転ばずに、一歩ずつ
朝起きた。
身体中が痛かった。
な、なぜ?
……いや、わかってる。昨日のせいだ。昨日みんなで走ったからだ。
小学生くらいなら、ちょっと走ったくらいで翌日に響いたりしないんだろうな、などと甘ったれたことを考えていた昨日の私を全力で殴りたい。
ベッドから起き上がるだけで、「うぐっ」と変な声が出た。
脚が重い。腰も痛い。腕もだるい。
どういうこと? 昨日の走り込み、そんなガチ部活メニューじゃなかったよね? ただみんなでちょっと頑張っただけだよね?
でもそういえば、この身体になってから一生懸命に走るなんてこと、したことなかったかも……。
え、もしかして“ちょっと頑張る”って、こういうこと?
私はそろそろと床に足をつけた。
「っ、いった……」
立ち上がる。
歩く。
ぎこちない。
やばい。歩き方が明らかにおかしい。
そのままふらふらと部屋を出たところで、ちょうど廊下を通りかかったマークに見られた。
「姉ちゃん、歩き方がおばあさんみたい」
「うるさい。てか高齢者を馬鹿にすんな。おばあさんのほうがもっとちゃんと歩く」
「そこは否定しないんだ」
こいつ、朝からいちいち絡んできて本当、私のこと大好きだよな。
……よし。今度マークも走らせるか。少し痩せさせよう。
でもその瞬間、ふと別のことを思い出した。
……いや待て。
これ、シャーロットちゃん大丈夫か?
昨日、転ばずに走れたって、あの子すごく嬉しそうだった。自信も少しついたみたいだったし、それは本当に良かった。よかったんだけど、こうして翌朝の私が筋肉痛で死にかけてるのを見ると、ちょっと不安になる。
不安といえば、昨日は走ったあと、みんなで「じゃあまた明日!」って解散して、それから家に帰って――珍しく父さんが帰ってきてなかったんだよな。
母さんとマークと三人で食卓を囲んだ。
いつもいる人がいないと、やっぱり少し寂しい。
まあ父さんも、司祭の仕事やらなんやらで遅いことはあるんだろうけど……司祭の仕事で残業って、今までそんなになかった気もする。
……いや、今は父さんの心配をしてる場合じゃないか。
今日の私はまず、自分がちゃんと歩けるかどうかから心配したほうがいい。
⸻
学園へ着く頃には、私はすでに「今日一日を生き抜けるだろうか」みたいな顔になっていたらしい。
最初にそれを指摘したのはミーナだった。
「クロノちゃん、どうしたの!? なんか昨日の元気が嘘みたいにしおれてるよ!」
「昨日の私が元気すぎただけだよ……」
席に座ろうとして、思わず「イタタっ」と声が漏れる。
「あ、わかった! 筋肉痛?」
「その通りです」
すっと横から入ってきたのは、同じくどこか動きのぎこちないエルヴィンだ。
「筋肉痛とは、運動不足の身体に急激な負荷がかかった結果――」
「今その理論説明いらない」
私は即座に止めた。
その横で、シャーロットちゃんがそろそろとこちらに歩いてくる。
……うん。明らかにぎこちない。
でも、昨日までと違うのは、その顔が少しだけ明るいことだった。
「あ、あの……昨日は、その……ありがとうございました……」
小さな声。
でも、本人の中ではきっとかなり大きな報告なんだろう。
「うん。これで走るのはだいぶ大丈夫なはずだよ。昨日、全然こけなかったじゃん」
「えへへ……」
よかった。
筋肉痛にはなってるみたいだけど、心はちょっと前に進んでる。
その一方で、アルガスはいつも通り偉そうに歩いていた。
こいつは筋肉痛なんてないのかなと思いきや、鞄を下ろした拍子に落ちたペンを拾う時、一瞬だけ脚の動きが止まった。
私は見逃さなかった。
「……アルガス、今、脚痛いっしょ?」
「痛くねぇよ!」
「いや絶対なんか変な動きしたじゃん」
「な、なに見てんだよ! 俺はお前らみたく軟弱者じゃねぇの!」
この反応は図星だ。
こいつ、図星の時だけ声が半音上がるんだよな。
ミーナは一人だけ元気いっぱいだった。
「筋肉痛って、頑張った証拠だよね!」
「元気だなあ……」
「いっぱい走るの楽しかったし!」
「楽しさが筋肉痛に勝つタイプか……」
強い。
この子、生命力が強い。
リリスは普段から鍛えているからか、ぱっと見は平然としていた。
が、椅子に座る時だけ、アルガスと同じようにほんの一瞬だけ動きが遅かった。
私は見逃さなかった。二人目。
「……リリス、今」
「なんですの?」
それ以上言うなよ? と言わんばかりの視線が飛んでくる。
「いえ、何も」
圧で黙らされた。
くっ、強者はやはり筋肉痛すら認めない。
⸻
その日の実技は、この世界で使われている武術――三大流派の基礎授業だった。
「俺はジェイド。元冒険者だ。縁あって、今日からこのクラスの師範を務める。今年の一年は生意気なのが多いと聞いてる。貴族の子だろうがなんだろうが、ビシバシいくからな!」
担当の師範は、背筋の伸びた厳つい四十代くらいの男だった。
いかにも「基礎をなめるな」って顔をしている。
うん、怖い。
でも声はよく通るし、説明もわかりやすそうだ。
たぶんこういう人、見た目は怖いけど教えるのはちゃんとしてるタイプだ。体育会系だけど当たりの先生、みたいな。
「一年から三年では、三大流派すべての基礎を学ぶ。そして四年から一つに絞り、そこから本格的に修めてもらう」
師範は訓練場の中央でそう言った。
「破剣式。鏡盾式。迅玉式。三つすべてを習得するのは困難を極める。初級、中級、上級と位があるが、一人前と呼ばれる中級を一つ修めるまでにも、何年もの月日が必要となるからだ」
ほお。
わかりやすい。
「だから最初から、訳もわからず一つだけを選ばせはせん。四年から六年で自分に合う流派を定めるためにも、まずは一年から三年ですべての基礎を叩き込む」
なるほど、ちゃんとしてる。
思っていたより、だいぶ教育機関として真面目だった。
もっとこう、「才能あるやつは勝手に伸びろ!」みたいな雑システムかと思ってた。ごめん、聖堂院。普通にカリキュラム組んでたわ。
それから師範は、三流派の簡単な説明を始めた。
破剣式は、力強い踏み込みと一撃の重さ。
鏡盾式は、受け、守り、崩し、反撃。
迅玉式は、足運び、間合い、速さ。
へえ。
ちゃんと聞くと、どれもそれぞれロマンがある。
私に相性がよさそうなのは、たぶん迅玉式か鏡盾式かな。
破剣式で豪快に無双してみたい気持ちもなくはないけど、あれはまず筋力がいる。今の私、筋力のステータスでいうと5がいいところだ。昨日、少しだけ走っただけなのに筋肉痛で殺されかけてる人間である。
だが、しかし……。
難しいのはわかってる。わかってるけど。
三つ全部、そこそこ極める万能ルートとかないの?
なんか力も技術も速さもあれば、めちゃくちゃかっこよくない?
三流派を全部修めた私。
魔物を前に、二刀流とかやり始める私。
いや待て、鏡盾式あるのに盾を捨てるな。
でも見た目は絶対かっこいい。
最終的に「全流派を渡りし者」とか呼ばれるやつでは?
夢が広がりング――
……いや、違う違う。
今は私の厨二妄想を育ててる場合じゃない。
問題はそこじゃない。
シャーロットちゃんをなんとかせねば。
今日はまず、破剣式の基礎をやるらしい。
木剣の持ち方。
構え。
重心移動。
一歩目の踏み出し。
号令に合わせた前進後退の素振り。
基礎だ。すごく基礎だ。
でもその“すごく基礎”が、シャーロットちゃんにはすごく高い壁らしかった。
精神面でいえば昨日よりはマシだ。
多少筋肉痛はあるみたいだけど、新しいことをやる緊張で、その痛みも半分忘れているようにも見える。
たしかに昨日よりはマシなはずなのだ。
けど、実習の空気がそれをまた削っていた。
構えがちょっと変。
号令で一拍遅れる。
師範の視線で肩が上がる。
そして「間違えたらどうしよう」が顔に全部出る。
ああ、これ、昨日の走り込みでちょっと前向きになったけど、本番空気でまた固まってるやつだ。
挙動不審なシャーロットちゃんを見ていたアルガスが、たまりかねたように口を開いた。
「だから肩に力入りすぎなんだよ」
うん。正しい。
「一気に全部やろうとすんな」
うん。これも正しい。
「考えすぎるから遅れんだろ」
それも正しい。
でも。
でも言い方ァ!!
案の定、シャーロットちゃんはさらに縮こまった。
「ひぃ……」
「アルガス!」
私は即座に割って入る。
「言い方! 内容が正しくても怖いんだって! 指導っていうか半分威嚇なんだよ!」
「うるせぇな、これくらい普通だろ」
「普通じゃないからこうなってるんでしょ!」
アルガスがむっとする。
シャーロットちゃんは小さくなる。
リリスはどう言えばいいかちょっと悩んでる。
ミーナは「できる! できる! だいじょうぶだよ!」と松○修造みたいなことしか言わない。
エルヴィンは横で「正論だけでは駄目なこともある……なるほど」とか言ってる。
カオスか?
いやでも、ここで引いたらまたシャーロットちゃんが“できない側”に戻っちゃう。
私は一度深呼吸した。
全部やらせない。
昨日と同じだ。
やることを一つずつ積み上げる。
まずは一つやって、自信をつけていくことからだ。
「シャーロットちゃん」
「は、はい……」
「まずは完璧な構えとか考えなくていい。まず“号令で一歩出る”だけやろう」
「い、一歩……だけ……?」
「そう。一歩だけ。左右がわからなくなるなら右手を意識する。止まらないことだけ考えよう」
エルヴィンがすっと補足した。
「でしたら、右手側に目印をつけましょう。意識の補助になります」
「諦めないことが大事!」とミーナ。
「前を見ることもお忘れなく」とリリス。
「見本は俺がやる」とアルガス。
「なんか急にチーム感出てきたな……」と私。
師範がこちらを見て、少しだけ口元を緩めた。
「良い仲間だ。出来ぬ者を笑わず、出来る形を探すのは悪くない」
おお、褒められた。
ちゃんと褒めて伸ばすタイプの師範でもあるらしい。
⸻
その後、雑に各々始めたみんなを見て、師範は次の課題を出した。
「では、三人組の班で、それぞれ攻め、受け、観察役を決めろ。受ける者は木剣を頭上で水平に構えろ。攻める者は中央を狙え。力任せに振るうな。大事なのは軌道と踏み込みだ。観察する者は、どう動けば上手くいくか助言し、自分がやる時の参考にもせよ」
見本を見せる師範の動きはきれいだった。
無駄がない。迷いがない。速いのに見やすい。
これが師範ってやつか。強そう。三流派を教えられるレベルだ。そりゃそうか。
私たちの班も、順番に攻めと受けと観察係をローテーションでやることになった。
他の班は三人で固まってるけど、うちだけ六人だ。
でも師範は何も言ってこないし、人数が増える分にはいいんだろうな。
シャーロットちゃんの番が来る。
やっぱり、顔がこわばる。
あ、また固まる。
でも今回は、一人じゃない。
自信がなさそうにするシャーロットちゃんに、みんなで声をかける。
「一歩だけでいい!」と私。
「気合いと根性!」とミーナ。
「前を見なさい!」とリリス。
「今です!」とエルヴィン。
そしてアルガスが、少し苛立ったような声で怒鳴った。
「俺に当ててもいいから来い!」
――それが、一番効いた。
雑だ。
雑なんだけど。
“失敗しても来い”って意味だって、ちゃんとわかった。
シャーロットちゃんは息を飲んで、ぎゅっと木剣を握り直した。
一歩。
出た。
次の木剣も振り下ろせた。
構えはまだ少し危なっかしい。
剣筋も完璧じゃない。
でも、止まらない。
そしてちゃんと、アルガスの木剣の真ん中に当てた。
……おお。
私は思わず息を吐いた。
たぶん私だけじゃない。みんな少しだけ肩の力を抜いていた。
師範が腕を組んで、こちらを見る。
「よく出来ているとは言わん」
うん、厳しい。
「だが、段々上達していく感覚というのは悪くないものだぞ」
シャーロットちゃんが、はっと顔を上げる。
「出来ることから一歩ずつだ。その一歩を忘れるな」
その言葉に、シャーロットちゃんは目を潤ませながら、小さく頭を下げた。
「……はいっ」
よし。
完璧じゃない。
でも、ちゃんと前に進んだ。
⸻
実習が終わったあと、私たちはそのまま少しだけ残って話した。
「シャーロットちゃん、すごかったよ!」
ミーナは全力で褒める。
「ま、まだまだですけれど……でも、その……昨日の走り込みのおかげで少し自信がついたからかもしれません……」
「昨日走っていなかったら、出来ていませんでしたわね。苦手なことも、ちょっとした努力やきっかけで上達するものなのですわ」
リリスがいつもの調子で言う。
でも今日はちゃんと認めてるやつだ。
「成功体験は重要です。特に苦手意識の強い対象には」
エルヴィンはやっぱり理屈でまとめに来た。
「うん、でも今日はその理屈もわりと好き」
私がそう言うと、エルヴィンは少しだけ得意そうな顔をした。
アルガスはそっぽを向いたまま、ぼそっと言う。
「……やればできんじゃねぇか」
うわ。
今の、だいぶ優しいな。
「次はもう少しマシに動けよ」
あ、やっぱりぶっきら棒だった。
でもシャーロットちゃんは、ちゃんと笑っていた。
「……ありがとうございます」
その顔を見て、私はちょっとほっとした。
秘密会議の次は、シャーロットちゃん実技克服編。
どうなるかと思ったけど、とりあえず今日はクリアだ。
そう思った、その時。
学園の外れの森の方から、遠く、妙な遠吠えが聞こえた。
ぞわ、と空気が少しだけ冷える。
「……なんだろ?」
ミーナが首をかしげる。
リリスが眉を寄せた。
「最近、セレスティアの外で魔物が活性化しているらしいですわ」
「僕も聞きました」
エルヴィンが続く。
「魔族が使役する魔獣も暴れてるとか」
「なんだそれ、面白そうだな」
アルガスが悪い顔をする。
ちょうどその時、ディディエ司祭が帰り支度をしている生徒たちへ声を張った。
「皆さん、最近は少し物騒です。なるべく一人で帰らず、近所の者と一緒に帰るように。寄り道はせず、まっすぐ帰ること。下校時は我々も見回っています。異変があれば、すぐに知らせなさい」
その言葉に、生徒たちのざわめきが少しだけ大きくなる。
……父さんもこの件で忙しいのかもな。
でも今は、その“違和感”がまだ遠い。
私たち六人のすぐ足元にまでは、まだ降りてきていない。
そう思っていた。
⸻
帰宅すると、父さんはまたいなかった。
外では雨が降り始めていて、窓に細かな水の筋ができている。
居間では母さんが静かに外を見ていた。
「お父さん、また遅いの?」
「少し急な仕事が入ったって言ってたわ」
「魔物が出てるらしいから心配だね。お父さん太ってるし、逃げられるかな」
私が言うと、母さんは少しだけ笑った。
「前にも言ったでしょう? お父さんも騎士だったんだから、魔物くらいなら大丈夫よ」
その声はいつも通りだった。
でも、そのあと。
本当に小さく、独り言みたいに漏れた。
「……魔人でも出ない限りはね」
私はぴたりと止まった。
「ま、魔人ってなに?」
マークも顔を上げる。
「魔王なら聞いたことあるけど、そんなのいるの?」
母さんは一瞬だけ目を細めて、それからすぐにいつもの顔に戻った。
「なんでもないわ。ほら、もう寝なさい。明日も聖堂院でしょ?」
「はーい……」
返事をしながらも、私はなんとなく窓の外を見た。
その時だった。
家の外に立つ結界灯が、一瞬だけ明滅した。
ほんの一瞬。
気のせいかと思うほど短く。
でも、確かに揺れた。
胸の奥が、少しだけ冷たくなる。
シャーロットちゃんは、今日、一歩ずつ前に出た。
私たち六人も、少しずつちゃんと絆を深めて、仲間になれている気がする。
転ばずに、一歩ずつ。
たぶん、それが今日の答えだった。
なのに。
家の外で一瞬だけ揺れた結界灯の光だけが、妙に胸に残った。
まるで、私たちが前に進んだぶんだけ、何か危険なことも一歩ずつ近づいてきているみたいで。




