女子高生の私、赤ちゃん令嬢になっていた件
信号が青に変わった。
横断歩道を渡ろうとしていた中学生くらいの男の子が、スマホを見ながらふらふらと前へ出る。
危なっ。
知らない子だった。けれど、見なかったことにはできなかった。
気づけば、身体が先に動いていた。
鋭いクラクション。
まぶしい光。
身体にガツンとくる衝撃。
そして――。
目が覚めたら、知らない天井があった。
天井一面には繊細な模様。視界の端には、高級そうなシャンデリア。背中には、ふかふかした布の感触。
……どこ、ここ。
そう思った直後、視界いっぱいにでっかい顔が現れた。ふくよかな体格の紳士が、超至近距離でこちらを覗き込んでいる。近い。とにかく近い。初対面でこの距離はだいぶ攻めている。
その隣には、モデルみたいな美人の女性がいた。柔らかく微笑んでいるけれど、当然ながらこちらも知らない人である。
私は反射的に身を起こそうとした。
……起き上がれない。手足が動かない。首もなんか怪しい。視界もやたら低い。そんな私を見て、紳士の表情がぱっと明るくなった。
「おお、クロノ。起きたのかい」
美人の女性も、嬉しそうに私の頬を撫でた。
「ふふ。赤ちゃんって、なんでこんなに可愛いのかしらね」
赤ちゃん。今、この人、赤ちゃんって言った?
いやいやいや。落ち着け、私。試しに声を出してみる。
「ふ、ふぎゃ……」
泣き声だった。待って。今の、私?
震える気持ちで、自分の手を見る。小さい。ありえないくらい小さい。指なんて、ほぼミニチュアである。赤ちゃん。動かない手足。泣き声。知らない天井。事故の記憶。ここまで証拠がそろったら、さすがに認めるしかない。
これ、私――赤ちゃんになってる。
しかも、頭の中だけは妙にクリアだった。前世の記憶がある。女子高生だったことも、オタクだったことも、現実逃避歴がほぼ年齢だったことまで、無駄に鮮明に覚えている。推し、アニメ、ゲーム、FPS、ミリタリー知識。そっちだけは、しっかり残っていた。
つまり。事故に遭った。目を覚ましたら、知らない部屋。身体は赤ちゃん。なのに、前世の記憶だけは残っている。
これ……ガチの異世界転生では?
転生するにしても、説明書くらい付けてほしい。女神は? 天使は? チート能力の説明係はどこへ行った? いきなり赤ちゃんスタートは、チュートリアルとして不親切すぎる。
混乱しているはずなのに、不思議と泣き叫ぶ気にはならなかった。前世でも、困った時ほど頭の中でひとり会議を始める癖があった。役に立ったことは、あまりない。
そんな私の混乱など知る由もなく、目の前の大人たちはやたら優しい顔で私を覗き込んでいた。
「クロノ」
「クロノちゃん」
どうやら、この世界での私の名前はクロノらしい。
クロノ。
なんか、どこかのゲーム主人公みたいな名前だ。時代とか飛び越えそう。悪くない。いや、今そこを評価している場合ではないけど。
それにしても、さっきから普通に言葉がわかる。異世界転生、この便利機能だけは助かる。
知らない人たちのはずなのに、頬を撫でる手は妙にあたたかかった。名前を呼ばれるたびに、私は少しずつ、この世界の赤ちゃんになっていく気がした。
私はどうやら、ふかふかのベビーベッドに寝かされているらしかった。高級なレースのカーテン越しに庭園の花が見える。壁には、灯火を掲げた女神らしき絵。窓辺には小さな祈りの鈴。使用人っぽいお姉さんが、銀の盆にミルクを乗せて運んでくる。
屋敷。使用人。シャンデリア。女神の絵。たぶん貴族。
今できることといえば、泣く、寝る、飲む。以上。戦力外にもほどがある。けれど、今さら騒いだところでどうにもならない。お腹が空けばミルクが来る。眠くなれば寝かせてもらえる。一日中寝ていても誰にも怒られない。
……あれ?
これ、もしかして最高では?
そう思いかけたところで、前世の家族のことが頭をよぎった。散らかったままの私の部屋。スリープ状態のノートパソコン。
お父さん。お母さん。
胸の奥が、きゅっと縮む。
でも、赤ちゃんの身体では戻ることも、声をかけることもできない。考え続けたら、たぶん本当に泣いてしまう。だから私は、いったんそこに蓋をした。
逃げたと言われれば、たぶんそうだ。
でも、今の私にできることは、それくらいしかなかった。
そうして人生二周目の初日から、私は赤ちゃんという最強職業を全力で使い倒すことにしたのである。
つまり、寝る。
……今は、それでいい。
⸻
そんな自堕落な赤ちゃん生活を送っていた、ある日のこと。私は、今世の母で間違いない女性の膝に乗せられていた。笑顔の圧が強いやたら美人な人だ。ちなみに、ふくよかで優しい紳士の方は父。たぶん、その認識で合っている。
その母が、私に絵本を読んでくれていた。
「むかしむかし、雷鳴の勇者が王国に生まれました――」
絵本のページには、雷をまとった剣を掲げる少女、灯火を宿した宝珠を持つエルフ、そして巨大な盾で人々を守る騎士が描かれていた。勇者と仲間たちが魔王の影を退け、人々を守る。そんな感じの、とても正しい物語だ。
「勇者レイと仲間たちは、女神の導きによって魔王を倒したのでした」
母は本を閉じると、私に優しく微笑みかけた。
「クロノも、はやく魔法を使えるようになるといいわね」
……魔法。今、魔法って言った? 絵本の中の話じゃなくて?
いくら異世界っぽい屋敷に生まれたからって、魔法まで実装済みとは限らない。中世っぽいだけの、ただの貴族社会かもしれない。
でも、母の口から出た「魔法」という言葉は、完全にあるものとして扱われていた。絵本の中だけの話じゃない。この世界では、魔法が本当に存在するらしい。
それと、もうひとつ分かったことがある。オムツを替えられた時に、非常に冷静かつ強制的に理解させられた。
二回目の人生は、女の子確定。
……勇者の剣はなかった。
でも、転生前と同じ性別でかなり安心した。
⸻
数ヶ月が経過した。
屋敷で交わされる大人たちの会話から、少しずつこの世界のことが見えてきた。魔法は本当に存在する。ただし、誰でも使えるわけではない。貴族や、教会に認められた者――選ばれし人たちの力らしい。
外へ連れ出されることもあった。見慣れない帽子、長い外套、腰に剣を下げた男、籠いっぱいの果物を抱えた商人。馬車が石畳の上をゆっくり進み、その向こうには白い尖塔がいくつも並んでいる。塔の先端には灯火をかたどった飾りがあり、昼の光を受けてきらきら光っていた。
まるで、昔遊んだRPGのオープニングムービーみたいだった。石畳の街も、白い尖塔も、行き交う人たちのざわめきも、全部がこれから始まる冒険の背景に見える。その中に自分が入り込んでいると思うと、ちょっとだけテンションが上がった。
まあ、操作キャラは赤ちゃんなんだけど。
両親は仲がいい。たまに喧嘩もするけれど、だいたい母が勝つ。父はいつもにこにこしているけれど、母に笑顔で見つめられるとすぐ黙る。たぶんこの家で一番強いのは母だ。
そんなわけで私は、まだ見ぬ魔法に胸を躍らせていた。貴族の子どもにとって、魔法は才能であり、義務であり、将来そのものらしい。いずれは教会の学校にも通うことになるという。
学校。
その言葉を聞くと、前世の記憶がちょっとだけ胸を重くする。
前世の私は、友達を作ることが得意じゃなかった。誰かと仲良くなりたい気持ちはあった。でも、何を話せばいいのか分からないまま、いつも一歩遅れていた。何気ない一言で笑われたこともある。輪の中に入ろうとして、うまく入れなかったこともある。だからいつの間にか、最初から少し離れた場所にいる方が楽になっていた。
それでも、ひとりでいるのが好きだったわけじゃない。ただ、現実の輪に入るより、画面の向こうにいる方が息がしやすかった。ネットで推しやアニメの話を追っている時間が、一番落ち着いた。FPSゲームの武器や戦術を考えている方が、人間関係よりずっと簡単だった。
敵の位置は読める。
射線も読める。
……でも、人の気持ちは読めない。
だからこそ、今度はちゃんと友達を作りたい。誰かと同じことで笑って、くだらない話をして、また明日ねって言える自分になりたい。
それと、学校にはもう一つだけ、期待しているものがある。
前の世界にはなかったもの。
――魔法だ。
火の玉。風の刃。回復魔法。空を飛ぶ魔法。そんなものが本当に使えるなら、学校生活の不安くらい頑張れる気がした。
だって、魔法だよ?
画面の向こうでしか見られなかったものが、本当にこの手から出るかもしれない。使いたいに決まってる。
私は小さな手を握りしめた。
魔法習得。
友達百人。
異世界人生エンジョイ。
ベビーベッドの上で立てる目標としては、かなり欲張りである。でもいい。二周目の人生だ。目標くらい盛っていこう。
ここからが、私の本当の冒険の始まり。
⸻
――この時の私はまだ知らなかった。
その目標のひとつが、最初から盛大に詰んでいることを。




