王女と軍隊」
馬車は、馬鹿げているほど豪華だった。車輪には金。両側面には、王室の紋章。窓には、赤い絹のカーテン。完璧に手入れされた、四頭の白馬。気づかずにいることも、誰のものか分からずにいることも、不可能だった——彼女が、そう望んだとおりに。
その車内で、ソルマールのアドリアナ王女が、ベルベットのクッションに腰を沈め、銀の手鏡で金の髪を整えていた。完璧。いつものように。優雅な青いドレス、控えめだが値の張る宝飾、王族の物腰。
十六歳だった。そして、自分が美しいことを、知っていた。
「王女様」向かいの席から、侍女のマルタが口を開いた。「もしかすると——」
「尋ねないかぎり、口をきくな」アドリアナは、視線も上げずに言った。
「はい、王女様」
アドリアナは、鏡に微笑みかけた。二年間の、留学。ヴァルクレストの王立アカデミー。芸術、文学、外交を学び、数か国語を操り、貴族たちと交わり、称賛を浴びた。あるべき、姿で。
そしていま——帰郷する。首都へ。皆の目の前へ。喝采され、祝福されて。王女のお戻りだ! 完璧。
馬車が、揺れた。道が、荒れてきている。アドリアナは、外に目をやった。森。鬱蒼とした木々。狭い、道。
「あと、どれくらい?」
「二時間です、王女様」マルタが答えた。
「長すぎるわ」
クッションに、背を預けた。退屈そうに。
その外では、護衛隊長が——六騎の騎馬兵を率いて——張り詰めた面持ちで周囲をうかがっていた。
「気に入らんな」副官に、低く言う。
「私もです。孤立しすぎている」
「主要街道を進言したんだ。だが、王女が譲らなかった」
「日没に到着したい、とな。『凱旋の入城には、完璧な光だ』と」
隊長は、首を振った。「王女だろうとなんだろうと、この道は危険だ」
森を見た。静かすぎる。「警戒を怠るな。全員だ」
車内では、アドリアナがあくびをした。
「マルタ」
「はい、王女様?」
「到着したら、深紅のドレスの支度ができているか確かめて。金の刺繍が入ったほうよ」
「かしこまりました」
「それと、宝飾。母が誕生日にくれたもの」
「はい、王女様」
「それから——」
ドガッ!
馬車が、急停止した。アドリアナは、危うく席から転げ落ちかけた。
「何ごと——」
「襲撃だ!」隊長の声が、外で響いた。「防御陣形!」
剣の抜き放たれる音。馬のいななき。そして——悲鳴。
アドリアナは、凍りついた。心臓が、激しく打つ。「マルタ?」
侍女の顔は、青ざめていた。「王女様、お逃げに——」
ドガッ!
何かが、馬車を打った。激しく。二人とも、悲鳴をあげた。
「持ちこたえろ!」隊長が、外で叫ぶ。「馬車を守れ!」
金属のぶつかる音。苦痛の叫び。重いものが、倒れた。人の、体か。
アドリアナは、震えた。「マルタ……何が起きてるの?」
だが、マルタは答えなかった。窓を、見つめていた。一本の矢が、突き立っている。彼女の顔から、数センチのところに。
二人は、床にうずくまった。戦いの音は、続いていた。
外では、隊長が斬り結んでいた。剣対剣。略奪者は——少なくとも二十人——至るところにいた。武装し、統率されている。統率されすぎていた。
「ただの山賊じゃない!」副官が叫んだ。
「分かっている!」
すでに、二人の兵が地に伏していた。死んでいる。ほか三人が、負傷。勝てない。そして——
別の咆哮。人のものでは、ない。
隊長は、振り向いた。そして、見た——ああ、神々よ。
森から、生き物が現れた。馬車ほどの、巨体。獅子の胴。蝙蝠の翼。蠍の尾——長く、毒針を備えている。
マンティコア。ランクA。
「マンティコアだ!」隊長は叫んだ。「退け! 退くん——」
尾が、薙いだ。兵が一人、宙を飛び、木に叩きつけられた。二度と、立たなかった。
獣が、吠えた。そして、突進した。馬車へ向かって。
アドリアナは、その咆哮を聞いた。地が震えるのを、感じた。
「マルタ……」
「王女様、お逃げに——」
ガラガラッ!
馬車が、横転した。激しく。アドリアナとマルタは、転がった。壁にぶつかり、天井に、床に。痛み。混乱。
馬車が、止まった。横倒しのまま。暗い。煙。アドリアナは、咳き込んだ。
「マルタ? マルタ?!」
「ここ、です……王女様……」
二人とも、生きている。だが——閉じ込められた。
そして、外では——咆哮が、近づいてきた。
アドリアナは、目を閉じた。そして、生まれて初めて——祈った。
お願い。誰か。助けて。
同じ日——アドリアナが首都へと旅しているあいだ、ソルマール王宮では。
軍議の間。広大で、中央に巨大な地図、壁には軍旗、灯された松明。
アルドウス王が、上座に着いていた。頭に、王冠。厳しい、表情。その両脇に——
エレナ王妃。静かに。観察している。
マグナス・アイアンソウル。青ざめ、テーブルに手を置いて。空っぽの、手を。
そして、全身を鎧に固めた、二人の男。将軍たちだった。
マーセラス・ウォーブランド将軍。六十歳。灰色の髭。顔に、傷跡。歴戦の、厳しい目。北部戦争を戦い、ソーンゲート包囲戦を、東部領土の反乱を戦い抜いた。半世紀近い、奉職。生ける、伝説だった。
ダリアン・ブラックソーン将軍。四十五歳。黒髪。こけた顔。冷たく、計算高い目。傷跡は、一つもない——一度も、討たれたことがないからだ。戦術の、達人。戦略の。外科的な、排除の。始まる前に、三つの反乱を潰した男。冷酷。効率的。恐れられていた。
王が、口を開いた。「マグナス。包み隠さず、報告せよ」
マグナスは、深く息を吸った。「はい、陛下」間。「ヘリオ・ヴァロリン。十六歳。王立アカデミーの、ランク・ヌルの生徒」テーブルを見た。「あるいは……そう、思っていました」
「続けよ」
「三日前、アッシュフォードへ赴きました。彼を試すため。御命令どおりに」間。「私は……敗れました」
マーセラスが、眉を上げた。「敗れた。お前が。ランクSの、大魔法使いが」
「はい」
「十六の、小僧に」
「はい」
マーセラスが、身を乗り出した。「どうやって?」
マグナスは、目を閉じた。「あれは、公式を唱えるのです。長い。四十、五十語。いや、もっと」
ダリアンが、静かな声で言った。「弱点だな」
マグナスは、うなずいた。「はい。ですが……唱え終えれば……」間。「……あらゆる魔法を、無効化する。ありとあらゆる、魔法を」
沈黙。マーセラスが、短く、苦々しげに笑った。「ありえん」
マグナスは、外へ目をやった。控えの間のほうへ。ルシアンが、待っているほうへ。「陛下。御子息を、拝見しました」
王は、答えなかった。だが、その場の全員が、理解した。ルシアン——ランクAの、天才——いまや、壊れている。火花の一つも、起こせぬ身に。
マグナスは、続けた。「私は、ファイアボールを放ちました。ランクS。最大出力で」間。「跳ね返されました。まるで……何ごともなかったかのように」
「ファイアランスを、三度。空中で、掻き消えました」
「天の雷を。地へ、逸らされました」
空の手を、見た。「そして、複合攻撃を試みたとき……」声が、低くなる。「……私を、吹き飛ばしました。戦士もろとも。たった一動作で。拡張された、力場で」
重い、沈黙。ダリアンが、テーブルを指で叩いた。「興味深い」
マーセラスが、彼を見た。「興味深い、だと?」
「ああ」ダリアンが、身を乗り出す。「マグナス。その公式とやら、集中を要するのか?」
「……はい」
「動きは?」
「最小限に。静止していなければ、なりません」
「時間は?」
「三十……四十秒。長く唱えるほど、強力に」間。「ですが、あれは学習した」
マーセラスが、眉を上げる。「学習?」
マグナスが、うなずいた。「最初は、長い公式を、じかに唱えていました。詠唱のあいだ、無防備に」
「それから、悟ったのです——まず、障壁を。短いものを。十秒で」
「そして、守られているあいだに、長い公式を」
ダリアンは、思案した。「ならば、二段構えだ」
「第一波——矢。障壁に負荷をかけ、すり減らす」
「第二波——間髪入れぬ強襲。第一波で弱ったところを。回復の、暇を与えぬ」
「障壁が、持ちこたえたら?」
「続ける。三波。四波。五波」
マグナスを、見た。「マナを消耗する、と言ったな?」
「……はい。多くの公式を唱えれば。崩れ落ちます」
「ならば、消耗させる。数で、押しつぶす」
ダリアンは、うなずいた。「ならば、殺せる」
マグナスは、彼を見つめた。
「試したのか?」ダリアンが、訊いた。
マグナスは、答えなかった。
「では、死ぬかどうかは、分からんわけだ」
「……私の杖を、破壊したことは、存じております」空の手を、掲げて見せた。「九百年。五代。不朽の樫。大魔法使いアルデロンの、祝福を受けた」間。「折られました。小枝のように。じわじわと加えられる、圧力で」
マーセラスが、低く口笛を吹いた。「どう……折れた?」
「見ました。聞きました。木が、悲鳴をあげていた」ダリアンを見た。「そして、反撃に転じたとき……私は、死ぬと思いました」
「だが、死ななかった」王が、言った。
「あれが、止まったからです。あれの、選択で。私の、ではなく」
長い、沈黙。
ダリアンが、立ち上がった。地図へと歩く。「ならば、選択の余地を与えぬ」
指を、突きつけた。「二千。同心円。半径百メートル」指で、描いた。「外周に弓兵。四百。五度ごとに配置」「内側に剣士。千。密集した円陣」「中間に槍兵。三百」「突撃に備えた騎士。二百」「魔法使い。十。基本方位に。連携させる」
マグナスを、見た。「同時に、討つ。あらゆる方向から、矢を。公式を唱えているあいだに」
マーセラスも、立ち上がった。「で、生き延びたら?」
「即座の強襲。剣。槍。馬。息つく間も、休む間も与えぬ」マグナスを見た。「最大で、四十秒と言ったな?」
「はい」
「ならば、こちらには四十秒ある。四百本の矢。同時に。静止した、標的へ」間。「すべてをかわすのは、不可能だ」
マーセラスは、思案した。「堅実な計画だ。だが——」王を見た。「——位置の把握と、奇襲の要素が要る」
王が、うなずいた。「マグナスが、魔法使いを率いよ」
マグナスは、青ざめた。「私は……陛下……」
「不服か?」
「……いいえ、陛下」
だが、誰の目にも、明らかだった。彼は、恐れていた。
ダリアンが、続ける。「部隊の移動。秘匿は?」
「北部演習、と。国境守備の強化。横行する山賊への対応、ということに」
「よし。付随的標的の、一覧は?」
羊皮紙を、広げた。読み上げる。「ヴァロリン家。アルドリックと、セレステ。静かに、排除。事故に見せかけ——」
ドン、ドン、ドン!
扉が、勢いよく開け放たれた。使者。息を切らし、恐怖に満ちて。
「陛下!」
全員が、振り向いた。王が、立ち上がる。「何ごとだ——」
「アドリアナ王女が! 街道で、襲撃を受けました! マンティコア! 略奪者です!」
王が、青ざめた。「どこだ?!」
「分かりません! 最後の報告では——馬車は、破壊され——兵は、討たれ——」
王妃が、立ち上がった。口に、手を当てて。「アドリアナ……」
王が、号令を飛ばした。「動員だ! 動かせる兵を、すべて! 娘を、探し出せ!」
マーセラスとダリアンが、駆け出した。マグナスは、その場に残った。震えながら。
静寂は、慌ただしい動きへと弾けた。計画は、中断された。付随的標的は、忘れ去られた。最優先事項は、ただ一つ——王女を、救うこと。
三日前——王立アカデミー。
セラフィンの研究室。
「ヘリオ。お座りなさい」
彼は、腰を下ろした。セラフィンは、扉を閉めた。窓も。
「妙な噂を、耳にしたの。首都から」
「どんな噂?」
「マグナス・アイアンソウルが、戻った。三日前に」間。「壊れているそうよ。ルシアンのように」
ヘリオが、身を硬くした。「王は、知ってる?」
「王は、知っている」
沈黙。
「何が、起こるんですか?」
「分からない。でも……」ヘリオを見た。「……姿を消しなさい。数日。一週間」
「どこへ?」
「遠くへ。国境。山。とにかく、ここでない、どこかへ」
「来るんですか?」
「分からない。けれど、危険は冒さないほうがいい」
ヘリオは、うなずいた。「両親は?」
「私が、警告する。連れ出すわ。口実は、なんとでも」間。「行きなさい。いますぐ」
そして、いま——ミルヘヴンへの道。
ヘリオとエリーゼは、馬を進めていた。舗装されていない道。北へ。国境のほうへ。
「これで、確かなのか?」ヘリオが、訊いた。
「父に頼まれたの。前哨基地の視察。部隊の点検」間。「父が行きたがったけど、仕事が多すぎて。だから、私を寄越したわけ」
「護衛は?」
「あなたが、護衛よ」彼女は、微笑んだ。
ヘリオは、首を振った。「理想的な護衛とは、言えないな」
「私の知るかぎり、いちばん強力な魔法使いよ」
「ヌルだ」
「ヌル、だった」彼を見た。「いまは……何なのか、分からない。でも、強いってことは、分かる」
二人は、黙って馬を進めた。やがて、エリーゼが訊いた。「どうして、来る気になったの?」
ヘリオは、ためらった。「セラフィンが……休暇を、勧めてくれて」
「休暇。いま」
「うん」
エリーゼは、それ以上、何も訊かなかった。察したのだ。何かが、起きている。危険な、何かが。
「なら、一緒に来てよかった」
二人は、馬を進めた。時が、過ぎる。分かれ道に、着いた。左——軍の砦。右——ミルヘヴン。
「私は、あっちへ」エリーゼが、砦を指した。「どのくらい?」
「二時間。たぶん、三時間。司令官との会議があるの」
ヘリオが、うなずいた。「ここで、待つ?」
「いいえ。先に進んで。村があるわ。十キロ先に」指さした。「そこで、落ち合いましょう。今夜」
「大丈夫なのか?」
「砦は安全よ。兵が五十人。ギャレット司令官は、父の友人なの」間。「でも、あなたは……警戒して」
「いつもどおりに」
二人は、別れた。エリーゼは、左へ。ヘリオは、右へ。ミルヘヴンへ。人けのない道へ。運命へと。
ヘリオは、ひとり馬を進めていた。両側に、鬱蒼とした森。狭い道。静かすぎる。
妙だ。いつもなら、鳥。獣。何かしらの、気配。だが、ここは……何も、ない。
速度を落とし、耳を澄ました。そして——感じた。
キンッ。キンッ。キンッ。
金属が、金属を打つ音。悲鳴。戦闘だ。東へ、二百メートルほど。
ヘリオは、止まった。山賊か。兵か。何だ。僕の問題じゃない。先へ進もうとした。だが——
咆哮。続いて、女の悲鳴。恐怖に満ちた。絶望的な。
くそ。
馬を降り、繋ぐと、彼は走った。音のほうへ。森を、抜けて。
開けた場所に出て、彼は見た——横倒しの、馬車。豪奢な。王室の、紋章。兵たちが——三人は生き、三人は死んで——斬り結んでいた。略奪者を相手に。少なくとも、二十人。そして——ああ。あの、生き物。マンティコア。巨大な。
獣が、吠えた。尾が、薙ぐ。兵が、宙を飛ぶ。獣は、馬車へと突進した。
そこで——ヘリオは、聞いた。女の声。中に、閉じ込められている。
分かった。いいだろう。
息を吸い、彼は走った。戦いのほうへ。そして、唱え始めた。
「酸化圧勾配による方向性エネルギー伝播を伴う局所的熱分子加速を、指定された空間座標の標的へ——」
マンティコアが、突進する。馬車まで、十メートル。五メートル。
「——適用!」
マナが、爆ぜた。
ヒュオオオ!
ファイアボール。巨大ではない。だが、速く、正確に。マンティコアの、胸に直撃した。
ドオオオオン!
獣が、絶叫した。後方へ吹き飛び——三、四メートル——空き地の縁の木に、激突した。幹は軋んだが、持ちこたえた。マンティコアは、重く落ちた。その体は、煙を上げ、炭化していた。二度と、立たなかった。
沈黙。絶対の。兵も、略奪者も——全員が、見つめた。一体、何が——。
ヘリオは、略奪者へ向かって歩いた。「失せろ」
穏やかな、だが、脅すような声。略奪者たちが、顔を見合わせた。二十対一。悪くない、賭けだ。だが——彼らは、見ていた。マンティコアに、何が起きたかを。
一人が、逃げ出した。続いて、もう一人。やがて、全員が。十秒で——消えた。
残ったのは、兵たちと、ヘリオだけ。隊長が——傷つき、血を流しながら——彼を見つめた。「お前は……いったい、誰——」
ヘリオは、答えなかった。馬車へ歩み寄る。横倒しになり、扉は、塞がれている。「中に、誰かいるのか?」
女の声。震えている。「はい! 閉じ込められて——!」
ヘリオは、扉を掴んだ。引く。塞がれて、動かない。いいだろう。別の、公式を。
「局所的な圧力勾配を伴う、制御された体積膨張を——」
バキッ!
扉が、勢いよく開き、外れて落ちた。二つの人影が、よろめきながら出てきた。
一人目——侍女。二十歳ほど。引き裂かれたドレス。顔に、血。
二人目——少女。十六歳。金の髪。青い瞳。優雅だが、汚れたドレス。美しかった。恐怖に、強張っていてさえ。激しく、息をしている。
空き地から、数歩。マルタに、寄りかかって。新鮮な空気を、吸い込む。恐怖が、引きはじめた。
それから、彼女は見た——木々の合間、十メートル先——マンティコアの、炭化した亡骸。まだ、死骸から煙が立ちのぼっていた。
一撃で。
ヘリオを、見た。一撃で、あれを。
若い。自分と、同じ年ごろ。質素な服。鎧も、なし。だが、その目——落ち着いて。自信に満ちて。まるで、当たり前のことをしたかのように。
アドリアナは、息をのんだ。これは……物語の、英雄みたい。でも、あれは……作り話。これは……。
ヘリオを、見た。何者なの? 胸の奥で、何かが、動いた。
やめなさい。ただの……感謝よ。それだけ。
彼女は、立ち直った。背筋を、伸ばし。顎を、上げ。威厳ある、表情。
「あなた!」言った。尊大な声で。「魔法使い!」
ヘリオが、彼女を見た。「はい?」
「わたくしを、救った。よろしい。さあ、城まで、わたくしに従いなさい」
頼んだのでは、ない。命じたのだ。いつものように。誰に対しても、そうするように。
ヘリオは、彼女を見つめた。それから、言った。
「結構です」
沈黙。アドリアナは、まばたきした。何ですって? この男……断った?
「何ですって?」声に出して、繰り返した。
「いいえ、と言いました」彼女を見た。「では、これで」
踵を返し、歩きはじめた。森へ。馬へ、向かって。
アドリアナは、見つめた。口が、開いていた。去っていく。私を……無視している。
「お待ちなさい!」叫んだ。
ヘリオは、止まり、振り返った。「はい?」
隊長と兵たちが、見ていた。衝撃を受けて。侍女が、ささやいた。「王女様……おそらく——」
「お黙り!」アドリアナが、叫んだ。ヘリオを見る。「わたくしは、王女です! ソルマールの、アルドウス王の娘!」間。「あなたに、従うよう命じます!」
ヘリオは、首を傾けた。「どなたか、存じております」間。「おめでとうございます」間。「ですが、僕は、命令を受けません」
アドリアナの顔が、赤くなった。羞恥からでは、ない。怒りから。「そんなこと、許され——」
「許されます」穏やかだが、しっかりとした声。「そして、現に、しています」
兵の一人が——まだ立っている者が——剣を抜いた。「王女様の、御命令だ!」隊長が、言った。「これが、最後の警告だ!」
ヘリオは、彼らを見た。それから、略奪者の死体を指し。炭化したマンティコアを、指した。「本当に、彼らのように、なりたいか?」
兵は、ためらった。獣を見た。討たれた仲間を見た。ヘリオを、見た。穏やかで。脅してなど、いない。だが——危険だ。恐ろしく、危険だ。剣が、わずかに下がった。
アドリアナは、彼らがためらうのを、見た。恐れている。彼を。私を、ではなく。彼を。
ヘリオを、見た。感銘を受けた様子も、ない。脅されてもいない。……関心すら、ない。まるで、彼女が——王女が——王の娘が——未来の女王が——どうでもいい、かのように。
その感覚は——奇妙で。新しく。誰も、これまで……一度も……私を、無視したことなど。
そして、突然——必死に——彼に、気づいてほしくなった。見て、ほしくなった。王女としてでは、なく——彼女、として。
何を、考えているの? 彼女は、頭を振った。
ヘリオが、再び背を向けようとしていた。
「待って!」叫んだ。
彼は、止まった。
彼女は、深く息を吸った。そして、言った——生まれて、一度も口にしたことのない言葉を。
「お……お願い、します……」
侍女は、危うく気を失いかけた。兵は、完全に剣を下ろした。隊長は、見つめた。王女が……お願い、と言った?
アドリアナは、続けた。奇妙な、おぼつかない声で。「魔法使い、殿……」間。「……宮殿まで、護衛して、くださいませんか?」もう一つの、より困難な間。「感謝の、しるしを……お示ししたいのです」
絶対の、沈黙。木々を抜ける風だけが、聞こえていた。
ヘリオは、彼女を見た。本当に、見た。そして、見た——傲慢な王女ではなく。恐怖した、十六の少女を。そして——生まれて初めて——彼女は、命じるのではなく、頼んでいた。
彼は、わずかに微笑んだ。「そのほうが、いい」間。「分かりました」
アドリアナは、胸の奥に、何かを感じた。安堵? 感謝? それとも——別の、何か? 分からなかった。
馬車は、壊れていた。だが、馬は、生きていた。兵たちが、旅に耐える程度に、修理した。ゆっくりと、進む。アドリアナとマルタは、車内に座った。黙ったまま。ヘリオは、その傍らを、馬で進んだ。
時おり、アドリアナは外を見た。彼のほうを。本当に、何者なの? 紋章も、ない。アカデミーの徽章も。ただの……少年。だが、あの力……。
胸に、手を当てた。心臓が、まだ強く打っていた。やめなさい。ただの……感謝よ。それだけ。彼は、平民。わたくしは、王女。
それでも、見続けた。そして、そのたびに——彼は、彼女を見なかった。道を見ていた。警戒し、守るように。まるで……務め、のように。特権では、なく。
どうして、これが、こんなにも気にかかるの?
首都の郊外に、着いた。日没。金色の、光。完璧。アドリアナが、思い描いたとおりに。
人々が、気づきはじめた。「王女様だ!」「アドリアナ様が、お戻りに!」「王女様!」
群衆が、できた。馬車に、付き従って。喝采し、手を振って。アドリアナは——本能的に——立ち直った。背筋を伸ばし、王族の微笑みを浮かべ、窓から手を振る。そう。これ。これが、正しい。あるべき、姿。
ヘリオを、見た。彼の姿も、見えていた。傍らを、馬で進んでいる。群衆が、彼に気づいた。「誰だ?」「魔法使いか?」「王女様を、護衛してきたのか?」「相当の、大物に違いない!」
アドリアナは……何を、感じた? 誇り? 彼が、私と一緒にいる。皆が、見ている。彼が。私と。微笑みが、広がった。
宮殿が、姿を現した。巨大な。高い城壁。塔。旗。そして、その前に——なに、これは……。
何千もの、兵士。陣形を組んで。完璧に。列の、また列。弓兵。剣士。騎士。そして、中央に——アルドウス王。王冠。マント。傍らに、エレナ王妃。そしてその後ろに——マグナス・アイアンソウル。二人の将軍。顧問たち。
これが全部……私のために? アドリアナは、微笑んだ。当然よ。ふさわしい、出迎えだわ。
馬車が、門をくぐった。広場へ。王が、待つほうへ。ヘリオは、馬を進めながら、兵を見ていた。多い。多すぎる。なぜ、こんなに? 行進か? 儀式か? ……妙だ。だが、何も言わなかった。
馬車が、止まった。王の、前で。アドリアナが、降りた。汚れたドレス。乱れた髪。だが、完璧な微笑みで。
「お父様!」
王のもとへ、駆け寄る。王は、娘を抱きしめた。顔に、安堵を浮かべて。「アドリアナ。神々に、感謝を」
「無事です、お父様。それも、おかげで——」彼女は、振り返り、ヘリオを指した。馬を降りていた。「——この、若い魔法使いの!」
高く、はっきりとした声。皆が、聞いた。兵も。群衆も。全員が。「わたくしの、命を救ってくれたのです!」間。「ふさわしい褒美を、与えねばなりません!」
王妃が——優雅に、外交的に——微笑んだ。「もちろんですとも、娘や!」
全員の視線が、王に集まった。王は、ヘリオを見つめていた。少年。十六歳。質素な服。穏やかな、表情。彼。ヘリオ・ヴァロリン。ここに。いま。娘とともに。何千もの、目の前で。全員の、前で。
マグナスは——王の背後で——青ざめ、震えていた。将軍たちが、見つめた。
マーセラスが、ささやいた。「あれが、奴か?」
ダリアンが、かすかにうなずいた。「ああ」
「どうやって……」
「分からん」
王は、アドリアナを見た。輝いて。幸せそうに。感謝に満ちて。ヘリオを見た。穏やかで。何も、気づいていない。群衆を見た。何千もの、証人。兵を見た。二千。準備は、整っている。だが——できぬ。こうしては。
アドリアナを救った、直後では。皆の、目の前では。いまここで、奴を殺せば……王国が、崩れる。民が、反乱を起こす。貴族が、私を見捨てる。私は……追い詰められた。
王妃を、見た。彼女は、彼を見ていた。かすかに、首を振る。危険に、見合わない。娘のため、では、なく。
王は、息を吸った。分かった。掌中に、収めておく。頃合いを、待つ。人目から、離れて。アドリアナから、離れて。そして……冷たく、微笑んだ。……討つ。
アドリアナが、待っていた。「お父様? 褒美は?」
長く、重い沈黙。それから——アルドウス王が、微笑んだ。強張った笑み。だが、確かに。「もちろんだ」
ヘリオに、歩み寄った。「娘を、救ってくれた。王国は、感謝している」間。アドリアナを見て、ヘリオを見て、群衆を見た。そして、悟った——選択の、余地はない。
「今宵。宴を。そなたの名誉を讃えて」
「滅相も、ありません、陛下——」
「是非にも」しっかりとした声。招待ではない。命令だった。「賓客として、留まるがよい。この宮殿に」
マグナスを、見た。監視せよ。ぬかりなく。マグナスは、かすかにうなずいた。
ヘリオは、ためらった。何かが……おかしい。罠だ。明らかに、罠だ。セラフィンは、姿を消せと言った。なのに、僕は、王の宮殿に、足を踏み入れようとしている?
周りを、見た。二千の兵。少なく見積もっても。膨大な、群衆。証人たち。断れば……どうなる? 「なぜ、王室の歓待を、断る?」「何を、隠している?」そして、兵は……至るところにいる。逃げる? 不可能だ。
アドリアナを、見た。微笑んでいる。幸せそうに。無邪気に。彼女は、知らない。名誉だと、思っている。その彼女の前で、断れば……。
喉が、渇いた。どちらにしても、詰んでいる。せめて、宮殿の中でなら……何を企んでいるか、見定められる。
『リキ、何か知恵は?』
——一つだけだ——内なる声が、答えた。——生き延びろ——
「ありがとうございます、陛下」
王が、手を打ち鳴らした。「護衛。我らの賓客を、客間へ案内せよ」
兵が、近づいた。礼儀正しく。だが、確かに、そこにいた。大勢で。ヘリオは、宮殿の中へと導かれていった。群衆が、喝采する。アドリアナが、手を振る。そして、王が、見ていた。
殺せはせぬ。まだ。だが、お前は、私の家にいる。私の、掌中に。そして、遅かれ早かれ……方法を、見つける。
マグナスが、歩み寄り、ささやいた。「陛下……いかが、なさいます?」
王は、微笑んだ。冷たく。「待つ。見極める。策を練る」間。「そして、頃合いがきたら……」
「……討つ」




