表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
四つの基本的な力の魔法使い ー 物理学者から魔法使いへ、状態変化を経て  作者: Adriano_P


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

29/150

王女と軍隊」

馬車は、馬鹿げているほど豪華だった。車輪には金。両側面には、王室の紋章。窓には、赤い絹のカーテン。完璧に手入れされた、四頭の白馬。気づかずにいることも、誰のものか分からずにいることも、不可能だった——彼女が、そう望んだとおりに。


その車内で、ソルマールのアドリアナ王女が、ベルベットのクッションに腰を沈め、銀の手鏡で金の髪を整えていた。完璧。いつものように。優雅な青いドレス、控えめだが値の張る宝飾、王族の物腰。


十六歳だった。そして、自分が美しいことを、知っていた。


「王女様」向かいの席から、侍女のマルタが口を開いた。「もしかすると——」


「尋ねないかぎり、口をきくな」アドリアナは、視線も上げずに言った。


「はい、王女様」


アドリアナは、鏡に微笑みかけた。二年間の、留学。ヴァルクレストの王立アカデミー。芸術、文学、外交を学び、数か国語を操り、貴族たちと交わり、称賛を浴びた。あるべき、姿で。


そしていま——帰郷する。首都へ。皆の目の前へ。喝采され、祝福されて。王女のお戻りだ! 完璧。


馬車が、揺れた。道が、荒れてきている。アドリアナは、外に目をやった。森。鬱蒼とした木々。狭い、道。


「あと、どれくらい?」


「二時間です、王女様」マルタが答えた。


「長すぎるわ」


クッションに、背を預けた。退屈そうに。


その外では、護衛隊長が——六騎の騎馬兵を率いて——張り詰めた面持ちで周囲をうかがっていた。


「気に入らんな」副官に、低く言う。


「私もです。孤立しすぎている」


「主要街道を進言したんだ。だが、王女が譲らなかった」


「日没に到着したい、とな。『凱旋の入城には、完璧な光だ』と」


隊長は、首を振った。「王女だろうとなんだろうと、この道は危険だ」


森を見た。静かすぎる。「警戒を怠るな。全員だ」


車内では、アドリアナがあくびをした。


「マルタ」


「はい、王女様?」


「到着したら、深紅のドレスの支度ができているか確かめて。金の刺繍が入ったほうよ」


「かしこまりました」


「それと、宝飾。母が誕生日にくれたもの」


「はい、王女様」


「それから——」


ドガッ!


馬車が、急停止した。アドリアナは、危うく席から転げ落ちかけた。


「何ごと——」


「襲撃だ!」隊長の声が、外で響いた。「防御陣形!」


剣の抜き放たれる音。馬のいななき。そして——悲鳴。


アドリアナは、凍りついた。心臓が、激しく打つ。「マルタ?」


侍女の顔は、青ざめていた。「王女様、お逃げに——」


ドガッ!


何かが、馬車を打った。激しく。二人とも、悲鳴をあげた。


「持ちこたえろ!」隊長が、外で叫ぶ。「馬車を守れ!」


金属のぶつかる音。苦痛の叫び。重いものが、倒れた。人の、体か。


アドリアナは、震えた。「マルタ……何が起きてるの?」


だが、マルタは答えなかった。窓を、見つめていた。一本の矢が、突き立っている。彼女の顔から、数センチのところに。


二人は、床にうずくまった。戦いの音は、続いていた。


外では、隊長が斬り結んでいた。剣対剣。略奪者は——少なくとも二十人——至るところにいた。武装し、統率されている。統率されすぎていた。


「ただの山賊じゃない!」副官が叫んだ。


「分かっている!」


すでに、二人の兵が地に伏していた。死んでいる。ほか三人が、負傷。勝てない。そして——


別の咆哮。人のものでは、ない。


隊長は、振り向いた。そして、見た——ああ、神々よ。


森から、生き物が現れた。馬車ほどの、巨体。獅子の胴。蝙蝠の翼。蠍の尾——長く、毒針を備えている。


マンティコア。ランクA。


「マンティコアだ!」隊長は叫んだ。「退け! 退くん——」


尾が、薙いだ。兵が一人、宙を飛び、木に叩きつけられた。二度と、立たなかった。


獣が、吠えた。そして、突進した。馬車へ向かって。


アドリアナは、その咆哮を聞いた。地が震えるのを、感じた。


「マルタ……」


「王女様、お逃げに——」


ガラガラッ!


馬車が、横転した。激しく。アドリアナとマルタは、転がった。壁にぶつかり、天井に、床に。痛み。混乱。


馬車が、止まった。横倒しのまま。暗い。煙。アドリアナは、咳き込んだ。


「マルタ? マルタ?!」


「ここ、です……王女様……」


二人とも、生きている。だが——閉じ込められた。


そして、外では——咆哮が、近づいてきた。


アドリアナは、目を閉じた。そして、生まれて初めて——祈った。


お願い。誰か。助けて。



同じ日——アドリアナが首都へと旅しているあいだ、ソルマール王宮では。


軍議の間。広大で、中央に巨大な地図、壁には軍旗、灯された松明。


アルドウス王が、上座に着いていた。頭に、王冠。厳しい、表情。その両脇に——


エレナ王妃。静かに。観察している。


マグナス・アイアンソウル。青ざめ、テーブルに手を置いて。空っぽの、手を。


そして、全身を鎧に固めた、二人の男。将軍たちだった。


マーセラス・ウォーブランド将軍。六十歳。灰色の髭。顔に、傷跡。歴戦の、厳しい目。北部戦争を戦い、ソーンゲート包囲戦を、東部領土の反乱を戦い抜いた。半世紀近い、奉職。生ける、伝説だった。


ダリアン・ブラックソーン将軍。四十五歳。黒髪。こけた顔。冷たく、計算高い目。傷跡は、一つもない——一度も、討たれたことがないからだ。戦術の、達人。戦略の。外科的な、排除の。始まる前に、三つの反乱を潰した男。冷酷。効率的。恐れられていた。


王が、口を開いた。「マグナス。包み隠さず、報告せよ」


マグナスは、深く息を吸った。「はい、陛下」間。「ヘリオ・ヴァロリン。十六歳。王立アカデミーの、ランク・ヌルの生徒」テーブルを見た。「あるいは……そう、思っていました」


「続けよ」


「三日前、アッシュフォードへ赴きました。彼を試すため。御命令どおりに」間。「私は……敗れました」


マーセラスが、眉を上げた。「敗れた。お前が。ランクSの、大魔法使いが」


「はい」


「十六の、小僧に」


「はい」


マーセラスが、身を乗り出した。「どうやって?」


マグナスは、目を閉じた。「あれは、公式を唱えるのです。長い。四十、五十語。いや、もっと」


ダリアンが、静かな声で言った。「弱点だな」


マグナスは、うなずいた。「はい。ですが……唱え終えれば……」間。「……あらゆる魔法を、無効化する。ありとあらゆる、魔法を」


沈黙。マーセラスが、短く、苦々しげに笑った。「ありえん」


マグナスは、外へ目をやった。控えの間のほうへ。ルシアンが、待っているほうへ。「陛下。御子息を、拝見しました」


王は、答えなかった。だが、その場の全員が、理解した。ルシアン——ランクAの、天才——いまや、壊れている。火花の一つも、起こせぬ身に。


マグナスは、続けた。「私は、ファイアボールを放ちました。ランクS。最大出力で」間。「跳ね返されました。まるで……何ごともなかったかのように」


「ファイアランスを、三度。空中で、掻き消えました」


「天の雷を。地へ、逸らされました」


空の手を、見た。「そして、複合攻撃を試みたとき……」声が、低くなる。「……私を、吹き飛ばしました。戦士もろとも。たった一動作で。拡張された、力場で」


重い、沈黙。ダリアンが、テーブルを指で叩いた。「興味深い」


マーセラスが、彼を見た。「興味深い、だと?」


「ああ」ダリアンが、身を乗り出す。「マグナス。その公式とやら、集中を要するのか?」


「……はい」


「動きは?」


「最小限に。静止していなければ、なりません」


「時間は?」


「三十……四十秒。長く唱えるほど、強力に」間。「ですが、あれは学習した」


マーセラスが、眉を上げる。「学習?」


マグナスが、うなずいた。「最初は、長い公式を、じかに唱えていました。詠唱のあいだ、無防備に」


「それから、悟ったのです——まず、障壁を。短いものを。十秒で」


「そして、守られているあいだに、長い公式を」


ダリアンは、思案した。「ならば、二段構えだ」


「第一波——矢。障壁に負荷をかけ、すり減らす」


「第二波——間髪入れぬ強襲。第一波で弱ったところを。回復の、暇を与えぬ」


「障壁が、持ちこたえたら?」


「続ける。三波。四波。五波」


マグナスを、見た。「マナを消耗する、と言ったな?」


「……はい。多くの公式を唱えれば。崩れ落ちます」


「ならば、消耗させる。数で、押しつぶす」


ダリアンは、うなずいた。「ならば、殺せる」


マグナスは、彼を見つめた。


「試したのか?」ダリアンが、訊いた。


マグナスは、答えなかった。


「では、死ぬかどうかは、分からんわけだ」


「……私の杖を、破壊したことは、存じております」空の手を、掲げて見せた。「九百年。五代。不朽の樫。大魔法使いアルデロンの、祝福を受けた」間。「折られました。小枝のように。じわじわと加えられる、圧力で」


マーセラスが、低く口笛を吹いた。「どう……折れた?」


「見ました。聞きました。木が、悲鳴をあげていた」ダリアンを見た。「そして、反撃に転じたとき……私は、死ぬと思いました」


「だが、死ななかった」王が、言った。


「あれが、止まったからです。あれの、選択で。私の、ではなく」


長い、沈黙。


ダリアンが、立ち上がった。地図へと歩く。「ならば、選択の余地を与えぬ」


指を、突きつけた。「二千。同心円。半径百メートル」指で、描いた。「外周に弓兵。四百。五度ごとに配置」「内側に剣士。千。密集した円陣」「中間に槍兵。三百」「突撃に備えた騎士。二百」「魔法使い。十。基本方位に。連携させる」


マグナスを、見た。「同時に、討つ。あらゆる方向から、矢を。公式を唱えているあいだに」


マーセラスも、立ち上がった。「で、生き延びたら?」


「即座の強襲。剣。槍。馬。息つく間も、休む間も与えぬ」マグナスを見た。「最大で、四十秒と言ったな?」


「はい」


「ならば、こちらには四十秒ある。四百本の矢。同時に。静止した、標的へ」間。「すべてをかわすのは、不可能だ」


マーセラスは、思案した。「堅実な計画だ。だが——」王を見た。「——位置の把握と、奇襲の要素が要る」


王が、うなずいた。「マグナスが、魔法使いを率いよ」


マグナスは、青ざめた。「私は……陛下……」


「不服か?」


「……いいえ、陛下」


だが、誰の目にも、明らかだった。彼は、恐れていた。


ダリアンが、続ける。「部隊の移動。秘匿は?」


「北部演習、と。国境守備の強化。横行する山賊への対応、ということに」


「よし。付随的標的の、一覧は?」


羊皮紙を、広げた。読み上げる。「ヴァロリン家。アルドリックと、セレステ。静かに、排除。事故に見せかけ——」


ドン、ドン、ドン!


扉が、勢いよく開け放たれた。使者。息を切らし、恐怖に満ちて。


「陛下!」


全員が、振り向いた。王が、立ち上がる。「何ごとだ——」


「アドリアナ王女が! 街道で、襲撃を受けました! マンティコア! 略奪者です!」


王が、青ざめた。「どこだ?!」


「分かりません! 最後の報告では——馬車は、破壊され——兵は、討たれ——」


王妃が、立ち上がった。口に、手を当てて。「アドリアナ……」


王が、号令を飛ばした。「動員だ! 動かせる兵を、すべて! 娘を、探し出せ!」


マーセラスとダリアンが、駆け出した。マグナスは、その場に残った。震えながら。


静寂は、慌ただしい動きへと弾けた。計画は、中断された。付随的標的は、忘れ去られた。最優先事項は、ただ一つ——王女を、救うこと。



三日前——王立アカデミー。


セラフィンの研究室。


「ヘリオ。お座りなさい」


彼は、腰を下ろした。セラフィンは、扉を閉めた。窓も。


「妙な噂を、耳にしたの。首都から」


「どんな噂?」


「マグナス・アイアンソウルが、戻った。三日前に」間。「壊れているそうよ。ルシアンのように」


ヘリオが、身を硬くした。「王は、知ってる?」


「王は、知っている」


沈黙。


「何が、起こるんですか?」


「分からない。でも……」ヘリオを見た。「……姿を消しなさい。数日。一週間」


「どこへ?」


「遠くへ。国境。山。とにかく、ここでない、どこかへ」


「来るんですか?」


「分からない。けれど、危険は冒さないほうがいい」


ヘリオは、うなずいた。「両親は?」


「私が、警告する。連れ出すわ。口実は、なんとでも」間。「行きなさい。いますぐ」



そして、いま——ミルヘヴンへの道。


ヘリオとエリーゼは、馬を進めていた。舗装されていない道。北へ。国境のほうへ。


「これで、確かなのか?」ヘリオが、訊いた。


「父に頼まれたの。前哨基地の視察。部隊の点検」間。「父が行きたがったけど、仕事が多すぎて。だから、私を寄越したわけ」


「護衛は?」


「あなたが、護衛よ」彼女は、微笑んだ。


ヘリオは、首を振った。「理想的な護衛とは、言えないな」


「私の知るかぎり、いちばん強力な魔法使いよ」


「ヌルだ」


「ヌル、だった」彼を見た。「いまは……何なのか、分からない。でも、強いってことは、分かる」


二人は、黙って馬を進めた。やがて、エリーゼが訊いた。「どうして、来る気になったの?」


ヘリオは、ためらった。「セラフィンが……休暇を、勧めてくれて」


「休暇。いま」


「うん」


エリーゼは、それ以上、何も訊かなかった。察したのだ。何かが、起きている。危険な、何かが。


「なら、一緒に来てよかった」


二人は、馬を進めた。時が、過ぎる。分かれ道に、着いた。左——軍の砦。右——ミルヘヴン。


「私は、あっちへ」エリーゼが、砦を指した。「どのくらい?」


「二時間。たぶん、三時間。司令官との会議があるの」


ヘリオが、うなずいた。「ここで、待つ?」


「いいえ。先に進んで。村があるわ。十キロ先に」指さした。「そこで、落ち合いましょう。今夜」


「大丈夫なのか?」


「砦は安全よ。兵が五十人。ギャレット司令官は、父の友人なの」間。「でも、あなたは……警戒して」


「いつもどおりに」


二人は、別れた。エリーゼは、左へ。ヘリオは、右へ。ミルヘヴンへ。人けのない道へ。運命へと。


ヘリオは、ひとり馬を進めていた。両側に、鬱蒼とした森。狭い道。静かすぎる。


妙だ。いつもなら、鳥。獣。何かしらの、気配。だが、ここは……何も、ない。


速度を落とし、耳を澄ました。そして——感じた。


キンッ。キンッ。キンッ。


金属が、金属を打つ音。悲鳴。戦闘だ。東へ、二百メートルほど。


ヘリオは、止まった。山賊か。兵か。何だ。僕の問題じゃない。先へ進もうとした。だが——


咆哮。続いて、女の悲鳴。恐怖に満ちた。絶望的な。


くそ。


馬を降り、繋ぐと、彼は走った。音のほうへ。森を、抜けて。


開けた場所に出て、彼は見た——横倒しの、馬車。豪奢な。王室の、紋章。兵たちが——三人は生き、三人は死んで——斬り結んでいた。略奪者を相手に。少なくとも、二十人。そして——ああ。あの、生き物。マンティコア。巨大な。


獣が、吠えた。尾が、薙ぐ。兵が、宙を飛ぶ。獣は、馬車へと突進した。


そこで——ヘリオは、聞いた。女の声。中に、閉じ込められている。


分かった。いいだろう。


息を吸い、彼は走った。戦いのほうへ。そして、唱え始めた。


「酸化圧勾配による方向性エネルギー伝播を伴う局所的熱分子加速を、指定された空間座標の標的へ——」


マンティコアが、突進する。馬車まで、十メートル。五メートル。


「——適用!」


マナが、爆ぜた。


ヒュオオオ!


ファイアボール。巨大ではない。だが、速く、正確に。マンティコアの、胸に直撃した。


ドオオオオン!


獣が、絶叫した。後方へ吹き飛び——三、四メートル——空き地の縁の木に、激突した。幹は軋んだが、持ちこたえた。マンティコアは、重く落ちた。その体は、煙を上げ、炭化していた。二度と、立たなかった。


沈黙。絶対の。兵も、略奪者も——全員が、見つめた。一体、何が——。


ヘリオは、略奪者へ向かって歩いた。「失せろ」


穏やかな、だが、脅すような声。略奪者たちが、顔を見合わせた。二十対一。悪くない、賭けだ。だが——彼らは、見ていた。マンティコアに、何が起きたかを。


一人が、逃げ出した。続いて、もう一人。やがて、全員が。十秒で——消えた。


残ったのは、兵たちと、ヘリオだけ。隊長が——傷つき、血を流しながら——彼を見つめた。「お前は……いったい、誰——」


ヘリオは、答えなかった。馬車へ歩み寄る。横倒しになり、扉は、塞がれている。「中に、誰かいるのか?」


女の声。震えている。「はい! 閉じ込められて——!」


ヘリオは、扉を掴んだ。引く。塞がれて、動かない。いいだろう。別の、公式を。


「局所的な圧力勾配を伴う、制御された体積膨張を——」


バキッ!


扉が、勢いよく開き、外れて落ちた。二つの人影が、よろめきながら出てきた。


一人目——侍女。二十歳ほど。引き裂かれたドレス。顔に、血。


二人目——少女。十六歳。金の髪。青い瞳。優雅だが、汚れたドレス。美しかった。恐怖に、強張っていてさえ。激しく、息をしている。


空き地から、数歩。マルタに、寄りかかって。新鮮な空気を、吸い込む。恐怖が、引きはじめた。


それから、彼女は見た——木々の合間、十メートル先——マンティコアの、炭化した亡骸。まだ、死骸から煙が立ちのぼっていた。


一撃で。


ヘリオを、見た。一撃で、あれを。


若い。自分と、同じ年ごろ。質素な服。鎧も、なし。だが、その目——落ち着いて。自信に満ちて。まるで、当たり前のことをしたかのように。


アドリアナは、息をのんだ。これは……物語の、英雄みたい。でも、あれは……作り話。これは……。


ヘリオを、見た。何者なの? 胸の奥で、何かが、動いた。


やめなさい。ただの……感謝よ。それだけ。


彼女は、立ち直った。背筋を、伸ばし。顎を、上げ。威厳ある、表情。


「あなた!」言った。尊大な声で。「魔法使い!」


ヘリオが、彼女を見た。「はい?」


「わたくしを、救った。よろしい。さあ、城まで、わたくしに従いなさい」


頼んだのでは、ない。命じたのだ。いつものように。誰に対しても、そうするように。


ヘリオは、彼女を見つめた。それから、言った。


「結構です」


沈黙。アドリアナは、まばたきした。何ですって? この男……断った?


「何ですって?」声に出して、繰り返した。


「いいえ、と言いました」彼女を見た。「では、これで」


踵を返し、歩きはじめた。森へ。馬へ、向かって。


アドリアナは、見つめた。口が、開いていた。去っていく。私を……無視している。


「お待ちなさい!」叫んだ。


ヘリオは、止まり、振り返った。「はい?」


隊長と兵たちが、見ていた。衝撃を受けて。侍女が、ささやいた。「王女様……おそらく——」


「お黙り!」アドリアナが、叫んだ。ヘリオを見る。「わたくしは、王女です! ソルマールの、アルドウス王の娘!」間。「あなたに、従うよう命じます!」


ヘリオは、首を傾けた。「どなたか、存じております」間。「おめでとうございます」間。「ですが、僕は、命令を受けません」


アドリアナの顔が、赤くなった。羞恥からでは、ない。怒りから。「そんなこと、許され——」


「許されます」穏やかだが、しっかりとした声。「そして、現に、しています」


兵の一人が——まだ立っている者が——剣を抜いた。「王女様の、御命令だ!」隊長が、言った。「これが、最後の警告だ!」


ヘリオは、彼らを見た。それから、略奪者の死体を指し。炭化したマンティコアを、指した。「本当に、彼らのように、なりたいか?」


兵は、ためらった。獣を見た。討たれた仲間を見た。ヘリオを、見た。穏やかで。脅してなど、いない。だが——危険だ。恐ろしく、危険だ。剣が、わずかに下がった。


アドリアナは、彼らがためらうのを、見た。恐れている。彼を。私を、ではなく。彼を。


ヘリオを、見た。感銘を受けた様子も、ない。脅されてもいない。……関心すら、ない。まるで、彼女が——王女が——王の娘が——未来の女王が——どうでもいい、かのように。


その感覚は——奇妙で。新しく。誰も、これまで……一度も……私を、無視したことなど。


そして、突然——必死に——彼に、気づいてほしくなった。見て、ほしくなった。王女としてでは、なく——彼女、として。


何を、考えているの? 彼女は、頭を振った。


ヘリオが、再び背を向けようとしていた。


「待って!」叫んだ。


彼は、止まった。


彼女は、深く息を吸った。そして、言った——生まれて、一度も口にしたことのない言葉を。


「お……お願い、します……」


侍女は、危うく気を失いかけた。兵は、完全に剣を下ろした。隊長は、見つめた。王女が……お願い、と言った?


アドリアナは、続けた。奇妙な、おぼつかない声で。「魔法使い、殿……」間。「……宮殿まで、護衛して、くださいませんか?」もう一つの、より困難な間。「感謝の、しるしを……お示ししたいのです」


絶対の、沈黙。木々を抜ける風だけが、聞こえていた。


ヘリオは、彼女を見た。本当に、見た。そして、見た——傲慢な王女ではなく。恐怖した、十六の少女を。そして——生まれて初めて——彼女は、命じるのではなく、頼んでいた。


彼は、わずかに微笑んだ。「そのほうが、いい」間。「分かりました」


アドリアナは、胸の奥に、何かを感じた。安堵? 感謝? それとも——別の、何か? 分からなかった。



馬車は、壊れていた。だが、馬は、生きていた。兵たちが、旅に耐える程度に、修理した。ゆっくりと、進む。アドリアナとマルタは、車内に座った。黙ったまま。ヘリオは、その傍らを、馬で進んだ。


時おり、アドリアナは外を見た。彼のほうを。本当に、何者なの? 紋章も、ない。アカデミーの徽章も。ただの……少年。だが、あの力……。


胸に、手を当てた。心臓が、まだ強く打っていた。やめなさい。ただの……感謝よ。それだけ。彼は、平民。わたくしは、王女。


それでも、見続けた。そして、そのたびに——彼は、彼女を見なかった。道を見ていた。警戒し、守るように。まるで……務め、のように。特権では、なく。


どうして、これが、こんなにも気にかかるの?


首都の郊外に、着いた。日没。金色の、光。完璧。アドリアナが、思い描いたとおりに。


人々が、気づきはじめた。「王女様だ!」「アドリアナ様が、お戻りに!」「王女様!」


群衆が、できた。馬車に、付き従って。喝采し、手を振って。アドリアナは——本能的に——立ち直った。背筋を伸ばし、王族の微笑みを浮かべ、窓から手を振る。そう。これ。これが、正しい。あるべき、姿。


ヘリオを、見た。彼の姿も、見えていた。傍らを、馬で進んでいる。群衆が、彼に気づいた。「誰だ?」「魔法使いか?」「王女様を、護衛してきたのか?」「相当の、大物に違いない!」


アドリアナは……何を、感じた? 誇り? 彼が、私と一緒にいる。皆が、見ている。彼が。私と。微笑みが、広がった。


宮殿が、姿を現した。巨大な。高い城壁。塔。旗。そして、その前に——なに、これは……。


何千もの、兵士。陣形を組んで。完璧に。列の、また列。弓兵。剣士。騎士。そして、中央に——アルドウス王。王冠。マント。傍らに、エレナ王妃。そしてその後ろに——マグナス・アイアンソウル。二人の将軍。顧問たち。


これが全部……私のために? アドリアナは、微笑んだ。当然よ。ふさわしい、出迎えだわ。


馬車が、門をくぐった。広場へ。王が、待つほうへ。ヘリオは、馬を進めながら、兵を見ていた。多い。多すぎる。なぜ、こんなに? 行進か? 儀式か? ……妙だ。だが、何も言わなかった。


馬車が、止まった。王の、前で。アドリアナが、降りた。汚れたドレス。乱れた髪。だが、完璧な微笑みで。


「お父様!」


王のもとへ、駆け寄る。王は、娘を抱きしめた。顔に、安堵を浮かべて。「アドリアナ。神々に、感謝を」


「無事です、お父様。それも、おかげで——」彼女は、振り返り、ヘリオを指した。馬を降りていた。「——この、若い魔法使いの!」


高く、はっきりとした声。皆が、聞いた。兵も。群衆も。全員が。「わたくしの、命を救ってくれたのです!」間。「ふさわしい褒美を、与えねばなりません!」


王妃が——優雅に、外交的に——微笑んだ。「もちろんですとも、娘や!」


全員の視線が、王に集まった。王は、ヘリオを見つめていた。少年。十六歳。質素な服。穏やかな、表情。彼。ヘリオ・ヴァロリン。ここに。いま。娘とともに。何千もの、目の前で。全員の、前で。


マグナスは——王の背後で——青ざめ、震えていた。将軍たちが、見つめた。


マーセラスが、ささやいた。「あれが、奴か?」


ダリアンが、かすかにうなずいた。「ああ」


「どうやって……」


「分からん」


王は、アドリアナを見た。輝いて。幸せそうに。感謝に満ちて。ヘリオを見た。穏やかで。何も、気づいていない。群衆を見た。何千もの、証人。兵を見た。二千。準備は、整っている。だが——できぬ。こうしては。


アドリアナを救った、直後では。皆の、目の前では。いまここで、奴を殺せば……王国が、崩れる。民が、反乱を起こす。貴族が、私を見捨てる。私は……追い詰められた。


王妃を、見た。彼女は、彼を見ていた。かすかに、首を振る。危険に、見合わない。娘のため、では、なく。


王は、息を吸った。分かった。掌中に、収めておく。頃合いを、待つ。人目から、離れて。アドリアナから、離れて。そして……冷たく、微笑んだ。……討つ。


アドリアナが、待っていた。「お父様? 褒美は?」


長く、重い沈黙。それから——アルドウス王が、微笑んだ。強張った笑み。だが、確かに。「もちろんだ」


ヘリオに、歩み寄った。「娘を、救ってくれた。王国は、感謝している」間。アドリアナを見て、ヘリオを見て、群衆を見た。そして、悟った——選択の、余地はない。


「今宵。宴を。そなたの名誉を讃えて」


「滅相も、ありません、陛下——」


「是非にも」しっかりとした声。招待ではない。命令だった。「賓客として、留まるがよい。この宮殿に」


マグナスを、見た。監視せよ。ぬかりなく。マグナスは、かすかにうなずいた。


ヘリオは、ためらった。何かが……おかしい。罠だ。明らかに、罠だ。セラフィンは、姿を消せと言った。なのに、僕は、王の宮殿に、足を踏み入れようとしている?


周りを、見た。二千の兵。少なく見積もっても。膨大な、群衆。証人たち。断れば……どうなる? 「なぜ、王室の歓待を、断る?」「何を、隠している?」そして、兵は……至るところにいる。逃げる? 不可能だ。


アドリアナを、見た。微笑んでいる。幸せそうに。無邪気に。彼女は、知らない。名誉だと、思っている。その彼女の前で、断れば……。


喉が、渇いた。どちらにしても、詰んでいる。せめて、宮殿の中でなら……何を企んでいるか、見定められる。


『リキ、何か知恵は?』


——一つだけだ——内なる声が、答えた。——生き延びろ——


「ありがとうございます、陛下」


王が、手を打ち鳴らした。「護衛。我らの賓客を、客間へ案内せよ」


兵が、近づいた。礼儀正しく。だが、確かに、そこにいた。大勢で。ヘリオは、宮殿の中へと導かれていった。群衆が、喝采する。アドリアナが、手を振る。そして、王が、見ていた。


殺せはせぬ。まだ。だが、お前は、私の家にいる。私の、掌中に。そして、遅かれ早かれ……方法を、見つける。


マグナスが、歩み寄り、ささやいた。「陛下……いかが、なさいます?」


王は、微笑んだ。冷たく。「待つ。見極める。策を練る」間。「そして、頃合いがきたら……」


「……討つ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ