青い海と黒い羽
校外学習の日がやってきた。
……いや、校外学習って言ってるけど、これほぼ遠足では?
だって行き先、海だよ。海。異世界に来てから初めて見る、本物の海である。そりゃテンションも上がる。上がるんだけど――
「浮かれない」
「女子らしく慎みをもって」
「司祭の言うことをちゃんと聞く」
「変なものを出さない」
朝から母さんの注意が、いつもより二割増しだった。しかも最後の「変なものを出さない」だけ、遠足の注意事項としてだいぶおかしくない? 母さんの勘が妙に鋭いのは昔からだけど、そこまで言われるとちょっと腑に落ちない。
「はいはい、分かってるって。任せて、お母さん」
「返事が軽いのよ」
「軽くないです! 今日も優等生モードで、ばっちし乗り切ります!」
「その言い方でもう頭痛が……」
母さんがこめかみを押さえながら、ちょっとよろけた。
え、そこまで? 私、まだ何もしてないんだけど?
隣ではマークが、パンをもぐもぐしながらこっちを見ていた。なんだその、「姉ちゃん、どうせまた何かやらかすな」みたいな目は。
「なによ」
「別に。姉ちゃんが『今日はちゃんとする』って言い出す時は、だいたい何か起きるから」
「出発前にそういうフラグ立てるのやめて」
「立ててるのは、姉ちゃんだと思うけど」
「うるさい」
でも否定はできない。
そんなわけで、ちょっと心配性な母さんと、妙に達観した弟の見送りを背に、私は聖堂院へ向かった。
⸻
集合場所の中庭は、朝からだいぶカオスだった。
「クロノちゃーん!」
元気いっぱいの声とともに、ミーナがぶんぶん手を振ってきた。
「おはよー! 今日楽しみだね!」
「おはよう。うん、まあ、ちょっとだけね」
「ちょっとなんだ?」
「いや、かなり楽しみだけど、全面に出すのが恥ずかしいだけ」
「出てるよ? 顔に」
まじか。ミーナにだけは見抜かれるんだよな。
その横で、シャーロットは鞄を胸の前にぎゅっと抱えていた。
「う、海って……波が大きかったりしませんか……?」
「大丈夫大丈夫! 泳いだりはしないらしいし、危ないところには行かないって!」
ミーナが明るく言う。でもミーナは基本、危ないところに吸い寄せられるタイプなので、その励ましには若干の不安がある。
「たぶんね」
「たぶん!?」
シャーロットの表情が、さらに曇った。ごめん、今のは余計な一言だった。
アルガスは壁にもたれて腕を組み、見るからにだるそうな顔をしている。
「昨日、寝付けなかったんだよな。ねみぃぜ」
楽しみすぎて眠れなかったのを、だるそうな態度でごまかしている。分かりやすいな、こいつ。
「本当はノリノリなくせに。じゃあなんで来たのよ」
「休んだら評価下がるだろうが」
意外と合理的だな、おい。
その横で、リリスは帽子の位置を直しながら、不満そうに呟いた。
「砂浜なんて、靴の中に砂が入り込むだけではありませんの……」
「気になるとこそこ?」
「重要ですわ」
エルヴィンはというと、どこで手に入れたのか、港の荷揚げ予定表を真剣に眺めていた。
「海辺……漂着物……港の交易品が流れ着いている可能性もありますね」
「遠足を仕入れの下見みたいに見るのやめて」
そのざわついた空気を、よく通る低い声がすぱっと切った。
「おい、騒ぐな。今日は遊びじゃねぇぞ」
一瞬で、何人かがぴしっと止まる。声のした方を見ると、そこにはジェイド師範が立っていた。
その隣には、ディディエ司祭。いつもの穏やかな笑みは浮かべている。けれど、朝から一年生のテンションを捌いてきた疲れが、ほんのり顔に出ていた。
「最近は街の外も少し物騒ですので、本日の校外学習は私たちのクラスのみで行います。また、今回は高等部二年のお二人にも補助として参加していただきます」
ディディエ司祭がそう言って、少し横にずれる。その後ろに立っていた二人を見て、私は思わず目を見開いた。
一人は、見覚えがある。すっと背筋を伸ばした美人。長い髪も、姿勢も、表情まで全部が整っている。入学式で壇上に立っていた、あの完璧超人先輩だ。
「本日、皆さんの補助を担当いたします、エリシア・エクス・ヴェルデンです。どうぞよろしくお願いいたします」
声まで綺麗か。相変わらず完成度が高すぎる。
列の端で騒いでいた男子が、ふざけて一歩はみ出しかける。エリシア先輩は一歩も動かず、ただそちらへ視線を向けた。
男子は、無言で列に戻った。
え、目力だけで整列させた?
そして、もう一人。肩までの髪を揺らしながら、やたら堂々と立っている女子。制服は少し着崩していて、きっちり整ったエリシア先輩とは正反対だ。明るくて、強そうで、少しだけ大人びた空気がある。
腕を組み、こちらを見渡して、にやっと笑った。
「カタリナ・ヴェルミオンよ! 面白そうだから来たわ! よろしく!」
来た理由が軽いな!?
でも、その軽さに反して、立っているだけで妙に目を引く。肩の力は抜けているのに、体の芯だけはまったく揺れていない。笑っているのに、隙を見せている感じがしない。
実際、先生が運んできた実習用の荷箱を、カタリナ先輩は片手でひょいっと持ち上げていた。
……いや、それ、二人で運ぶやつじゃないの?
ディディエ司祭が、ちょっとだけ困ったように咳払いした。
「……本来はエリシアさんにお願いしていたのですが、カタリナさんも補助役として参加してくださることになりました」
「補助役っていうか、あたしは現場向きなのよね。説明とか細かいことはエリシアに任せるわ」
「現場向き……? 私が細かいのではなく、あなたが雑すぎるだけではありませんか?」
「はいはい、そういう小言が細かいのよ」
なにこのコンビ。
エリシア先輩は冷静できっちり。カタリナ先輩は勢いで生きているタイプ。規律そのものみたいな優等生と、野生のトラブルメーカーが同時にいる感じだ。
ディディエ司祭が列の乱れをざっと見てから、静かに口を開いた。
「今日は、このお二人が補助役として同行してくださいます。皆さんは自分の班だけでなく、クラス全体で行動しているという意識を持ちなさい。勝手な行動は慎むこと」
「どうぞよろしくお願いいたします」
「よろしく! ま、危ないことしなきゃなんとかなるわよ!」
すると、カタリナ先輩がじっと私を見てから言った。
「えーと、あんたがソーカ家の子かしら?」
「え、なんで知ってるんですか」
「そりゃ、洞窟で派手にやらかした件で有名だからよ」
えっ、やだ怖い。あの件、高等部にも広まってるの?
私が一瞬ひきつると、エリシア先輩がさらりと補足した。
「ご安心ください。私がいる以上、妙なことはさせませんので」
あ、やばい。敬語なのに圧がすごい。
要注意人物として、しっかりマークされている。
ディディエ司祭が、これ以上この話を広げると面倒だと言わんばかりに、ぽんと手を打った。
「では、乗り込みますよ。海辺までは馬車で向かいます」
馬車!
中庭の外には、聖堂院の紋章が入った箱馬車が三台並んでいた。
異世界の遠足、移動手段が馬車。
特別感がすごい。
⸻
馬車の中も、最初はだいぶわちゃわちゃしていた。
ミーナは窓の外を見ては「見て見て!」を繰り返し、シャーロットは揺れのたびに「ひゃっ」と小さく声を上げる。アルガスは早々に肘をついて外を睨み、リリスは座席の汚れを気にし、エルヴィンは窓から見える街道脇の倉庫に興味津々だった。
私はというと、みんなの様子を見ているだけで普通に楽しかった。
馬車っていいな。揺れるし、ちょっと狭いけど、それも含めて異世界の遠足っぽさがある。
「クロノさん、酔ってはいませんか」
向かいに座るエリシア先輩が声をかけてくれる。
「大丈夫です。ちょっとテンション上がってるだけで」
「そうは見えませんが……そういうタイプなのですね」
この人、要注意人物の行動パターンを静かに記録してるな。
一方、カタリナ先輩は窓の外を見ながら笑っていた。
「いいわねー、こういう移動。遠出って感じがするわ」
「先輩、完全に遊びに来た人みたいです」
「実際にそうだもの」
潔いな!?
そんな軽いやり取りをしている間にも、エリシア先輩は時々、窓の外へ視線を向けていた。
街道ではなく、その上の空へ。
遠足気分の私たちとは、見ているものが少し違う気がした。
⸻
海辺に着いた時、私は普通に声が漏れた。
「うわ……」
本当に、海だった。
青くて、広くて、きらきらしていて、波が寄せては返している。遠くまで、ずっと続いている。
前世でも海は見たことがある。でも、あっちはもっと黒っぽくて、濁って見える日も多かった。こっちの海はちゃんと青い。
綺麗すぎる。
しかも異世界の海ってだけで、イベント感が二割増しなんだよな。
「海だーっ!」
ミーナは我慢しなかった。知ってた。
だっと駆け出しかけたところを、ジェイド師範に即回収される。
「走るな」
「はーい!」
返事だけはいい。
シャーロットは波打ち際を見て、ちょっと後ずさった。
「お、おおきい……」
「大丈夫ですわよ、あれくらい。波など、ただ水が寄せて返しているだけですもの」
リリスはそう言いつつ、自分の靴の先に砂がかからない位置をめちゃくちゃ意識していた。
説得力がない。
エルヴィンはさっそく漂着物の多そうな場所を見ている。
「瓶……木片……貝殻……」
「お宝探しモードに入るのやめて」
「商人ですから。どこにでも目を光らせねば」
「それもう商人っていうか乞食なんよ」
ディディエ司祭の説明は、思ったよりちゃんと授業だった。
海辺に生える植物や、塩に強い薬草の見分け方。岩場のくぼみに残った海水――潮だまりにいる小さな生き物の観察方法。貝殻や海藻を採取する時の注意点。魔力を帯びた海藻や、毒を持つ小さな生き物の見分け方。
それから、海辺の結界杭について。
今日の校外学習は、ただの観察だけではなく、結界杭に異常がないかを確認する目的もあるらしい。もちろん確認するのは先生と上級生で、一年生は近づきすぎないようにとのことだった。
……なるほど。遠足っぽいけど、ちゃんと授業だ。
説明が終わると、ジェイド師範がぴしゃりと釘を刺した。
「いいか。危険な岩場や沖には絶対に近づくな。潮だまりを観察する時も、必ず班で動け。何かあればすぐ知らせろ。勝手な判断で動くな」
「では、班ごとに行動を開始してください」
その一言で、空気が一気に緩んだ。
しばらくは、本当にただ楽しかった。
ミーナが真っ先に岩場へ向かい、シャーロットはエリシア先輩の後ろを離れず、アルガスが「おい、こっち来い。でかい貝あったぞ」とぶっきらぼうに呼ぶ。
リリスは「そんなに大きくありませんわ。わたくしの貝の方が整っております」と張り合い、エルヴィンは「この形は珍しいですね」と真面目に観察している。
その横で、シャーロットが小さく笑っていた。
ああ、こういうの、いいなって思った。
前世では、私はこういう時間にあまり縁がなかった。友達と海に来て、どうでもいいことで笑って、きれいな貝を見せ合う。そんな何でもない時間が、今は少しだけ眩しかった。
きっと、前世の私が欲しかったのは、こういう時間だったんだと思う。
特別なことじゃない。
ただ一緒にいて、同じものを見て、くだらないことで笑える時間。
この世界に来て、魔法が使えないことばかり気にしていたけれど。
今だけは、そんなことを忘れてもいい気がした。
その時、ミーナがきれいな貝殻をひとつ拾い上げた。
「見て! これかわいい!」
「ほんとだ。なんかゲームの収集アイテム感ある」
「なにそれ?」
「こっちの話」
カタリナ先輩はというと、少し高い岩の上にひょいっと飛び乗って、周囲を見渡していた。
「んー、景色いいわね! やっぱり海はいいわ!」
「先輩、落ちないでくださいよ」
「落ちないわよ。あんたは心配性ね、クロノ」
いや、初対面でまだよく知らないけど、なんとなくあなたは心配させる側なんですよ。
波の音と、子どもたちの声と、潮風が混ざる。さっきまであれだけ騒がしかったのに、不思議と嫌じゃない。
むしろ、ずっとこのままでもいいくらいだった。
⸻
最初に気づいたのは、やっぱりミーナだった。
「……あれ?」
ミーナが、ふっと空を見上げる。
「どうしたの?」
「鳥」
「鳥?」
「なんか、変じゃない?」
言われて私も上を見た。海の上を、何羽かの鳥が旋回している。べつにそれ自体は普通だ。海辺だし、鳥くらいいるだろう。
でも。
「……大きくない?」
「うん。あと、なんか静か」
静か?
その言葉で、私は周りの音を確かめた。
波の音はある。風の音もある。でも、さっきまであちこちで聞こえていた普通の海鳥の鳴き声が、いつの間にか消えていた。
代わりに、上空を回る数羽だけが、妙に低い位置をぐるぐる回っている。何かを狙っている? 段々近づいてきている気がする。
その時、少し離れた場所で海辺の結界杭を確認していたエリシア先輩が、ほんのわずかに眉を寄せた。
カタリナ先輩も、岩の上で空を見上げたまま笑みを消している。
その顔を見た瞬間、胸の奥が小さくざわついた。
あの二人が、警戒するように空だけを見ている。ただ景色を眺めているんじゃない。何かを確認している目だ。
「ちょっと、先輩たちの顔見て」
私がミーナに小声で言うと、ミーナも気づいて表情を引き締めた。
「……うん。なんか、さっきと違う」
上空を回っていた一羽が、ぎゃり、と濁った声を上げて、こちらへ低く降りてきた。
近づいた姿を見て、私は思わず息を呑む。
白い羽。でも、羽先だけが墨を流したみたいに黒い。目は妙に赤く、くちばしの端には黒い泡みたいなものがこびりついていた。
「……ねえ」
私はミーナの袖を引いた。
「あの鳥……普通の鳥じゃないよね?」
ミーナは、さっきまでの明るい顔を少しだけ引き締めて、小さく頷いた。
「うん。そうかも……」
潮風が、急に冷たくなった気がした。




