を抱え、こちらへ戻ってきた。
「へへっ。ちょいとお借りしてきたぜ!」
「持ち主の許可を取っておりませんわよね?」
「非常事態だろ! 生きて戻ったら返しゃいいんだよ!」
アルガスが片手剣を鞘ごとミーナへ差し出す。
「ほらよ!」
「ありがとう!」
ミーナは剣を抜き、重さを確かめるように二度振った。初めて手にした剣なのに、その動きに迷いはない。
続いて差し出された長槍を、リリスが受け取る。
「あとで事情を説明するのは、あなたですわよ」
「分かってるって!」
アルガスは両手剣を肩へ担ぎ直した。
リリスは長槍の石突を石床へ打ちつけ、五人を見渡す。
「それでは、配置につきますわよ」
長槍で、前方の左右を示す。
「ミーナさんは前列左。アルガスさんは前列右。私は中央へ入ります」
「任せて!」
「おう!」
「クロノさんとシャーロットさんは後方へ。エルヴィンさんは最後尾から、いつも通り全体の指揮をお願いしますわ」
「は、はい!」
「承知しました」
六人は、練習してきた位置へ散った。
前列左にミーナ。
前列右にアルガス。
二人の間から少し下がった中央にリリス。
その後方に私とシャーロットが並び、最後尾へエルヴィンがつく。
私は手の中のソーカの杖を握り直した。
即席なんかじゃない。
私がソーカの杖を手に、マークやガストンと何度も練習してきたように、みんなも魔導倒旗戦のために、何度も走り、何度も崩れ、そのたびにこの陣形を組み直してきた。
この騒ぎでは、魔導祭はきっと中止だ。
競技でこの陣形を披露する機会は、もうないだろう。
それでも。
積み重ねてきた時間は、無駄じゃなかった。
「クロノさん」
最後尾から、エルヴィンが私を見る。
「今度は、僕たちがあなたを助ける番です」
五人の顔を見回した。怖くないはずがない。
それでも、誰一人として逃げようとはしていなかった。
「みんな……ありがとう」
黒い影に覆われたままの来賓席へ、もう一度目をやる。
マーク。
待ってて。
「お礼は、マークくんを助けてからですわ」
リリスが来賓席へ向き直る。
長槍の穂先から、蒼い冷気が静かに広がった。
「目標は、マークくんの発見と保護」
ミーナが片手剣を構え、低く腰を落とす。
その隣では、アルガスの両手剣に紅蓮の炎が灯った。
「《ワールウィング》」
リリスが、黒い影に沈む来賓席へ長槍を向ける。
「マークくん救出戦、開始ですわ!」




