第45話 雷鳴の勇者
クロノ・ソーカが最後の標板を撃ち抜いた直後のことだった。
ソーカ家の一行は開会式には遅れたものの、クロノの晴れ舞台には、どうにか間に合っていた。灯火の聖女とその家族ということで案内されたのは、競技場を一望できる来賓席である。
前列にはグラン、サラサ、マークが並び、その背後には侍女のイザベラと庭師のガストンが控えていた。
競技場では、最後の乾いた音から一拍遅れて、最奥の標板から光が消えた。十枚すべての中心には、同じ大きさの小さな穴が穿たれている。
その異様な光景に、観客席のどよめきが波のように広がっていった。
「姉ちゃん、やばすぎ……」
マークが呆然と呟く。
「はっはっはっは!」
隣では、グランが腹を抱えて大笑いしていた。
「さすがクロノだ! あれだけ目立ちたくないと言っておいて、誰よりも派手にやったなぁ!」
「笑い事ではありません……」
サラサの身体が、ふらりと傾く。
「サラサ様、お気を確かに」
イザベラがすかさず、その肩を支えた。
「才というものは、隠そうとしても、ふとした拍子に顔を出すものです。まして、クロノ様ほどのお方なら、なおさらでございましょう」
ガストンも落ち着いた声を添える。
「でも、あの力は……」
何の慰めにもなっていなかった。
競技場では、審判たちが中心を撃ち抜かれた標板を囲み、何やら慌ただしく話し合っている。グランはしばらく楽しそうにその様子を眺めていたが、ふと向かい側の上段席へ目を向けた。
豪奢な法衣に身を包んだ老人が、一人で座っている。
「おや」
グランが姿勢を正した。
「枢機卿猊下がおられるではないか」
西のアストラルから東のセレスティアへ移って以来、何かとソーカ家を気にかけてくれた人物だった。
「サラサ。せっかくだ、挨拶しておこう。マークも来なさい」
「え……僕も?」
マークは露骨に嫌そうな顔をした。
「……あのお爺さん、すごく偉い人なんだよね? 僕はここで待ってるよ」
「あなたも来年には聖堂院へ入るのでしょう?」
サラサが服の裾を整えながら言った。
「せっかくの機会なのだから、お顔を覚えていただきなさい」
「でも、なんだか怖いんだもん。あのお爺さん」
「優しい方だぞ」
グランは笑いながら立ち上がった。
「少々、お言葉を聞き取るのが難しい時はあるがな」
イザベラとガストンを伴い、一行は上段の来賓席へ向かった。
⸻
熱狂に包まれた競技場を見下ろす来賓席。
枢機卿アルフォンス・セラフィン・ベルジュは、椅子へ深く腰を沈め、細い指を組んでいた。
その背後、石柱の影には、黒に近い紅紫の外套をまとった女が立っている。胸元は大胆に開かれ、口元には柔らかな微笑みが浮かんでいた。
格式ある来賓席には似つかわしくない装いだったが、周囲の者たちは、まるでそこに誰も立っていないかのように、彼女を気にも留めていない。
セレナ・グラウゼン。
一年ほど前、亡き夫から傭兵団を引き継ぎ、今では聖堂院の警備や魔獣討伐まで任される女である。その一方で、彼女の配下は、邪魔な貴族や商人への脅迫や襲撃にも手を染めていた。
柔らかく笑う口元とは裏腹に、その目には少しも温度がない。セレナは、中心を撃ち抜かれた魔導標板へ視線を向けたまま、小さく呟いた。
「……あれが、報告した娘よ」
「妙な力だねぇ」
アルフォンスの口元が、わずかに動く。
開会式で聞かせた、ふがふがとした話し方ではない。
「魔力の流れが、まるで見えない」
「異質でしょう?」
「だが、私たちを傷つけるほどではない」
「今のところは、ねぇ」
アルフォンスは興味を失ったように、標板から視線を外した。
「ゲートにも、司祭たちにも動きはないわ。こちらが結界を少しずつ削っていることにも、まだ気づいていないみたい」
「そうかい」
その時、アルフォンスの視線が、こちらへ近づいてくる一行を捉えた。
組んでいた指が、わずかに動く。
「ふむ……面倒なのが来たねぇ」
アルフォンスは、小さく息を吐いた。
「朱雀」
「なに?」
「気配を影の底へ沈めな」
セレナも静かに視線を移した。競技場の歓声を背に、グランとサラサが階段を上がってくる。
「翠嵐鏡と、灯火の聖女……。子どもを連れているところを見るに、まだこちらの正体には気づいていないわ」
「そうだねぇ。だが、あの家の者は昔から勘がいい。最後まで油断しないことだ」
「分かっているわ」
アルフォンスはゆっくりと背を丸め、老人の仮面を被り直した。
先ほどまでの声音も表情も、最初から存在しなかったかのように消えていく。
そこにいるのはもう、穏やかで少し耳の遠い枢機卿だった。
⸻
「枢機卿猊下。ご無沙汰しております」
グランは一段下から、丁寧に頭を下げた。
「本日は大盛況ですな。私も魔導祭を拝見するのは初めてですが、これほどとは思いませんでした。聖堂院の未来も安泰ですな」
枢機卿は、喉の奥でもごもごと何かを返した。
「ふぉ……ふぉれは、まことに喜ばしきことで……若き者らが、こうして日頃の……ふぉの、鍛錬を披露する姿は……ふぉふぉ……聖堂院の未来も、まことに明るく……」
「はっはっは!」
グランは豪快に笑った。
「申し訳ありません。歓声も大きく、ほとんど聞き取れませんでした!」
枢機卿の微笑みが、ほんのわずかに深まった。
グランには、それもいつもの穏やかな笑みにしか見えなかった。
「ああ、そうだ」
グランはマークの背を軽く押した。
「こちらは息子のマークです。来年から聖堂院へ通う予定ですので、どうぞよろしくお願いいたします」
マークはグランの陰に半分隠れたまま、枢機卿を見上げていた。
「ほら、マーク」
サラサが優しく促す。
「きちんとご挨拶なさい」
「……父さんと母さんの知り合いなんだよね?」
「ああ。こちらへ移ってから、何かと世話になっている方だ」
グランが頷く。
マークは少しだけ安心したように息を吐いた。
「そっか。父さんたちの知り合いなら、よかった」
その瞳に、淡い黄色の光が灯る。
枢機卿の目が、わずかに細くなった。
「だって、このお爺さん、真っ黒だから」
来賓席のその一角だけ、すべての音が消えた。
マークは続けて、枢機卿の背後へ視線を移す。
「そっちの女の人も。身体の中も、周りも、全部真っ黒に見えたから……」
グランはマークの視線を追った。
石柱の影に、女が立っている。
黒に近い紅紫の外套。
柔らかく笑う口元。
それまで、そこに人がいることさえ気づかなかった。
遠くでは、競技場を揺らす歓声が続いている。
枢機卿は老人の微笑みを浮かべたまま、マークを見つめていた。
一拍。その微笑みが、すっと消えた。
背後の女も、初めてマークを真正面から見つめた。
影の底へ沈めたはずの暗影を、この子どもは見抜いた。
枢機卿が、マークの奥へ意識を伸ばす。
赤と白の光が少年の内側に浮かび、その二色を貫くように細い黄金の光が走るのが見えた。
黄金の力は、まだ眠りの底にある。
だが、その気配を見間違えるはずがない。
「……へぇ」
枢機卿の声から、老人の演技が消えた。
先ほどまでの聞き取りづらい声とはまるで違う。柔らかく、若々しく、それでいて底の見えない声音だった。
「これは驚いたねぇ」
背後の女が、わずかに息を呑む。
「まさか、この子……」
「そうだよ」
枢機卿は、マークだけを見つめて微笑んだ。
「魔王を封じる法王の血筋から、今度は雷鳴の勇者が生まれるとはねぇ」
愉快そうに声を弾ませる。
「運命というのは、つくづく皮肉だ」
「勇者……?」
サラサは反射的にマークを抱き寄せた。その顔から血の気が引き、息子の肩を抱く指が小さく震えている。
マーク自身も、何を言われたのか分からないまま目を見開いていた。
同時に、グランの笑みも消えた。剣の柄を握る右手に力がこもり、革が低く軋む。意識を研ぎ澄ませる。
すると、老人の身体と枢機卿の法衣、その柔和な微笑みの奥から、忘れようのない暗影が浮かび上がった。
グランの呼吸が、一度だけ止まる。
「……黄竜」
枢機卿の顔を借りた魔人が、わずかに口角を上げた。
「気づくのが遅かったねぇ、グラン」
「貴様……!」
グランの親指が、剣の鍔を押し上げる。
黄竜はマークから視線を外さぬまま、背後の女へ静かに告げた。
「予定を変えよう」
「ゲートは?」
「後でいいさ」
黄竜の目は、マークだけを捉えている。
「こんな拾い物を、置いて帰るわけにはいかないねぇ」
「あの子を連れていくのね」
「そういうことだよ。ここで見逃す理由もない」
女が妖艶に唇を吊り上げる。
「翠嵐鏡は?」
「私が引き受けるよ」
黄竜は、世間話でもするような軽さで続けた。
「君は聖女を頼む」
「分かったわ」
「イザベラ! ガストン!」
グランの声が、来賓席に響いた。
「マークを守れ!」
「承知いたしました」
「御意」
二人が同時に動く。イザベラはマークの前へ滑り込み、ガストンは後方を塞ぐように立った。
突然変わった空気に、周囲の来賓たちも異変を感じ始める。
椅子を鳴らして立ち上がる者。
何が起きたのか分からず、その場で固まる者。
そのすぐ下には、魔導祭を楽しむ大勢の生徒や家族がいる。
サラサはマークを抱く腕をほどくと、イザベラとガストンへ小声で告げた。
「隙を見て、この子を逃がして」
二人はサラサと視線を交わし、無言で頷いた。マークも、いつもの軽い調子はなく、緊張した面持ちで母を見上げている。
三人の顔を確かめると、サラサは周囲の人々を背に庇うように、一歩前へ出た。
「皆さん、ここから離れてください!」
凛とした声が、来賓席のざわめきを切り裂く。
「司祭の方々は、観客の避難を! 子どもたちを優先してください!」
近くにいた司祭たちが、はっと我に返った。
「来賓席から離れろ!」
「階段へ! 押さずに進んでください!」
指示が飛び交い、周囲の人々が動き始める。
サラサが両手を胸の前で重ねると、白い聖光が足元から静かに広がった。光は石床を走り、来賓席の縁で半透明の壁となって立ち上がる。
「私の子にも、ここにいる方々にも、指一本触れさせません」
聖光の中心で、紅蓮の炎が灯った。白と赤の力は互いを呑み込むことなく絡み合い、サラサの身体を聖なる炎で包み込んでいく。
その隣で、グランは剣を抜いた。
胸の奥に押し込めてきた一族の最期が、鮮明によみがえる。
「我が一族の仇、今ここで討つ!」
翠色の風が、その全身から荒れ狂う。石床を駆け抜けた風に、周囲の椅子が大きく軋んだ。
マークの前では、イザベラの黒手袋の間から細い鋼糸が伸びる。後方では、ガストンが腰の斧を静かに抜き放った。
遠くの観客席では、異変に気づいた者たちが次々と来賓席を指さしていた。
歓声は途切れ、戸惑いを含んだざわめきが競技場へ広がっていく。
「何だ、あれは……?」
「来賓席で何が起きている?」
対する黄竜は、なおも椅子から立ち上がらない。
「相変わらずだねぇ」
人々を庇うサラサを眺め、どこか懐かしむように呟く。
「自分の身より、他人を守ることを先に考える」
その後ろで、女が石柱の影から静かに進み出た。
紅紫の外套が揺れる。足元から滲み出した暗影が石床を這い、暗い炎が背中越しにゆらりと灯った。
黄竜は肘掛けに置いた指先を、ほんのわずかに動かす。
その瞬間。
椅子の下。
石柱の陰。
女の足元。
来賓席に落ちていたすべての影が、一斉に脈打った。




