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限界具現 〜魔法ゼロ令嬢が現代アイテムを呼び出したら、祭具の聖女にも災具の魔女にもされました〜  作者: ちぇ!
秘密と絆の学院生活

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笑う女


 海辺の売店の裏手――人の目が届きにくい、裏口の陰。


 心臓がうるさい。手も震えている。でも、こういう時に限って脳みそだけ妙に冷えるのが、自分でも腹立たしい。


 相手は岩場に擬態する魔獣。硬いと見ていい。半端な火力じゃ、抜けない。必要なのは連射力じゃない。


 ただ一点の火力だ。


 私が思い浮かべたのは――前世で何度も画面越しに握った、最強格の狙撃銃スナイパーライフル。私のFPS時代の相棒。


限界具現ゲンカイ・マテリアライズ――AWM」


 空気がびりっと歪み、重い鉄の感触が手の中に現れた。ミーナは目を丸くし、エルヴィンの喉が鳴る。そりゃそうだ。


 でかい。重い。長い。ロマンと火力の塊。


 子どもの手には重すぎるはずなのに、不思議と扱える。重さも、反動も、記憶の中にある感覚へ近づいていく。構えれば、照準がすっと馴染む。たぶん、限界具現ゲンカイ・マテリアライズの能力が、私の記憶ごと武器の扱いを補っているのかもしれない。


 PCの前でアホみたいにやり込んだ感覚が、今だけは本物になっていた。


 私はそっと裏口から身を乗り出し、スコープを覗き込んだ。


 岩嘴鳥がんしちょうは、まだ動かない。


 でも、分かる。


 身体は岩みたいに固まっているのに、目だけがぎょろぎょろと周囲を探っている。警戒している。距離もある。今撃てば、避けられるかもしれない。狙い直す時間なんて、たぶんない。


 外せば、もう二度目はない。


 エリシア先輩たちが鷹型の魔獣を追い詰めた瞬間か。それとも、仕留めた直後の油断か。どこで来るかは分からない。でも、あいつが狙うのは必ず隙だ。


 だったら、その隙を狙う岩嘴鳥を、私がさらに狙う。


 外したら終わる。一発で決めなきゃ意味がない。


 だったら、勝率を少しでも上げる。


 私は岩嘴鳥から目を離せない。けれど、撃つタイミングはエリシア先輩たちの動きと連動している。標的だけ見ていても駄目だ。かといって、戦況を見れば標的を見失う。


 目が二つじゃ足りない。


「エルヴィン」


「はい」


「外の状況を見て。エリシア先輩たちがどう戦っているか教えて。鷹型を追い込んだ時と、決定打になりそうな瞬間はすぐに言って」


 エルヴィンは一瞬だけ息を飲んで、それからすぐに頷いた。


「分かりました。任せてください」


「ミーナちゃん」


「うん!」


「全体を見て。ミーナちゃんは、違和感を見つける感覚がすごいから。何か変だと思ったら、すぐに言って。私は岩嘴鳥しか見えなくなる」


 ミーナは、ぎゅっと拳を握った。


「分かった。任せて!」


 よし。


 私は撃つ。

 エルヴィンが状況を見る。

 ミーナが、違和感を拾う。


 三人でやる。


 私はスコープの中の岩嘴鳥に意識を戻した。


「クロノちゃん、お願い!」


 ミーナの声が、背中を支えてくれる。


「女神様、クロノさんに力を!」


 エルヴィンの声が続く。


 女神様ね……。あの時話した私の嘘八百を、この子は本当に信じている。


 いや、でも――今は本当に命がかかってる。女神様、本当にいるなら、手を貸して。


 息を止める。


 ――集中する。



 私はスコープの中の岩嘴鳥から目を離さなかった。


 その横で、エルヴィンが外を見ながら早口で状況を伝えてくる。


「エリシア先輩が、風で群れを押しています。墨羽鴎すみばかもめの動きが乱れました」


 岩嘴鳥は、まだ動かない。灰色の巨体は岩のように沈黙したまま、ただじっと一点を見つめている。


「中央にいる大きな個体……鷹型の魔獣が逃げ場を探しています。上へ逃げても押し返されて、横へ抜けようとしても群れごと流されています」


 エルヴィンの声が少しだけ速くなる。


「追い込まれています。鷹型が炎をまといました。逃げるのではなく、突破するつもりです」


 火をまとう鷹の魔獣とか、やばすぎだろ。


 見たい。でも、見ない。


 今、私が見るべきなのは、こいつだけだ。


「鷹型、突撃します! 狙いはエリシア先輩です。速い!」


 岩嘴鳥の身体が、ほんの少しだけ沈んだ気がした。


 来る。でも、まだだ。


「カタリナ先輩が岩壁を重ねました。一枚、二枚、三枚……五枚目も抜かれました! でも、勢いは落ちています!」


 エルヴィンが息を飲む。


「ジェイド師範が前へ出ました」


 岩嘴鳥の羽根が、ぴくりと動いた。


 私は息を止める。


「ジェイド師範が斬りました! 鷹型が落ちます!」


 エルヴィンの声と同時に、ミーナが叫んだ。


「クロノちゃん、今!」


 岩嘴鳥が翼を広げる。


 私は引き金を引いた。


 ズドォンッ!!


 腹の底まで響く、重く乾いた轟音。反動が肩をぶん殴る。耳の奥が、きん、と鳴る。


 でも、見えた。


 弾は岩嘴鳥の頭を撃ち抜いた。


「――ッ!?」


 灰色の巨体が大きく傾く。岩陰から崩れ落ちるように、岩嘴鳥が転がった。砂が跳ね、小石が散る。スコープ越しに分かるくらい、巨体は重く砂浜へ沈んだ。


 ――よし。決まった。


 肩の痛みより先に、安堵が来た。指先の震えが、ようやく止まる。


 エリシア先輩たちは、無事だよね?


 そう思ってスコープを動かした瞬間、レンズの向こうでエリシア先輩と目が合った。


 ……気がした。


 心臓が、また別の速さで跳ねる。私は反射的に裏口の陰へ引っ込んだ。


 距離はある。向こうから私が見えるはずがない。


 たぶん。


 数呼吸のあと、海辺に残っていた墨羽鴎たちも、空の向こうへ散り散りに逃げていった。


 助かった。たぶん、それは間違いない。


 私はすぐにAWMを消した。重さが手の中から消える。証拠も残らない。でも、心臓だけは、しばらく元の速さに戻らなかった。


「お、音を飛ばす武器ですか?」


「説明は後。戻ろう」


 ごめん、エルヴィン。今、その誤解を解いている場合じゃない。


「すごい……クロノちゃん!」


「二人のおかげだよ」


 本当にそう思った。エルヴィンが戦況を読んで、ミーナが動く瞬間を拾ってくれた。私一人だったら、たぶん撃ち損じていた。


 でも、今は喜んでいる場合じゃない。私は二人を促して、すぐに建物の中へ引き返した。



 中はざわついていた。


「今の音は何ですか!? 怪我をした方はいませんか!」


 ディディエ司祭の声が、珍しく少し上ずっている。いつもの穏やかな笑みはない。避難している子どもたちの間を見回しながら、誰かが怪我をしていないか、必死に確認していた。


 そりゃそうだ。


 建物の外で、いきなり腹の底に響くような轟音が鳴ったのだ。普通に考えたら、何かが爆発したと思う。


「だ、大丈夫です!」

「怪我はないです!」

「びっくりしただけです!」


 あちこちから声が上がる。


 魔物は撃破した。けれど、ディディエ司祭の顔は少しも緩んでいなかった。


 開いた扉の向こう、砂浜には墨羽鴎の死骸がいくつも散らばっていた。その少し向こうには、鷹型の魔獣と岩嘴鳥の大きな死骸も転がっている。白い砂は黒い羽根と糞でまだらに汚れ、潮風に混じって、焦げたような臭いが鼻をつく。さっきまで子どもたちが貝殻を探していた場所が、もう別の場所みたいに見えた。


 助かったはずなのに。


 建物の中の空気は、まだどこか張りつめたままだった。



 やがて、エリシア先輩とカタリナ先輩が建物の方へ戻ってきた。ジェイド師範はまだ外に残り、魔物が消えた空と海辺を油断なく見張っている。


「もう大丈夫です。皆さん、よく頑張りましたね」


 そう言ったエリシア先輩の声は、驚くほど落ち着いていた。


 カタリナ先輩は腕を腰に当て、いつもの調子で胸を張る。


「やっぱり私が来て正解だったじゃない! 感謝しなさいよ、命の恩人なんだから!」


 その瞬間、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。さっきまで半泣きだった子たちも、ようやく息を吸い直しはじめる。


 声ひとつで空気って変わるんだな。片方は静かに安心させて、もう片方は強引にでも元気を出させる。対照的なのに、ちゃんと人を落ち着かせるやり方をそれぞれ知っている。


 ……などと感心していたら、エリシア先輩の視線がこちらへ向いた。


 目が合う。これは、気のせいじゃない。


 まずい。さっきの一発、完全に見られていたのかもしれない。


「クロノさん」


「は、はい!」


 声が裏返った。


 エリシア先輩は、少しだけ目を細める。その口が、何かを言おうと開きかけた。


「エリシア先輩たち、すごかったですね!」


「……はい?」


「いや本当に! 私、怖くてずっとミーナちゃんと、その、建物の中にいたので! でも窓から見てました! 風とか岩とか剣とか! もうすごくて! 尊敬します!」


 自分でも分かる。めちゃくちゃ不自然だ。でも止まれない。


「ねっ、ミーナちゃん!」


「えっ!? あ、うん! すごかった!」


 ミーナ、巻き込んでごめん。


 エリシア先輩は、私とミーナを交互に見た。静かな目だった。怒っているわけじゃない。でも、絶対に何かを察している目だった。


「……そうですか」


 エリシア先輩は、ほんの少しだけ目を細めた。


 それから、隣のカタリナ先輩へ視線を向ける。


 カタリナ先輩は、何かを察したみたいににやっと笑った。


「まあ、今回はそういうことにしておいてあげるわ!」


 うわ。絶対怪しまれてるやつだ。


「……カタリナ」


「いいじゃない。結果的には助かったんだし」


 エリシア先輩は、軽く息を吐いた。怒っているわけじゃない。でも、何も知らない顔でもなかった。


「クロノさん」


「は、はい!」


 エリシア先輩は、私をまっすぐ見た。


「ありがとうございました」


「こ、こちらこそありがとうございます!」


 何に対するお礼なのか、自分でも分からない。いや、本当は分かる。でも、分かりたくなかった。


 背中に変な汗をかきながら、私はミーナの手をぎゅっと握った。



 結論から言うと、遠足はまったく「よかったね、楽しかったね」では終わらなかった。


 人的被害が出なかったのは、本当に不幸中の幸いだったと思う。でも、黒い糞を撒き散らした魔鳥の群れが残していった被害は軽くない。砂浜も岩場も、あちこちが焦げたみたいに黒ずみ、腐食した跡がまだらに残っている。打ち上げられた羽根が潮に揺れ、踏み固められたはずの砂は、抉られたように凹凸を残していた。半分崩れた東屋の屋根、ひっくり返ったままの売店の看板。遠目に見れば、ついさっきまで誰もが普通に遊んでいた場所だとは思えない。


 私はしばらく鼻で息を吸えず、口を半開きにしたまま立っていた。


 ……頭の中で、さっきの師範と先輩たちの動きがずっと離れなかった。


 ジェイド師範はもちろん、エリシア先輩の翠嵐魔法とカタリナ先輩の剛岩魔法も、とにかく凄まじかった。


 逃げるので精一杯だった初等部の私たちとは、もう同じ人間とは思えない。


 いや、ほんとに強すぎるでしょ。


 ジェイド師範が「子どもは下がってろ」と言いながら、あの二人には当たり前みたいに背中を預けていた。たぶん、エリシア先輩とカタリナ先輩は、高等部の中でもかなり規格外なんだと思う。


 そして、私もチートがあるから大丈夫、なんて顔をしていられるほど、この世界は甘くなかった。


 強い魔物がいて、理不尽に危険が降ってくる。この世界で生きるなら、私ももっとちゃんと強くならなきゃいけない。


 少なくとも、あの二人みたいに。



 少し騒ぎも落ち着き、馬車を待っている時間だった。


 せっかくの海だし最後に少しだけ目に焼きつけておこうと、私は砂浜の方へ歩いていった。ミーナが隣についてくる。


 しばらく佇んでいると、ミーナが私の袖をくいっと引いた。


「クロノちゃん、大丈夫?」


「大丈夫……ではある。たぶん」


「たぶんなんだ」


「だって失敗したらと思うと怖かったし!」


 私はそう言いながら、自分の手が少し震えているのに気づいた。今回はなんとかその場しのぎはできた。できたけど、あれはあくまで“その場しのぎ”だ。本気でこんなことが起こり続けたら、やっていける気がしない。その現実が、遅れてじわじわ来る。


 ミーナはそんな私を見て、へへっと笑った。


「でも、クロノちゃんすごかったよ! あれ出してくれなかったら、もっと大惨事になってたもん」


「いやいや、ミーナちゃんとエルヴィンのおかげでしょ。私一人だったら、撃つタイミング分からなかったし」


「えー、わたしは、なんか変だなって思っただけだよ?」


「それが一番すごいんだって……」


 本当にそう思った。


 私は基本、頭の中であれこれ考えてから動くタイプだ。でもミーナは違う。ちゃんと周りを見て、言葉になる前の違和感を拾っている。


 野生の勘っていうか、岩嘴鳥に気づいたのはたぶん、ただの偶然じゃない。


 そんなふうに、少しだけ気持ちがほぐれてきた、その時だった。


「大丈夫だった?」


 女の人の声がした。やわらかくて、優しそうな声だった。


 振り向くと、少し離れたところに、見知らぬ女が立っていた。年は、母さんより少し若いくらいだろうか。黒に近い紅紫の外套を羽織り、胸元は大きくはだけている。妖艶な旅の女、という感じだった。


 でも、なぜか最初に思ったのは、


 ――いつからいた?


 だった。さっきまで、そこには誰もいなかった気がする。足音も、波を踏む音も、何も聞こえなかったのに。


 隣のミーナが、ふいに袖を握る手に力を込めた。さっき岩嘴鳥を待っていた時と同じ、あの「違和感センサー」が動いた手の強さだった。本人はまだ、それが何なのか分かっていない顔をしている。


 ミーナはそんなことは悟らせないように、元気に答えた。


「うん! ちょっと怖かったけど、師範と先輩がやっつけてくれたの!」


「そう。よかったわねえ」


 女は、にこりと笑った。


 笑った、はずだった。なのに、うまく言えないけど、その笑い方だけが少し変だった。口元だけが先に動いて、目がまったく笑っていないみたいな。


 女の視線が、すっとこちらへ滑る。


「あなた、お名前は?」


「え? あ、クロノですけど」


「……クロノ」


 女はその名前を、一度舌の上で転がすみたいに繰り返した。それから、にちゃり、と口の端を吊り上げる。


 うわ。今の笑い方、嫌だ。


「……なるほどね。じゃあさっき岩嘴鳥を倒したあなたが、ソーカ家の子なのね」


 その瞬間、私とミーナは思わず顔を見合わせた。


 見てたの? てか、なんで私の名字知ってるの?


 何も答えられなかった次の瞬間。


 ごっ、と重い風切り音がした。


「え?」


 女の顔の横を、拳大の岩礫が唸りを上げて通り過ぎる。


 いや、違う。


 通り過ぎたんじゃない。女の輪郭が一瞬、黒い影みたいにぶれたのだ。岩礫は、そこにいたはずの女をかすめるように外れ、背後の岩を砕いた。


 次の瞬間、女は高台の岩の上に立っていた。


「え!? なに!? 今、消えなかった!?」


 思わず叫んでしまった私の視線の先。礫が飛んできた方向には、ディディエ司祭が立っていた。


 いつもの穏やかな顔じゃない。見たことがないくらい、険しい顔だった。


「クロノさん! ミーナさん! こちらへ!」


 低く、鋭い声。反射で身体が動く。


 私はミーナの手を掴んで、ディディエ司祭の方へ駆け出した。司祭はすぐに私たちを自分の背後へ引き寄せ、そのまま庇うように前へ出る。


 あ、やばい。これ、冗談じゃないやつだ。


 高台の岩の上に立つ女は、こちらを見下ろしていた。相変わらず、余裕そうに笑っている。


 輪郭が少しだけ揺れて見える。そこだけ景色が薄く歪んでいるみたいに。


「……ディディエ」


 女はその名を、知り合いみたいに軽く呼んだ。ディディエ司祭の眉がぴくりと動く。


「どこかでお会いしましたか?」


「私は会ったことはないわ。でも、“知ってる”の」


 即答だった。まるで、知っていて当然みたいな口ぶりだった。その自然さが、逆に背筋を冷たくした。


 “会ったことがない”のに“知ってる”。その言い方、何かおかしい。まるで、人を見て知るんじゃなくて、最初から知っていることの答え合わせをしているみたいな――


 女は私を見た。いや、私の向こう側を見た、のかもしれない。


「グラン・ソーカに伝えてちょうだい」


 にちゃり、と唇が歪む。


「あまり、調子に乗らない方がいいって」


 その言葉が終わるより早く、ディディエ司祭が低く唱えた。


「剛岩よ、邪を穿て――《岩礫》」


 次の瞬間、鋭い礫が二つ、三つと空を裂き、高台を穿つ。


 でも、当たらない。


 女の姿が、黒い靄に溶けるみたいににじんだかと思うと、次の瞬間にはそこにいなかった。


 風だけが残る。岩の上には、何もない。


「……なに、今の」


 口から出た声は、情けないくらい小さかった。


 ミーナも隣で固まっている。でも泣いてはいない。ただ、唇をぎゅっと結んで、じっと前を見ていた。


 ディディエ司祭はしばらく高台を睨みつけたあと、ようやくこちらを振り返った。その顔は、少しだけいつもの優しい司祭のものに戻っていた。


「お二人とも、お怪我はありませんか」


「は、はい……」

「だ、大丈夫……です」


 ミーナの声が、いつもより少しだけ小さい。


「良かった。あの人は少し、おかしな人ですからね」


 いや、少し? 少しで済む? 「おかしな人」の範囲、だいぶ広くない?


 でも、そのツッコミはさすがに飲み込んだ。


「今日は、私がお二人を送りましょう。クロノさんのご家族とも少し話しておかなければならないことができました。大丈夫。きちんと送り届けますよ」


 え。家族と話しておかなければならないこと。その一文だけで、別の意味で心臓が嫌な跳ね方をした。


「……えーと、それって、緊急家庭訪問みたいなやつですか?」


 ディディエ司祭は一瞬だけ間を置いてから、ほんの少し困ったように笑った。


「まあ、似たようなものかもしれませんね」


 やだー!


 いや、状況的には全然よくないし、さっきの女もめちゃくちゃ怖かったし、普通に泣きそうなんだけど、それはそれとして先生ポジの大人が家まで来るの、嫌すぎる! なんか悪いことした生徒みたいじゃん!


 今回に関しては私、悪いこと何もしてなくない!?


「クロノちゃん」


 ミーナが小さく袖を引いた。


「……さっきの人、怖かったね」


 その声は、いつもの明るいミーナのものより少しだけ細かった。私は一瞬だけ言葉に詰まってから、なるべく普通っぽく笑った。


「うん。怖かった」


「でも、クロノちゃんと一緒でよかった」


 その一言に、私はちょっとだけ胸が痛くなった。それ、たぶん私も同じだ。一人だったら、たぶん今もっと怖かった。


 ディディエ司祭に守られながら、私たちは馬車に乗り、海辺をあとにする。


 グラン・ソーカに伝えてちょうだい。


 あの女は、そう言った。私のことを知っていた。父さんの名前も知っていた。


 胸の奥が、じわじわと冷えていく。


 父さん、知り合い?


 父さん、いったい何したの。


 ……いや待て。まさかとは思うけど。さっきの人、父さんの、あれじゃないよね。


 その、不倫相手とかじゃ、ないよね?


 駄目だよ父さん。母さんがいるんだから、そういうのは本当に駄目だよ……。


 一瞬、食卓で母さんが静かに微笑んでいる光景が浮かんだ。


 怖い。母さんが本気で怒ったところなんて見たことがないのに、想像しただけで震える。なんなら、さっきの女より怖い。


 ……いや、今はそこじゃない。


 父さんの女関係は、あとで母さんに任せるとして。


 問題は、あの女がただの不審者ではないことだ。


 私の力を見ていたかもしれない。

 父さんに、はっきりと警告を残していった。

 そして、ディディエ司祭が迷わず攻撃する相手だった。


 これは、私一人で抱えていい話じゃない。


 マークに相談しよう。


 波の匂いが遠ざかって、代わりに街の灯りが近づいてくる。遠足は、ただ「楽しかったね」で終わる一日にはならなかった。


 そしてたぶん、これは終わりじゃない。


 かなり面倒な何かが、ここから始まろうとしている。

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