チョークと剣
「もう十分よ」
本から顔を上げた。ヴィヴィアンが、腕を組んで、僕のテーブルの前に立っていた。
綺麗な、よそ行きのドレスを着ていた。
「何が十分なんだ?」
「ここに閉じこもってるのが、よ」彼女は窓を指差した。「日曜日。よく晴れてる。それなのに、あなたは朝からずっとここ」
「勉強してるんだ」
「沈み込んでるのよ」彼女が僕の手から本を奪い取った。「『元素理論の基礎』? ヘリオ、これもう三回読んでるでしょ」
「四回だ」僕は訂正した。「それに、何か見つかるかもしれ――」
「だめ」彼女は本をバタンと閉じた。「今日は外に出る。私と一緒に。議論の余地なし」
僕は彼女を見た。ヴィヴィアンは、あの決意に満ちた表情をしていた――この戦いに勝ち目はない、という意味の。
「でも――」
彼女が僕の腕を掴み、椅子から引っ張り上げた。
「おい!」
「『でも』はなし。来るの。今すぐ」
「ヴィヴィアン、せめて――」
「今!」
僕は文字どおり、図書館から引きずり出された。貸出カウンターで目録をつけていた父が、顔を上げて微笑んだ。それから、何も言わずに本へ戻った。
助けてくれてありがとう、父さん。
アッシュフォードの街は、毎週の日曜日と同じように、活気に満ちていた。屋台、散歩する家族、通りを駆け回る子供たち。
「ね?」ヴィヴィアンが言った。「世界は、本と失敗だけじゃないのよ」
「僕の失敗は、かなり安定した品質だけどな」僕は言った。
「やめてよ」彼女が肘でつついた。「あなたは魔法理論、クラスのトップでしょ。オールドウィン教授がいつも言ってる」
「理論なんて意味がない。実践できなきゃ――」
「ヘリオ。一度でいいから、今日だけでいいから、魔法のことを考えるのをやめて。ね?」
うなずいた。二人とも、そんなの無理だとわかっていたけれど。
僕たちは、あてもなく歩いた。ヴィヴィアンは、たわいないことを話した――天気のこと、新しくできたレストランのこと、寮に住みついた野良猫のこと。僕を、ほとんど……普通の人間みたいに思わせてくれる、そんな話を。
「あ、見て!」彼女が前方を指差した。「トーナメントよ」
広場が、闘技場に変わっていた。即席の観客席、拍手する群衆、木剣で対峙する二人の戦士。
「『学生剣術トーナメント』」僕は看板を読んだ。「『地域戦士学校 主催』」
「見ていく?」ヴィヴィアンが訊いた。
ほかに、することもなかった。
僕たちは近づいた。進行中の試合が、終わろうとしていた――がっしりした女の子が、見事な一撃で相手の武器を弾き飛ばした。群衆が拍手する。
「勝者、サラ・アイアンシールド! 決勝進出だ!」
「上手いわね」ヴィヴィアンが言った。
アナウンサーがリストを確かめた。「次の試合は――エリーゼ・ソーンウィック対マーカス・スティールハンド!」
心臓が跳ねた。
エリーゼ。
人影が、闘技場に入ってきた。軽装鎧をまとい、栗色の髪を結い上げ、実用的な剣を手にして。会うのは……いつ以来だろう? 四ヶ月? 五ヶ月?
彼女が構えた。
相手の――マーカス、がっしりした男の子――が、すぐさま突進した。
エリーゼが、横へ動いた。一歩。二歩。剣が閃いた。
マーカスが倒れた。剣が、宙を飛んだ。
五秒。
五秒で、勝った。
群衆が、拍手で沸き返った。
「待って」僕は言った。「お……終わったのか?」
「ええ」ヴィヴィアンが、感心したように言った。
「五秒で」
「ええ」
「マーカスは、彼女の倍はあるぞ」
「みたいね」
「それを今……叩きのめした」
「そのようね」
「勝者、エリーゼ・ソーンウィック! 決勝進出!」
エリーゼがヘルメットを外し、微笑んだ。群衆を見渡す。
僕を見つけた。
笑顔が、ぱっと広がった。
「ヘリオ!」
次の試合を呼ぶアナウンサーを完全に無視して、彼女は僕のほうへ駆けてきた。
「来てたのね! 思わなかった――」彼女が僕を抱きしめた。「元気? 手紙、書いたのに返事がなかったから!」
「僕は……手紙、受け取ってないよ」混乱して言った。
「途中でなくなったのかも。アカデミーはどう? お母さんが、魔法理論で優秀だって言ってたわ!」
ヴィヴィアンが、咳払いをした。
エリーゼが、動きを止めた。初めて、彼女の存在に気づいたのだ。それでも、僕の腕は離さなかった。
「あ。こんにちは」
「こんにちは」ヴィヴィアンが、あたりさわりのない口調で言った。やけに、あたりさわりのない。
「エリーゼ、こちらヴィヴィアン。クラスメートなんだ」僕は言った。
「クラスメート」ヴィヴィアンが、軽く強調して繰り返した。
「よろしくね」エリーゼは微笑んだが、僕の腕は離さなかった。
「こちらこそ」ヴィヴィアンが言った。
二人の少女が、一瞬、見つめ合った。
僕は、よそを向いた。急に、果物の屋台に興味が湧いたふりをして。
「こちらこそ」エリーゼが、ようやくそう言ったが、その目はすぐに僕へ戻ってきた。
「ヘリオ、久しぶり! 最後に会ったのは……何、国民祭だっけ?」
「だいたい、それくらいかな」
「背が伸びたわね。それに、まだその眼鏡」彼女が笑った。「変わらないものも、あるのね」
僕は彼女を見て、なんて美しく、優雅になったんだろうと思った。ほかのことは、めちゃくちゃに変わっていくのに……
ヴィヴィアンが、読み取れない表情で、そのやりとりを見ていた。
「元気?」エリーゼが、僕の顔をのぞき込んで訊いた。「疲れてるみたい」
「大丈夫だよ」
「勉強しすぎなのよ」ヴィヴィアンが口を挟んだ。「図書館から引きずり出さなきゃならなかったくらい」
「また本?」エリーゼが首を振った。「昔から、そうだった。子供の頃から」
ほかの試合が続くなか、僕たちは広場の端を歩いた。エリーゼが、訓練のこと、トーナメントのこと、自分の上達ぶりを、生き生きと話した。
「あなたは?」彼女が訊いた。「魔法のほうは、どう?」
僕は、ためらった。
「進歩してるわ」ヴィヴィアンが、すかさず言った。
エリーゼが、僕を見た。その"間"の意味を、彼女は知っていた。僕のことを、知りすぎるほど知っていたから。
「そう」彼女は、優しく言った。
噴水の前を通りかかった。すぐそばで、子供たちが遊び、笑っていた。何人かは、色とりどりのチョークで、石畳に絵を描いている。
エリーゼが、足を止めた。
「見て」彼女が微笑んだ。「私たちみたい」
「何が?」
「チョークよ。覚えてる?」彼女が僕を見た。「私の家で遊んでた頃。私たち……何歳だった? 四歳? 五歳?」
「僕は……たぶん?」
「お母さんがチョークをくれて、二人でホールの床に、何時間も絵を描いてた」彼女が笑った。「私はいつも、お花とお日さまを描いてた。あなたは……変なものを描いてたわね」
ヴィヴィアンが、僕たちを見ていた。黙ったまま。
「ミレイユ――家政婦さん――は、全部掃除しなきゃいけないから怒ってたっけ」エリーゼが続けた。「でも、楽しかった。いい時代だったわ」
僕は、子供たちを見た。一人は、城を描いている。別の子は、蝶を。
そして……
「ヘリオ、見て!」五歳の女の子が、彼の手にピンクのチョークを握らせた。「お絵描きしよう!」
四歳のヘリオは、恥ずかしそうにうなずいた。チョークを受け取り、ソーンウィック家の磨かれた大理石の床に座り込む。
ソーンウィック家のホールは、広大だった。彼の家よりも、ずっと大きい。高い窓から日の光が射し込み、白い床を輝かせていた。
エリーゼが、花を描いた。大きく、色とりどりで、花びらは歪み、お日さまは笑っている。
「素敵ね、エリーゼお嬢様!」通りすがりに、母親が言った。「あとでミレイユが掃除しますから、好きなだけ描いていいのよ!」
二人の子供は、チョークを手に、ホールじゅうに散らばった。
エリーゼは、歌いながら描いた。ヘリオは、もっと静かに、集中して。
「ヘリオ、あなたもお花を描いてよ!」
「僕、お花は上手くないよ」
「じゃあ、お家! か、竜!」
「わかった」
でも、ヘリオは家を描かなかった。
床の、何もない一画の前で、手を止めた。
白い大理石を、じっと見つめる。
何か……頭の中にある、何か……
それが何なのかは、わからなかった。ただの、もやもやとしたイメージ。感覚。
それでも、手が動いた。
白いチョーク。それから、青。それから、赤。
目は、遠くを見ていた。手が、ひとりでに動いていた。
「ヘリオ?」エリーゼが呼んだ。「何してるの?」
彼が、まばたきした。あの感覚が、消えた。
「え? あ、なんでもない。描いてるだけ」
エリーゼが近づいて、覗き込んだ。「変な絵! 何にも似てない!」
ヘリオは、自分が描いたものを見た。
奇妙な、走り書き。自分でも、わけがわからなかった。
「これ……怪物?」
「すっごく変な怪物!」エリーゼが笑った。「ねえ、兵隊さんごっこしよ!」
そして、駆け去っていった。床に、その絵を残して。
一時間後、ヘリオの両親が迎えに来た。
「エリーゼと遊ばせてくださって、ありがとうございます」ヘリオの母が、ソーンウィック家に礼を言った。
「とんでもない! いつも二人で楽しそうにしていますよ。離れられないお友達ですね」
「ヘリオ、帰る時間だぞ」父が呼んだ。
「もう?」子供が、ぐずった。
「すぐにまた会えるから。約束する」エリーゼが、彼を抱きしめて言った。
声が、遠ざかっていく。ドアが、閉まった。
静寂。
家政婦のミレイユが、バケツと雑巾を手に、口笛を吹きながらホールに入ってきた。
「さてと、今日は子供たちがどんなに散らかしたかしらね……」
床は、チョークの絵で覆われていた。
そこらじゅうに、花。お日さま。歪んだ犬。家。どれも、当たり前の絵。
ミレイユは、エリーゼのオレンジ色の花を、こすって消しはじめた。
「お嬢様、お上手になって」と呟く。「この花びらなんて、ほとんど――」
手が、止まった。
窓ぎわの隅に……何かがあった。
雑巾を手にしたまま、ゆっくりと近づく。
大理石の床に、不気味なほどの精度で、それは描かれていた。
Rμν - ½Rgμν + Λgμν = (8πG/c⁴)Tμν
ミレイユは、じっと見つめた。
奇妙な記号。見たこともない文字。何かの印だろうか? 上に、下に、小さな数字。これは……何?
走り書きには、見えなかった。
そこには、秩序があった。構造。精度。
でも、子供がこんなものを描くだろうか。
ましてや、四歳と五歳の子供が。
普通の文字さえ、書けないのに。
これは……
いったい、何?
バケツが手から滑り落ち、床に当たって音を立てた。
彼女は、その場に立ち尽くし、記号を見つめた。
ありえない。
これは……何? 偶然? 意味ありげに見えるだけの、でたらめな落書き?
でも、その配置は、あまりにも……あまりにも……
正確だった。
意図的だった。
まるで、自分が何を書いているのか、はっきりわかっている誰かが描いたかのように。
心臓が、胸の中で激しく打った。
一歩、後ずさった。
ドアを見た。まるで、子供たちが戻ってきて説明してくれるとでもいうように。
でも、二人は、もういなかった。
「いったい、何なの……」と囁いた。
震える手で、バケツを拾い上げる。
ためらった。
それから、雑巾を、滑らせた。
記号が、薄れていく。
一度。
二度。
三度。
消えた。
白く磨かれた、大理石。
まるで、初めから存在しなかったかのように。
ミレイユは、ホールを出た。
ドアを、閉めた。
誰にも、話さなかった。
(でも、その夜はよく眠れなかった。そしてその後何週間も、小さなヘリオを見るたびに、思うのだった――「あの記号は、いったい何だったの?」と)
「決勝戦を始めます。エリーゼ・ソーンウィック、ご準備を!」
僕は、まばたきした。
記憶が、消えた。
僕はまた、広場にいた。アナウンサーの声が、響いている。
ヴィヴィアンが、僕を見ていた。「ヘリオ? 大丈夫? なんだか……ぼんやりしてたわよ」
「僕は……ああ。ただ……思い出してただけ」
エリーゼは、もう闘技場へ走っていた。ふたたびヘルメットを被って。
そして僕たちに――僕に――振り返り、微笑んだ。
それから、対戦相手へ向き直った。サラ・アイアンシールド。さっきの、がっしりした女の子だ。
試合が、始まった。
そして僕は、そこに立ったまま、戦士になったあの女の子を見つめていた。
それにしても、本当に、綺麗だった。
一方の僕は……
まあ、僕は所詮、「ヌル」だったわけだけどな。




