別の自分の幻視
週の二日目の上級魔法理論の授業は、いつもマナと元素顕現の関係についてだった。
オールドウィン教授が、黒板に書いていた。図解。概念を結ぶ矢印。体の経絡を通るマナの流れを表す記号。
「ご覧のとおり」教授は、ある記号を指差して言った。「マナは、顕現する前に、元素核を通過しなければなりません。この核が決めるのは――」
僕は椅子にもたれ、黒板の記号を見つめていた。
馴染みがあった。もう何百回も勉強してきた。
それなのに、見つめていると、何かが……揺らいだ。
ろうそくの炎が、ちらつくように。
そして――
* * *
違う部屋。
白い壁。冷たく、明るい光――アカデミーの魔法のろうそくとは、違う。決して揺らがない光。
巨大な黒板。黒い。緑のスレートではない。理解できない記号で、埋め尽くされている。
奇妙な文字。数字。物事を結ぶ線。
座っている人々。大勢。椅子の列。みんなが、前を向いている。
誰を……僕を?
いや。誰か、別の人を。
でも、僕はそこにいた。立っていた。黒板の前に。
みんなを見ていた。
話していた。
言葉は理解できないのに、意味はわかった。違う言語。流暢で、速い。
そして――
老人が、最前列から立ち上がった。
すっかり白くなった髪。丸い眼鏡。しわの刻まれた、けれど優しい目。
近づいてきた。
手を、差し出していた。
「おめでとうございます、教授!」
握手をしていた。
温かさ。力強さ。敬意。
拍手。
たくさんの、拍手。
部屋じゅうに響いていた。砕ける波のように。
これは……僕への?
僕は――いや、誰か別の人が――微笑んでいた。
誇り。達成感。深い満足。
「あなたの研究は、革命的です。あなたは――」
* * *
「ヘリオ!」
まばたきした。
白い部屋が、消えた。
また、教室にいた。
オールドウィン教授が、僕の机の前に立っていた。眉をひそめて。
「大丈夫か? 真っ青だぞ」
周りを見た。同級生が、僕を見つめていた。好奇心の顔も。退屈な顔も。
「僕は……はい。すみません、教授」
「虚空を見つめていたぞ。一分近くも」
「不気味だった」誰かが後ろで囁いた。
「憑かれてるんじゃないか」別の誰かが、冗談を言った。
「いや、ただ寝てるだけだろ」カエルが言った。「こいつじゃ、見分けがつかん」
押し殺した笑い。
オールドウィンが、クラスに鋭い視線を投げた。「静かに」
一分?
ずっと……長く感じた。それでいて、ずっと短く。同時に。
「僕は……気が散っていました」
オールドウィンが、しばらく僕を見つめ、それから黒板へ戻った。「もっと休みなさい、ヘリオ。ストレスは、マナに……奇妙な影響を及ぼすことがある」
うなずいたが、本当には聞いていなかった。
心臓が、激しく打っていた。
教授?
誰の、教授だ?
僕は学生だ。ランク∅の学生。
教授じゃない。
それに、あの部屋……あの光……あの言語……
何だったんだ?
いったい、何だった?
手を見た。わずかに、震えていた。
ストレスだ、と自分に言い聞かせた。ただの、ストレス。教授の言うとおりだ。
勉強しすぎている。睡眠が足りていない。
それだけだ。
でも、あの感覚……
あの誇り……
あの拍手……
あまりにも……リアルに感じた。
午後の実技の授業は、いつもどおり、予定された責め苦だった。
ソーン教授が、僕たちをグループに分けた。それぞれが、教授の監督のもとで基礎呪文を練習する。
僕はミラと、ほかに二人のランクDの学生と一緒に、隅にいた。カエルが、僕たちに聞こえないと思って呼んでいる『ほぼ役立たず組』だ。
ほかの三人が、練習していた。小さな炎。水の噴射。大したものじゃないが、少なくとも、ちゃんと機能していた。
僕の番。
集中した。深く、息を吸った。
火だ、と思った。火を思い描け。
手を上げた。
「フレ――」
そのとき……何かが、変わった。
なぜかは、わからない。
どうやってかも、わからない。
「火」を元素として考える代わりに……
……熱を、考えた。
動き。
ますます速く震える、小さな球。
変換される、エネルギー。
なぜそんなことを考えたのか、わからなかった。
その「球」が何なのかも、わからなかった。
でも、考えた。
「フレイム」と囁いた。
マナが、手から流れ出た。
そして、一秒のあいだ――
たった一秒、完璧な一秒のあいだ――
本物の炎が、形をなした。
小さい。揺らめいている。コインより大きくない。
でも、本物だ。
火花じゃない。
あの情けないポンじゃない。
火だ!
「やった!」
あまりに大きく叫んだので、声が練習場に響いた。
グループのほかの面々を振り返ったが、誰も見ていなかった。
ミラは、水の噴射を練習していた。あとの二人は、何かを言い合っていた。
練習場の反対側では、ソーン教授が、マーカスと別の学生の組手を監督していた。
誰も、見ていなかった。
誰一人。
手を見た。
空っぽ。いつもどおり。
炎は、消えていた。
だいたい、一秒ほど続いた。
「やった」もっと静かに、繰り返した。「見た。炎があった。僕は――」
もう一度やれ、と自分に言った。さあ、もう一度。見せてやれ。
集中。呼吸。もう一度、思い描く。
熱。動き。エネルギー。
「フレイム!」
ポン。
火花。
また、いつもどおり。
情けない、無。
「いや……待て……」
もう一度、試した。
ポン。
火花。
「でも……でも、見たんだ。あった。僕は――」
「ヴァロリン!」ソーン教授が、練習場の反対側から吠えた。「独り言はやめて、集中しろ!」
「教授、僕は――」
「集中しろ!」
拳を握りしめた。
もう一度、試した。また。また。
ポン。ポン。ポン。
火花だけ。
でも、確信していた。
確信していた。
一秒のあいだ、本物の炎が、あった。
……だよな?
授業が、終わった。
荷物をまとめていると、声が聞こえた。
「で、ヴァロリン。練習はどうだった?」
ルシアン。
いつもの、あの憎たらしく、鼻持ちならない、尊大なルシアンだ。
壁にもたれ、腕を組み、退屈そうな笑みを浮かべていた。
「順調だ」目を合わせずに言った。
「順調?」彼が笑った。「『やった!』って叫ぶのが聞こえたぞ。まるで、空の飛び方でも発見したみたいにな。で、いったい何をやったんだ?」
「僕は……炎を、作った」
「炎を」
「ああ」
「どこに?」
「手の中に」
「で、誰かが見たのか?」
ためらった。
「……いや。でも――」
「ああ」ルシアンが笑った。「なるほどな。目に見えない炎、か。便利なものだ」
「見えなかったんじゃない! ただ――」
「ただの想像だった?」カエルが、ルシアンの横に現れて、微笑んだ。「ヴァロリンは、今度は想像上の成功まで発明するのか?」
「想像なんかしてない!」
「もちろん、してないさ」ルシアンが、わざとらしい理解の口調で言った。「賭けてもいい。お前の夢の中じゃ、とっくにランクSSSの大魔導士〈偉大なるヘリオ〉さま、ってところなんだろう?」
さらなる、笑い。
ルシアンが、しばらく僕を見つめ、それから肩をすくめた。
「信じてやるふりをしよう」突然、理性的な口調になって言った。「いいだろう。もう一度やってみろ」
まばたきした。
「何?」
「もう一度やれ。お前の、奇跡の炎を」中庭の、空いた場所を指差した。「ここで。今すぐ」
「僕は……今?」
「ああ、ヴァロリン。今だ」彼が微笑んだ。「何か、問題でも?」
空いた場所を見た。
ほかの学生が、足を止めていた。聞いていた。見ていた。
小さな人だかりが、できはじめていた。
心臓が、激しく打った。
できる。前にやった。本物だった。ただ……やったことを、もう一度やればいい。
「わかった」と言った。
空いた場所へ、歩いていった。
ルシアン、カエル、そして少なくとも十数人の学生が、僕を取り囲んだ。
みんなが、見ていた。
みんなが、待っていた。
集中しろ、と自分に言った。さっきのように。思い描け。
手を上げた。目を閉じた。
熱。動き。震える、小さな球。
深く、息を吸った。
「フレイム!」
ポン。
火花。
沈黙。
それから――
笑い声。
ルシアンだけじゃない。
全員。
「信じられん」ルシアンが、ゆっくりと拍手しながら言った。「感動したよ。あの火花は、ほとんど……存在していたな」
さらなる、笑い。
カエルは、体をふたつに折り、あまりに激しく笑って、壁にもたれかからなければならなかった。
誰かが叫んだ。「もう一度やれ、ヴァロリン! 次の火花は、もっと大きいかもしれないぞ!」
さらなる、笑い。
手を下ろした。
顔が、燃えていた。
魔法のせいじゃない。
恥のせいだ。
「わかったか、ヴァロリン?」ルシアンが、まだ微笑みながら言った。「これが問題なんだ。何かをやった、と言うだけじゃ足りない。証明しなきゃならない」
ほかの学生たちに、向き直った。
「そして、こいつは何も証明できない。証明することが、何もないからだ。落ちこぼれ。ヌル。みんな、知ってるだろう? 知らないのは、こいつだけだ」
そして、もう一度、僕を見た。
「哀れだな」首を振って言った。「本当に、哀れだ。失敗するだけじゃ足りなくて、今度は自分自身にまで、嘘をつかなきゃならないとはな」
「嘘なんか、ついてない」囁いたが、声は弱かった。
自分でも、もう信じていなかった。
ヴィヴィアンが、人だかりの中から前に出た。
「放っておきなさい」
「おや、ヴィヴィアン嬢」ルシアンが言った。「いつだって、負け犬を守る準備ができてるな」
「ヘリオは――」
「気をつけることだ、ヴィヴィアン」ルシアンが、近づいた彼女に向き直って言った。「負け犬をかばうと、こちらまで弱く見える。お前ほどの評判を、こんなことで台無しにするのは、惜しいだろう」
「私は、あなたを信じるわ」彼女はルシアンを無視して、優しく僕に言った。
「ふん! 好きにしろ。損をするのはお前だ」ルシアンが、取り巻きを連れて立ち去った。
遠ざかりながらも、まだ笑い声が聞こえた。「哀れ」「馬鹿」という言葉も……
ヴィヴィアンを見た。
その目には、優しさがあった。
でも……ためらいも?
「本当に?」と訊いた。
彼女が口を開き、閉じ、それから、ため息をついた。
「ヘリオ……信じたい。でも――」言葉を、切った。
「でも、何も見ていない」
「何も、見ていない」より優しい声で、認めた。「でも、それは、起こらなかったってことじゃない。もしかしたら……本当に何かをやったのに、私が見ていなかっただけ、かもしれない」
「かもね」繰り返した。
それとも、狂ってるか。
「挑戦し続けて」彼女は言った。「一度できたなら……」
「……もう一度、できる」彼女の文を引き取ったが、信じてはいなかった。
彼女は、僕の肩を短く握り、それから立ち去った。
そして僕は、そこに残された。一人で。
見た。
確信している。
……だよな?
その夜、部屋に戻った。
セバスチャンがベッドにいて、ろうそくの明かりで何かを読んでいた。
僕が入ってくるのを見た。「よう。今日は……興味深い一日だったらしいな」
「『興味深い』とは、よく言ったもんだ」ベッドに倒れ込んで言った。
「ルシアンはクソ野郎だ」
「知ってる」
「いや、本当にだ」彼が僕のほうを向いた。「正真正銘のクソ野郎。俺がお前なら――」
「お前は、僕じゃない」思ったより、鋭く言ってしまった。
沈黙。
「ごめん」付け加えた。「ただ……長い一日だったんだ」
セバスチャンが、うなずいた。「わかるよ」彼は本に戻った。それから、こちらを見もせずに、付け加えた。「役に立つかわからないけど……いちばん大事なことは、たいてい、誰も見ていないときに起こるもんだ」
彼を見た。「何?」
「なんでもない。安物の哲学さ」かすかに、微笑んだ。「もう寝ろ、ヘリオ」
寝返りを打って、ろうそくを消した。
そして僕は、暗闇の中に取り残された。手を、見つめながら。
見た。炎が、あった。本物だった。
でも、誰も信じない。
それに……もし、想像だったら?
今朝の、あの……幻視……のように。
白い部屋。光。老人。
「おめでとうございます、教授」
何ひとつ、リアルじゃなかった。
だったら……もしかしたら、炎も……
首を振った。
いや。いや。ストレスだ。教授も言っていた。ストレスと、睡眠不足。
それだけだ。
明日は、よくなる。
明日は、違う。
横になり、目を閉じた。
眠ろうとした。
でも、眠りは、なかなか訪れなかった。
そして、訪れたとき……
* * *
同じ、白い部屋。同じ、明るい光。
でも今度は、もっと見えた。
機械。果てしないトンネルへと延びる、巨大な金属の構造物。
管。配線。数字とグラフを映し出す画面。
声。
たくさんの、声。
あの奇妙な言語を、話していた。速く、流暢に。
「……衝突、成功……」
「……データ、確認……」
「……セクターでニュートリノ検出……」
ニュートリノ?
ニュートリノって、何だ?
歩いていた――いや、誰か別の人が、歩いていた――廊下を抜けて。
白衣の人々。みんなが、挨拶してくる。
「おはようございます、ドクター――」
名前は、聞き取れなかった。
ドア。開けた。
オフィス。小さい。紙で覆われた、机。
壁には、卒業証書。
理解できない文字。でも、その下に……
記号。
E = mc²
それだ。
その記号。
僕のノートにある。
僕が書いたのに、何を意味するのか知らない、あの記号。
そして今、それが、ここにある。
この……この幻視……この夢の中に。
もっと近くで、見た。
ほかの記号。方程式。図解。
そして――
壁に、鏡。
そちらへ、振り返った。
そして、見た……
顔。
僕のじゃない。
年上の。違う顔立ち。違う眼鏡。
でも、目は……
目は……
* * *
突然、目が覚めた。
汗だくだった。
胸の中で、心臓がハンマーのように打っていた。
部屋は、暗かった。静かだった。
ほかの面々は、眠っていた。
顔に、手を当てた。
震えていた。
何だったんだ?
いったい、何だった?
ストレスじゃない。
疲れでもない。
あまりにも……詳細だった。
あまりにも、リアルだった。
あの部屋。あの奇妙な器具。あの顔。
見たこともない顔を、どうやって夢に見る?
存在しない場所を、どうしてあれほど細部まで見られる?
それに、あの言語……
知りもしない言葉を、どうして理解できる?
立ち上がり、窓辺へ歩いた。
月が、満ちていた。アカデミーの中庭を、照らしている。
すべてが、普通に見えた。
穏やかで。
リアルで。
なのに、僕は……
僕は、リアルだと感じられなかった。
まるで……二人の人間でいるような、そんな感覚。
一人は、ここに。
もう一人は……どこか、別の場所に。
狂ってる、と思った。
そうに違いない。
なぜなら、そうでなければ……
そうでなければ、ありえないことになるからだ。
ベッドに、戻った。
でも、その夜はもう、眠らなかった。
ただ、起きていた。天井を、見つめながら。
自分が、誰なのかを問いながら。
そして、自分でそれを、本当にわかっているのかどうかを。




