四紋札、誕生
翌朝。
朝食の席についた時点で、私はなんとなく察していた。今日はたぶん、普通の登校にはならない。
根拠は二つある。
一つは、母さんがいつもの澄ました顔の奥で、うっすら「大丈夫かしら」をにじませていたこと。もう一つは、イザベラの仕事ぶりが、普段の三割増しで気合いに満ちていたことだ。
イザベラはもともと有能だ。身だしなみの手伝いも配膳も、たいてい無駄がない。でも今日は少し違った。鏡を見ると、私の髪型がいつにも増してきれいに決まっている。
椅子を引く手つきは妙に素早いし、皿を置く位置もやけに正確だ。料理だって、いつも以上に気合いが入っている気がする。
向かいではマークが、そんな空気を一ミリも気にせず、分厚いステーキをパンに挟んでもぐもぐしていた。
いいよな、お前は。でも来年には、お前も同じ目に遭うからな?
母さんがナイフとフォークを静かに置き、イザベラへ視線を向けた。
「イザベラ」
「はい、サラサ様」
「あなたが用心深いのは知っているけれど、くれぐれもやりすぎは駄目よ」
あ、その言い方をした時点で、もう嫌な予感しかしない。母さんがわざわざ釘を刺す時は、相手にだいたい“やりすぎた前科”がある。
……ちなみに、私で実証済みだ。
イザベラは一礼した。
「お任せください。クロノ様のことは、この命に代えてでもお守りいたします」
重い!いや、騎士の誓いじゃん。あんた使用人でしょ。
「待って。普通の登校で命かけられても困るんだけど?」
思わず言うと、イザベラはほんの少しだけ笑った。
「ご安心ください、クロノ様。曲者の気配を察することには自信があります」
「イザベラ、昨日から急にどうしちゃったの!?」
「……どうもこうも、もともと私はサラサ様の――」
「その件は、まだ話していないと言ったでしょう」
母さんがぴしゃりと遮った。
なに、その件ってのは。気になる言い方をして流すのやめてほしい。
「あ……失礼いたしました。クロノ様の護衛を仰せつかったことが嬉しくて、つい」
護衛。ただの登下校の付き添いだよね?
マークがやけにしみじみした顔で言った。
「姉ちゃん、生きて帰ってきてね」
「なんで物騒なことが起きる前提なんだよ!」
「だってイザベラ、完全に出陣前の顔してるし」
思わずイザベラを見る。
胸に手を当てるその仕草は、もうメイドではなく、戦場へ向かう騎士の礼だった。
……うん。嫌な予感しかしない。
母さんはこめかみを押さえた。
「クロノ。こんな様子だけれど、イザベラは本当に頼りになるの。指示にはちゃんと従いなさい」
「いや、それは従うけど……」
この二人は、妙に息が合う。長年同じ修羅場をくぐってきた戦友みたいな感じだ。だから、今のやり取りにも何か私の知らない事情があるのかもしれない。
そう思うと、父さんがこの場にいないことが少し気になった。昨日も帰りが遅かったみたいだし、まだ寝ているんだろうか。
⸻
朝食を終え、玄関へ向かう途中、イザベラはいつも通りの柔らかい声で言った。
「本日から私がご一緒いたします。どうぞご安心くださいませ」
うん。この口調、この雰囲気。屋敷の中のイザベラは、いつもの有能メイドだ。少し安心した、その瞬間だった。
玄関の前で、イザベラがすっと私の前に出る。
「ここでお待ちください」
「え?」
声はいつもと同じ丁寧なものだった。けれど、そこにあった柔らかさが、すっと抜け落ちていた。
扉をほんの少しだけ開けて、左、右、上、足元を確認する。視線の動きに迷いがない。立ち方も、さっきまでの使用人のものではなく、誰かを背中にかばう人のそれだった。
「安全を確認します」
……あれ? 待って。今この人、屋敷の中のイザベラじゃない。
「問題ありません。お嬢様、どうぞ」
「なんで外に出た瞬間、急に護衛任務始まってるの!?」
半泣きで外に出ると、イザベラはぴたりと半歩前に立った。同じメイド服。同じ顔。なのに門を一歩出た瞬間、屋敷で見ていたイザベラとは別人みたいだった。
「……イザベラ。屋敷の中だと、もっと柔らかかったよね?」
「屋敷の内と外では、対応が異なります」
「対応っていうか、急に戦争が始まるみたいな空気なんだけど」
こうして私の、人生でいちばん落ち着かない登校が始まった。
⸻
最初の敵は、犬だった。
屋敷街を抜けた、白い石壁の住宅通りでのことだ。
「わふっ」
近所の家の前にいた茶色い子犬が、元気よく鳴きながらこっちに駆け寄ってきた。かわいい、と思ってなでようとしたその瞬間、イザベラがすっと私の前に出る。
「お下がりください」
「え?」
「歯があります」
「犬はだいたい歯あるのよ!」
子犬はしっぽをぶんぶん振りながらなおも近づいてくる。完全に友好的である。でもイザベラは一歩も引かない。
「尾の振りが大きいです。興奮状態の可能性があります」
「それ、嬉しいからでしょ!」
飼い主さんらしいおじさんが慌てて飛んできた。
「おお、すみませんねぇ!」
「い、いえ! 全然!」
イザベラは厳しい目のまま、子犬が飼い主に連れて行かれるのを確認した。
「脅威は去りました」
たぶんあの子は、自分が犬生で初めて脅威認定されたことを、知らない。
次の敵は、猫だった。
小さな石橋を渡った先、祈りの文様が刻まれた塀の上に、白黒の猫がいた。いつもこの辺りで遊んでいる近所の猫、キャサリンだ。
「にゃあ」
かわいい、と思ったら、イザベラが私の半歩前に立った。塀の上のキャサリンを、警戒対象として見ている目だった。
「高所からの接近は見落としやすいものです」
「猫を刺客みたいに言わないで!」
キャサリンはのんびりと塀から飛び降り、私の足元にすりっと身体をこすりつけてきた。顔なじみの挨拶である。
かわいい。なでたい。今すぐなでたい。
そう思って手を伸ばしかけた瞬間、イザベラが静かに一歩前へ出た。
「感染症の可能性があります。離れてください」
「言い方が物騒!」
イザベラは何もしていない。ただ、じっとキャサリンを見ただけだ。
「……にゃ!?」
キャサリンは一瞬で毛を逆立て、さっきまでいた塀の上へ飛び戻った。
「え、逃げた!?」
「脅威は退きました」
「今の、絶対キャサリンが脅威を感じた側だよね!?」
三つ目の敵は、マラソンおじさんだった。
聖堂院へ続く大通りに出ると、朝市の準備が始まっていた。その人波の間を、近所のおじさんが軽快な足取りで走ってくる。
ただの朝ランだ。だが案の定、イザベラは半歩だけ前に出た。
「正面より、一定速度で接近する対象を確認しました」
「健康を維持するために頑張ってる人だよ!」
おじさんは爽やかに会釈して、そのまま通り過ぎていった。
イザベラはその背中を見送り、静かに言った。
「頭部に強い反射光を確認しました。目くらましからの襲撃の可能性がありました」
「ただの朝日の反射! あとそれ、本人の前で絶対言っちゃ駄目なやつ!」
それでもイザベラの警戒は止まらなかった。
角から飛び出してきた子ども。
軒先で羽ばたく鳩。
干してある洗濯物の揺れ。
全部に対して、いちいち視線が行く。
いや、警戒しすぎでしょ。そんなに世界全部を敵みたいに見てたら、神経が何本あっても足りないよ。
……と思っていたら、一回だけ本当に役立った。
「クロノ様、こちらへ」
急にぐいっと肩を引かれた。次の瞬間、横を通った荷車の車輪が小石を跳ね上げる。ぱちん、と乾いた音がして、さっきまで私のいた場所を石がかすめた。
「えっ」
「跳ね石です」
「いや見たけど! そこまで予測してたの!?」
「車輪の角度と足元の石の量から、ある程度は」
でも、助かったのは事実だった。私の肩を支えたイザベラの袖口で、金属が擦れるような音がかすかに鳴った。
……小銭でも入ってるのかな。
「……ありがと」
「これが私の仕事ですから」
仕事なんだ。使用人って、跳ね石まで予測する職業だったっけ。
⸻
ようやく聖堂院の門が見えた頃には、私はかなり消耗していた。
「まだ着いてないのに、今日の羞恥ポイント使い切ったんだけど……」
「お嬢様、帰りもお迎えに参ります。ご武運を」
「戦場みたいに言わないで!」
門の前には、いつも通り登校してくる生徒たちがいる。
「クロノちゃーん!」
最初に飛んできたのはミーナちゃんだった。
「クロノちゃんちのメイドさん? なんかめっちゃかっこいい!」
ぴしっとしてる。たしかにしてる。ぴしっとしすぎて、逆に浮いてる。
シャーロットちゃんはおずおずと聞いてきた。
「な、なにかあったんですか……?」
「お母さんが、今日から一緒にって無理やり!」
アルガスは鼻で笑った。
「過保護かよ」
「本当そう!」
「結局、ついてきてるじゃねえか」
くっ、言い返せない。
リリスは口元に手を当てた。
「まあ。クロノさんのおうちは、メイドさんの護衛付きで登校ですの?」
周りの子たちまで、ひそひそし始めている。
「灯火の聖女の娘ってやっぱ違うのね……」
「付き添いの使用人まで只者じゃなさそう……」
そんな中で、ひとりだけ反応が違った。
エルヴィンだ。みんなが「メイド付き登校のクロノ」を見ている中で、エルヴィンだけはイザベラそのものを見ていた。立ち位置、視線の流し方、私との距離、人の流れに対する身体の向け方。
なんか、めっちゃ見てるな。
でもその時の私は、そこまで気にする余裕がなかった。恥ずかしさで死にかけていたから。
⸻
午前中の授業をなんとか生き延びた休み時間、私は机に突っ伏していた。
「なんか朝から疲れた。もう帰りたい……」
そこへ、エルヴィンが静かに近づいてきた。
「クロノさん、少しよろしいですか。今朝の付き添いの女性の方……歩き方が使用人のものではありませんでした」
「いや、イザベラはすごいけど普通に使用人だよ?」
エルヴィンは少しだけ目を細めた。
「そうですか。では、そういうことにしておきます」
絶対納得してない顔だな、それ。
でも、そこで深掘りはしてこなかった。代わりに、少し間を置いてから本題を切り出した。
「実は、少しご相談がありまして。うちの商会、今ちょっと困っていることがあるんです。ライバル商会が、最近"王盤遊戯"を流行らせているんです」
王盤遊戯。
……あー。
頭の中に、白黒の盤面と駒のイメージが浮かんだ。
「チェスとか将棋みたいなやつか」
「ご存じなんですか!?」
「いや、まあ、女神様の国にも似たようなのはあるからね」
エルヴィンは身を乗り出してきた。
「それでお願いがあるんです。女神様の世界には、他にどんな流行り物があるのか、ぜひ教えていただけませんか」
「いや、急にぶっこむな」
エルヴィンの目は真剣そのものだった。
これ、本当に悔しいんだな。ライバル商会に先を越されたのが。あと、単純に面白いものを見つけたくて仕方ない目でもある。
朝からイザベラに振り回されっぱなしで、私の心はだいぶ削れている。ここでエルヴィンの商人モードまで相手にするのは、正直かなりしんどい。
でも、エルヴィンには何度も助けられている。一つくらい恩返しできるなら、考えてあげてもいいだろう。
白黒の石をひっくり返す盤遊びとか、ありだろうか。異世界転生ものでは、わりとありがちなやつだ。
いや、でも盤がいる遊びは面倒だ。材料も作る手間もかかる。もっと簡単で、持ち運べて、子どもでも大人でも遊べて、しかも広まりやすいもの……。
ふと、前世の記憶の引き出しの中から、薄い札の束がぱらっと顔を出した。
あ。
カード、ありじゃない?
「……トランプとかどうだろ」
「とらんぷ?」
「見せた方が早いか」
私は周囲をちらっと確認した。
……誰もこっちは見てないね。
机の陰に手を隠し、エルヴィンにだけ見えるように手元を寄せる。
「限界具現」
手の中に、つるりとした札の束が現れた。
エルヴィンの目が、わかりやすく輝いた。
「おおおおお……!」
「声! 声でかい!」
「し、失礼しました……! ですが、これは……!」
エルヴィンは身を乗り出したまま、まじまじと札を見つめた。
「なんて整った形なんでしょう……そしてこの滑り、この均一さ……!」
反応が完全に商人だ。
「女神様の世界の紙、みたいなものと思って。こういう札を使って遊ぶの」
私は一枚抜いて、指先で軽く弾いた。
さて、どう説明しよう。
このままスペードとかハートとか言っても、たぶん伝わらない。いや、伝わらないだけならまだいい。変な神託扱いされる可能性もある。
だったら、この世界にあるものへ置き換えた方が早い。
「えーと、こっちの世界風にするなら、四属性に分けるのが分かりやすいかも」
「四属性、ですか」
「うん。炎、氷、風、土。紅蓮、蒼氷、翠嵐、剛岩。この四つの紋を作って、それぞれ一から十三までの数字を振る」
私はノートの端に、簡単な記号を描いてみせた。
エルヴィンの目が、さらに真剣になる。
「なるほど……!」
「盤もいらないし、小さくて持ち運びやすい。しかも一つでいろんな遊びができる」
「す、素晴らしい……!」
「遊び方の細かい話は、長くなるからまた今度ね」
エルヴィンは札を見つめたまま、ぽつりと言った。
「これ……売れます」
「うわ、目が商人だ」
「売れますよ、絶対に」
その声には、さっきまでの静かな相談口調とは違う熱があった。私は札の束をぱたんとまとめて、箱にしまった。
「まあ、作り方とか売り方とかはそっちで考えてよ」
「いえ、十分です。むしろ、そこから先を考えるのが僕の仕事ですから」
エルヴィンは札と私を見比べ、それから小さく、でもものすごく嬉しそうに笑った。
「放課後、お時間いただけませんか。父上にも、この札を見せたいのです。もちろん、今朝の使用人の方もご一緒なら、安全面の問題は少ないかと」
「そこ、繋がるんだ……」
イザベラが一緒なら、母さんにも言い訳しやすい。というか、イザベラを置いて商会に行く方がたぶん無理だ。あの人、どこからでも追ってきそうだし。
考えてみれば、朝からイザベラに振り回されっぱなしだったのだ。ここで少しくらい、私の都合に付き合ってもらっても罰は当たらない気がする。
「……いいよ」
「ありがとうございます」
エルヴィンは一礼した。その礼の深さが、相談というより、もう商談成立後のそれだった。
なんか、すごいことになりそうな気がする。
そしてその予感は、たぶん当たっていた。




