フォスティエ商会へようこそ
午後は、聖典の授業だった。
人間が暮らす世界を、暁界。
魔族が住む世界を、宵界と呼ぶらしい。そして、その二つの世界は、古くから存在するゲートによってつながっているのだという。
正直、私には聖典に出てくるお伽話くらいにしか聞こえなかった。勇者とか魔王とか、そういう神話の延長である。
でも、そんな授業を聞きながらも、私の意識は別のところにあった。魔族だのゲートだのより、今の私には、昼休みに見せてしまった札の方がよほど現実的な脅威だったからである。
ほんの出来心だったのだ。
そして授業が終わり、放課後になると、そのエルヴィンは、まるで大口取引の最終確認に来た若手商会主みたいな雰囲気で、私の机の前に立っていた。
「いや、気合いの入り方やばない?」
思わず真顔で返す。
こっちはただ、遊び札をちょっと見せただけなのだ。なのに向こうは、もう新しい交易路でも見つけた商人くらいの熱量で来ている。
え、これ私、そんな大変なもの教えちゃった? ただのトランプなんだけど?
エルヴィンは真剣そのものだった。
「父上にも、ぜひ紹介していただきたいのです」
「その“ぜひ”が重いんだよなあ……」
やっぱりやめたらよかった。私が軽く後ずさった、その時だった。
「クロノちゃーん! 一緒に帰ろ!」
横から、いつもの明るすぎる声が飛び込んできた。ミーナである。しかもそのまま、ものすごく自然な流れで会話に混ざってくる。
「これからエルヴィンのところに、ちょっと用事で行くことになってて……」
「え、フォスティエ商会!? 行ってみたい!」
「遊びに行く感じじゃないよ!?」
即ツッコむと、ミーナはきょとんとしたあと、にぱっと笑った。
「だって絶対おもしろいじゃん!」
その一言で全部押し切ろうとするの、陽キャの暴力なんだよな。
私はちらっとエルヴィンを見る。
「エルヴィン、ミーナちゃんも一緒で大丈夫?」
「もちろんです。むしろ、第三者の反応も確認できますので」
「商人目線やめて?」
でも、正直ちょっとだけ助かる気もした。エルヴィンひとりだと空気が商談になりすぎるし、私も変に身構えてしまう。ミーナがいると、そのへんが少しやわらぐ気がする。
そんなわけで、私たちはそのまま一緒に聖堂院の門へ向かった。
……そして、もう一つの問題がいた。
門の脇に、やたら目立つメイド服の使用人がいた。
イザベラである。
下校する生徒たちの中で、その人影だけが頭ひとつ抜けていた。背が高い上に姿勢まで妙にきれいなので、壁際に静かに控えているだけなのに、なんかもう圧がある。
生徒たちが、明らかにひそひそしていた。
「ねえ見て、あの背の高い使用人さん……」
「すごくきれいに立ってる……」
「でも、目つきちょっと怖くない……?」
おい。目立ちすぎだろ、あの使用人。
ただでさえ背が高くて姿勢もいいのに、周囲を警戒する目つきが完全に護衛のそれである。
ガンつけすぎなんよ。
不審者を探している人じゃなくて、不審者扱いされる側になりかけてるわ!
私は足早に近づいた。
「イザベラ。ちょっと。もう少し普通にして」
「普通にしております」
「普通の基準がぶっ壊れてるのよ」
しかも、その返しに一ミリの迷いもないのが怖い。私は小さくため息をついてから、イザベラに言った。
「ていうかイザベラ……これから友達の家に、ちょっと寄ることになったんだけど……」
イザベラは私の言葉を受け、エルヴィンとミーナへ視線を向けた。
「こちらがエルヴィン。こっちはミーナちゃん」
エルヴィンは丁寧に一礼し、ミーナは元気よくぺこっと頭を下げた。イザベラも、いつもの無駄のない動きで静かに礼を返す。
「ソーカ家の使用人、イザベラと申します」
そのままイザベラは、二人へ丁寧に向き直った。
「クロノ様にご学友との交流が増えるのは、素晴らしいことかと。サラサ様もお喜びになります」
そこまでは、すごくいい。
問題はこのあとだ。
「ですが、もちろん私も同行いたします」
やっぱりそう来るよね!
私の心の中で、小さな予感が静かに死んだ。大丈夫か? また道中で変な警戒を始めたりしないよね? イザベラの“普通”の基準、まだぜんぜん信用してないんだけど?
こうして私は、商人の息子と陽キャと過剰警戒メイドを連れて、放課後の中央通りへ向かうことになった。
⸻
商会へ向かう道中でも、イザベラの護衛モードは当然のように継続中だった。露店の並ぶ石畳の通りで、人波も馬車も彼女の前では危険物扱いである。
私たちが歩きやすいように、イザベラは何気ない足取りで人の流れを割り、自然と道を作ってくれる。ただ歩いているだけのはずなのに、明らかに通行人の方が先に道を空けていた。
「イザベラさん、すごーい!」
ミーナは完全に感心していた。
「それに、なんかすごく強そう!」
「メイドさんへの感想として、強そうって普通あんまり出てこないんだよなあ……」
私がぼそっと言うと、エルヴィンが隣で妙に納得したように頷いた。
「人材の質が違いますね」
「いや、イザベラは普段はこんなんじゃないんだよ?」
私がそう返すと、イザベラは涼しい顔で言った。
「私ほどではありませんが、ソーカ家の使用人は皆、主人を護る教育がなされています」
ま、護る?
うちの使用人、全員ガードマン枠なの?
「すごい! 今度クロノちゃんち行きたい!」
「観光地みたいに言わないで?」
ミーナだけは最後まで気楽そうだった。
やがて、中央通りの中でもひときわ立派な建物が見えてくる。
フォスティエ商会。
白い壁。大きな看板。広い入口の上には、商会の紋章が入った布屋根が張られている。店先には木箱や布包みの荷が積まれ、出入りする店員たちと、荷の積み下ろしをする人足の声が絶えなかった。
馬車が一台横づけされ、従業員が慣れた手つきで荷札を確認している。入口からは、香辛料みたいな匂いと、磨かれた木の匂いがふわっと流れてきた。荷車の軋む音、誰かが値段を読み上げる声、木箱を下ろすたびに立つ埃っぽい空気――その全部が、ここがちゃんと生きている商売の場所だということを教えてくる。
前に来た時は、煙と悲鳴とベーコンで頭がいっぱいだったけど、改めて見るとちゃんと大商会だ。
あの時はだいぶ終わってたな。
主に私とマークの作戦が。
「わあ……大きい!」
ミーナが素直に感動の声を上げた。
「うん。でもここ、少し苦すぎる思い出がある」
「なんかあったの!?」
「……いや、なんでもない」
ベーコンと煙幕と鋼鉄戦艦ヤマダの話を、ここでどう説明しろというのか。
イザベラはそんな私たちの横で、入口、窓、人の出入り、通りの流れを順番に確かめていた。
今からこの店に入るんだけどな。
前に襲撃された場所だから警戒するのは分かる。分かるんだけど、砦に入る前の斥候みたいな確認はやめてもらっていいですか。
⸻
店内は、さすが大商会という感じだった。
棚にも台にも品物がぎっしりと並び、せわしなく働く従業員と、それを見て回る客たちの声が絶えない。活気がある。そして、たくさんのお金が動いている気配がする。
中央の通路を進むと、従業員たちがエルヴィンに気づき、さっと道を開けた。その態度は、ただの「坊ちゃん」に向けるものではない。
ちゃんと、次期商会主として扱っている。
ああ、こいつ本当にフォスティエ商会の跡取りなんだな、と妙なところで実感した。
その横でミーナは、壁に掛けられた銀灰色の毛皮や、棚に並ぶねじれた魔獣の角、透明な箱に収められた虹色の鱗に目を丸くしていた。
「見て見て、あれ全部売り物!?」
「だろうね。あと、触って壊したら洒落にならなそうなのもあるから気をつけて」
「こわっ」
ミーナは慌てん坊だ。こんなところで、新イベントを発生させられたら、私の胃がもたない。
そのまま私たちは、応接室のような部屋へ通された。エルヴィンは「席に座って少々お待ちください」と言って、父親を呼びに行く。
壁には落ち着いた色の布が掛けられ、磨かれた木のテーブルの上には、小さな花瓶と水差しが置かれていた。椅子もやたら座り心地がよさそうで、窓際の棚には見本らしい陶器や細工物がきれいに並んでいる。立派な部屋だった。
ちゃんとしてんなあ……。
私は言われた通り席についた。ミーナも隣に座る。けれど、イザベラだけは座らなかった。
私の後ろに、すっと立っている。
「イザベラも座りなよ」
「お気遣いなく」
「いや、ずっと立ってるとこっちが気を使うから」
「立っている方が、緊急時に対処できますので」
「いやいや、緊急時なんて起こらないんよ」
「起きた事例があるから、緊急という言葉があるのです」
正論で返された。でも、そういうことじゃない。応接室でまで護衛モードを維持しないでほしいだけなんだけど。
⸻
ほどなくして現れたのは、エルヴィンのお父さん――マルクスさんだった。
恰幅のいい、いかにも人の良さそうな商人親父。……だけど、私を見るなり、恐縮と感激が混ざったように腰が三段階くらい低くなった。
「これはこれはクロノ様! ようこそお越しくださいました。エルヴィンより話は伺っております。いやはや、当商会へお迎えできるとは光栄の至りでございます!」
いや、その“様”いらない。重い。
「あ、こちらこそ、お招きいた――」
「ご機嫌はいかがですか!? 椅子は硬くありませんか!? お茶は甘いものと渋いもの、どちらがよろしいですかな!? 焼き菓子も用意させております!」
「圧がすごい!」
エルヴィンが慣れた様子で止めに入る。
「父上、落ち着いてください」
「こ、これでも落ち着いているんだ」
落ち着いている人は、一息でそんなに確認事項を投げてこないと思う。
従業員の女性が、お茶や焼き菓子をテーブルいっぱいに並べていく。普通に豪華だ。というか、豪華すぎる。ミーナは目をきらきらさせて、菓子皿の上に並んだ焼き菓子を見ていた。
「わあ、これ食べていいの!?」
「もちろんですとも!」
「順応が早いな!?」
マルクスさんは、私の後ろに立つイザベラにも丁寧に頭を下げた。
「付き添いの方も、どうぞお席へ。ご遠慮なく」
イザベラは少しも慌てなかった。礼を受けることにも、席を勧められることにも、最初から慣れているみたいに、静かに一礼する。
「お気遣いなく。私はクロノ様の後ろに控えさせていただきます」
その言い方が、妙にきれいだった。
ただの使用人というより、偉い人の会合で、主の背後に立つことに慣れている人みたいな。
「イザベラの方がこういう場に慣れてるの、なんなの……」
なんかもう、私だけが一番落ち着いてない。
マルクスさんが席について少ししたあと、ふっと表情を和らげた。
「あの時は、本当に助かりました」
「いや、まあ……」
私は曖昧に返す。
商会襲撃の時のことだろう。でも、そこを真正面から掘られても困る。こっちにもいろいろあるのだ。主に煙とドローンと爆音が。
幸い、マルクスさんもそれ以上は踏み込まなかった。
「父上、本題を」
エルヴィンが静かに促すと、マルクスさんはすぐに空気を切り替えた。
「そうでした、そうでした。今日は、その札遊びの件でしたな」
来た。
商売人の空気だ。
さっきまでの、人の良さそうな商人親父の空気が、ふっと別のものに変わる。声の高さは変わらないのに、奥にある温度だけが急に低く、静かになった感じがした。
せっかくここまで来たんだ。エルヴィンの顔を立てるためにも、ここで適当に流すわけにはいかない。
よし。
私は前世で見た通販番組の司会者を、脳内にそっと降ろした。大事なのは、商品の魅力を分かりやすく。少しだけ大げさに。でも、相手が欲しくなる温度で伝えること。
なお、私に営業経験はない。
勢いである。
「まずはこちらをご覧ください」
私は応接室のテーブルの上に、トランプをそっと並べた。
ミーナが「わあ、きれいな紙!」と声を上げる。エルヴィンは札そのものより、私の説明を一言も聞き逃すまいとしているようだった。
マルクスさんは最初こそ「札……?」という反応だったけど、数秒後には身を乗り出していた。テーブルに置かれた肘の角度まで、さっきより数センチ前に出ている。
「こういう札を、四種類の紋と数字で作ります」
「四種類の紋……」
「今は見本としてこの形にしていますが、紅蓮、蒼氷、翠嵐、剛岩。この四つの紋にすると、分かりやすいと思います」
私は指先で札を示してから、端に置いていたジョーカーを一枚、軽く持ち上げた。
「あと、こういう特別な札を一枚か二枚入れても面白いです。今回は道化の札として持ってきましたが、売る相手に合わせて絵柄を変えるのもありだと思います」
「絵柄を変える、ですか」
「はい。たとえば教会や貴族向けなら、女神様を模した札にした方が受けがいいかもしれません。特別感も出ますし、贈り物用の高級版にも向いていると思います」
「女神の札……」
マルクスさんが、低くつぶやいた。
その響きが、ただ商品を思いついた商人のものとは少し違った気がして、私はなんとなく嫌な予感がした。
マルクスさんが、はっとしたようにエルヴィンを見る。エルヴィンも何かを思いついたように、小さく頷いた。
そして、二人の意識が、なぜか私の方へ向いた。
……んん?
今、私を見なかった?
マルクスさんの視線が、私の顔のあたりをじっと往復している。肖像画の下絵でも探しているみたいな目だ。エルヴィンの方は、もう何も言わずに小さく頷くだけで、それがいちばん怖い。
「えっと、あくまで女神様っぽい絵柄という意味であって、特定の誰かを描くとか、そういう話ではないですからね?」
「もちろんです」
エルヴィンは即答した。即答が早すぎて、逆に信用できない。でも、今はそこを問い詰めている場合じゃない。
まだプレゼンは途中である。
「そして、この札遊びの一番の強みは、盤も駒も使わないところです」
私は札の束を片手で持ち上げて見せた。
「机の上はもちろん、寝台の上でも、馬車の中でも、旅先の宿でも遊べます。必要なのは、この一組だけです」
「盤が要らないんですか?」
「要りません。しかも、一組でいろんな遊びができます」
そこで、マルクスさんがぴたりと固まった。
「……一組で?」
「はい」
「いろんな遊びを?」
「はい」
確認が二回に分かれた。
商人として、聞き流してはいけない言葉だったらしい。
「人数が少なくても多くても遊べますし、子ども向けにも、大人向けにもできます。遊び方を書いた紙を一枚添えて売れば、買った人がすぐに遊べます」
言いながら、私は自分でも少し引いていた。
なんだこの営業口調。今ならもう一組、とか言い出しそうで怖い。
でも、マルクスさんとエルヴィンが完全に食いついているので、引っ込めるタイミングを失った。
やっぱり、場所を取らず、片手で持ち運べる遊び道具というのは、商人から見ても強いんだろうな。
そして、その強さを一番分かりやすく証明したのは、ミーナだった。
「ねえ、それって今ここで遊べるの?」
「まあ、遊べるけど」
「じゃあやろうよ!」
この決断の早さ。さすがである。
まずは、いちばん分かりやすい遊びから教えることにした。前世でいうところの、神経衰弱である。こちらでは、とりあえず記憶合わせと呼ぶことにした。
ルールを説明すると、エルヴィンはすぐに理解した。マルクスさんは「ほほう」と頷き、ミーナは真面目に覚えようとして眉間にしわを寄せている。
そして、始めたら全員そこそこ本気になった。
「え、待ってミーナちゃん強くない!?」
「こういうの好き!」
「エルヴィン、表情こわいよ」
「負けたくないので」
そこまではまだ分かる。
問題はイザベラだった。
「イザベラもやる?」
「では、一手だけ」
そう言って札をめくる、当てる、次も当てる。
なんで?
「なんでイザベラこういうのまで強いの!?」
「配置と手順を覚えるだけですので」
「それができない人ここにいるんですけど!?」
それから、ババ抜きや七並べ、大富豪の名前とざっくりした遊び方だけを説明した。
「一組で、そんなに遊べるんですか」
エルヴィンの声には、驚きよりも確信が混じっていた。
「うん。むしろ遊び方を考えれば、もっと増えると思う」
「クロノさんは、ほかにも遊び方をご存じなのですか?」
「う、うん……まあ、いくつかは」
そう言った瞬間、マルクスさんが札の束を見つめる目を細めた。エルヴィンも、何か計算するように黙り込む。
あ、今のも商売の種になったな。
⸻
遊びがひと通り終わった瞬間、空気が変わった。
さっきまでテーブルに転がっていたのは、ただの紙の束だった。それが今は、二人の中で、まったく別のものに変わっているのが分かる。
マルクスさんは札を一枚つまんだまま、しばらく動かなかった。指先でその一枚を、ゆっくりと、何度か裏返している。たぶん、札そのものの出来ではなく、それが店先に並んだ時のことを考えている。
エルヴィンも同じように札の束を見つめている。けれど、父親とは少し違って、絵柄の一点をじっと追ったまま、何かを組み立てているようだった。
親子なのに、こういう時の雰囲気までそっくりなの、ちょっと怖い。
部屋の中が、不自然なくらい静かだった。焼き菓子をかじるミーナの音だけが、やけに大きく聞こえる。
そして次の瞬間、二人の空気が一気に商会のものになった。
「普及版は安い紙で量産できる……」
「高級版は装飾入りでも面白いですね」
「まずは子ども向けに広げるのが早いか」
「貴族向けと教会向けでは絵柄を分けられます」
「遊び方を書いた紙を添えれば、広がりも早い」
あ、もう始まってる。
完全に、商品会議に入っている。
マルクスさんは、流通や客層、商品が街に広がっていく流れを見ている。
エルヴィンは、絵柄や売り方でどう価値を上げるかを考えている。
親子で似ているのに、見ている場所が少し違うのが、なんかもう商人だった。
「やっぱ、これ売れそうですか?」
「確実に売れます。この商会きっての看板商品になるかもしれません」
「そ、そこまでなんだ……」
ミーナは焼き菓子を食べながら言った。
「まずは、試しに配って、友達みんなでやったら絶対楽しいよね!」
その何気ない一言に、マルクスさんとエルヴィンの意識がまた向いた。
「……試しに配る」
マルクスさんが小さくつぶやく。
「なるほど。最初から売るのではなく、まず遊ばせて広める、ということですか」
あ、今のも刺さった。
少なくとも、私はこの世界でそんな売り方を見たことがない。でも、前世ではわりと普通にあった。試供品とか、体験版とか、無料配布とか。まず触ってもらって、気に入った人に買ってもらう。
ミーナの一言から、そこに気づくのは普通にすごい。
「ミーナちゃん、今たぶん商人親子に大事な情報を渡したよ」
「え、そうなの?」
「たぶん」
親子の様子を見ていると分かる。
これは本気だ。
面白い遊びを見つけた、じゃない。その先にある店先の風景とか、客の動きとか、広がっていく街の空気まで見ている。
商人って、こういう時ほんとに凄いな。
⸻
私は一歩引いた。
「私は遊びを見せただけだからね。作り方とか売り方とかは、そっちで考えてくださいね」
すると、エルヴィンが真面目に頷いた。
「もちろんです。聖堂院でも言いましたが、そこから先を考えるのが、僕たちの仕事です」
マルクスさんも深く頭を下げた。
「はい。商品の形にすること、売り方を考えること、その責任はすべて我々フォスティエ商会が負います」
「そ、そこまで重く受け止めなくても……」
「いいえ。元となる知恵をくださったのはクロノ様です。このご恩は、決して軽く扱えません」
「“様”はやめてください!」
「いやいや、クロノ様はクロノ様です! そこだけは譲れません。今後とも、ぜひお知恵をお貸しいただければ」
「いや、私なんて大した知恵ないですからね!?」
イザベラが横から静かに、しかも目にうっすら涙までためて言った。
「クロノ様はやはり、サラサ様のお嬢様です」
「感動してる!?」
なんで!? なんのスイッチが入ったの!?
ミーナが、にこにこしながら笑う。
「クロノちゃん、なんかこの商会の女神様みたいだね!」
「絶対やだ!」
最終的に、マルクスさんは正式に試作を進めると決めた。エルヴィンは当然のように本気。ミーナは「絶対流行るよ!」と楽しそうに言っている。
私はただ、前世で知っている遊びを教えただけなのに、商会の親子はもう本気で未来を見ている。
……これ、やっぱり思ったよりずっと大ごとになるやつだ。
その日は、試作品を作って反応を見る、という話だけで終わった。
終わったはずだった。
⸻
そして、半月ほど後。
中央通りの屋台の端に、見覚えのある四色の札が並んでいた。子どもたちがそれを手に取り、商人たちが値段を尋ね、通りすがりの大人まで足を止めている。
売り物の横には、見本用らしい札の束まで置かれていた。何人かの子どもたちが、その場で札をめくって遊んでいる。
歓声が上がる。誰かが「もう一回!」とせがむ声。屋台の主人が、慣れた手つきで新しい札の束を箱から取り出している。
たった半月前、応接室のテーブルの上にあったのは、私が遊びでめくっていたただの紙だった。それが今は、私の知らない子どもたちの手の中で、ちゃんと笑い声を立てている。
不思議な気分だった。誇らしいような、ちょっと怖いような、それでいてなんだか落ち着かないような。
自分が放った何かが、もう自分の手の届かないところで勝手に育っている。そんな感覚だった。
私はそこで、ようやく実感した。
ああ。
これ、もう広まり始めてるんだ。




