エカテリーナ・ヴァルトシュタイン
エカテリーナ・ヴァルトシュタインは、史上最高の魔導士であり、発明家である。
この意見に対して異を唱える者は、恐らくこの世界にいないだろう。それほどまでに彼女がもたらした功績は大きい。代表的なものは魔道具や印刷機といったものだが、それ以外にも無数に存在する彼女の発明は、少なくともこの世界の技術水準を五十年は進歩させた。これ以上の功績を挙げられる者など現れない、と断言する有識者もかなり多い。
では、この意見はどうか。
エカテリーナ・ヴァルトシュタインは善人である。
この意見については、各々によって見解が大きく異なる。それこそ彼女の世話になった者ですら、『聖女』と讃える者もいれば、『悪魔』と畏怖する者もいる。彼女に救われた身の上でもこれ程両極端な評価が飛び交うこの議論は、始まったが最後喧嘩に発展することが非常に多く、民衆の間で半ばタブー視されている。
では、実際のところはどうなのか。
『他者へ積極的に奉仕し、それを心の喜びとする』。善人の定義をこう定めれば、エカテリーナは掛け値なしの善人だ。しかし、善人の定義を『他者を害さず、協調して生きられる』とすれば、彼女は最悪の悪人である。
しかし、彼女は生まれてから一度も、他人を意図的に害した事もなければ、害意や敵意を抱いたことすらない。彼女は物心ついた時から、心から人を愛し、一人でも多くの幸福を願っていた。
しかし、彼女には生まれつき、一切持ち合わせていないものが二つあった。一つは『倫理観』と呼ばれるもの。もう一つは、『他者の気持ちを察する力』だった。
その結果、エカテリーナは救いを齎す聖女であると同時に、不幸をばら撒く悪魔にもなった。何故なら彼女が取る問題解決の手段には、合理性以外の全てが欠如していたからだ。
かつて、そんな彼女に対して助けを求めた夫婦がいた。
彼らは言った。『農作物の不作で、自分たちが食べる分さえ確保できない』と。彼らがエカテリーナに求めたのは、恐らく一時的な援助か、農作業を助ける魔道具の貸借だろう。金に執着しなかったエカテリーナは、望まれれば自身の発明を二つ返事で貸し与える事も多かった。
この夫婦もまた、それを期待していたのだろう。事実エカテリーナは、彼らの望みに対し、即答で最適解を示し、実行した。
『それならこの魔道具を持って行きなさい。返すのはいつでもいいわ。それから――』
次に彼女の言った言葉は、まさに悪魔そのものだった。
『あなたたちのお子様も、私が預かりましょう』
彼女からすれば、『餓死の危機』という夫婦の悩みに対し、最適解を示しただけに過ぎない。飢餓の原因が農作物の不作だから、それに使える魔道具を与える。そして、より確実な食い扶持を確保させるため、子供という存在を彼らの庇護から外す。残った子供は餓えないように自らの元で保護し、充分な衣食住を与える。
しかしこれは、夫婦の子供に対する愛情というポイントを無視した場合の話だ。
夫婦はエカテリーナの提案を、苦渋の末に呑むしかなかった。彼らからすれば、『魔道具の担保として子供を差し出せ』と言われていると解釈する他ないのだから。
エカテリーナにそのような発想はなく、ただ純粋に夫婦を救う最適解を実行しただけだ。だからこそ、エカテリーナは首を傾げる。
自分が悪魔などと呼ばれる理由を、本気で彼女は分からないのだから。
とはいえ、彼女はこの時保護した子供を蔑ろには決してせず、それどころか実の子のように愛情を注いだ。その子に伝わっていたかどうかはともかくとして。
だがしかし、彼女がその子に対して行った所業を考えれば、彼女の内心を信じるものはまずいないだろう。
何しろ彼女は、その子を『英雄』とするべく、そして自身の思う『世界の救済』の為に、実験台としたのだから。
その子供の名前は――。
*
ヴァンドラムを覆う城壁のすぐ傍に、それはあった。
魔王が生み出した一種の結界。紫色の球体であるそこに、彼女はいた。
魔王エカテリーナ。十年前に災厄を引き起こし、今またそれを、もう一度行おうとしている、人類にとって最悪の敵。
彼女は禍々しい揺り籠の中で、待ち続けていた。新たな英雄を。或いは、十年前と同じかもしれないが。
全身の力を抜き、宙に浮かんで目を閉じている彼女の姿は、外で自分の子供たる魔将が全滅した事など知らないようだった。その上寝間着のようなゆったりとしたドレスを身に纏っているその姿は、睡眠中と言われても誰も疑わないだろう。
そんな彼女の瞳が――ゆっくりと開かれた。そして地面に降り立つと、聖母のような微笑みと共に、両手を打ち鳴らした。
「あら――これはちょっと意外な組み合わせね」
想定外だと言いながらも、彼女の表情は明るい。想定外こそ望むところ、と言わんばかりに。
彼女の微笑に対し、目の前の戦士――ヴィルハルト・アイゼンベルクは、魔導士エレインを携え、嫌悪を湛えた瞳で返す。
「笑っている場合か? もうじき地獄に堕ちるんだぞ」
「それなら尚更笑顔でいなくちゃ。最期が近いからこそ、笑うべきだと思うわ」
相変わらずの減らず口に、ヴィルハルトは舌打ちする。手にしたばかりの神剣に手を掛け、両手で構えた瞬間――ヴィルハルトの周囲が、暗黒に染まった。
「何っ……?」
紫色の結界はおろか、エレインの姿すら見当たらない。自分の身体と神剣以外が、完全なる闇となっていた。
異界魔法の一種か、と周囲に最大限の警戒を向けるヴィルハルト。しかし、次第に正面に、何かが見えてきた。剣先を向け、目を凝らした先にいたものを見た瞬間――ヴィルハルトの全神経が、一斉に警鐘を鳴らした。
「何だこれは……!?」
そこにいたのは、この世のものとは思えない存在。漆黒の体毛らしきものに覆われた身体は、山すら丘に見える程の大きさ。小さく見積もっても10kmはあるだろう規格外の巨躯が、身の毛もよだつような涎の音を鳴らしながら、荒い息を絶えず吐き続けている。遠すぎて豆粒のように見える瞳は血のように真っ赤で、白目が見当たらない。
眼に入る情報から、獣に近い生物であることは分かる。だが、それだけではない。彼を構成する全てが、この生物が単なる獣ではないと訴えていた。根源的な恐怖を呼び起こされるような、余りにも禍々しいそれから、ヴィルハルトは目を離せなかった。目を離した瞬間、全てが終わる気さえした。
「見えるかしら? ヴィルハルト」
気が付くと、隣にはエカテリーナがいた。反射的に背中から神剣を抜き、横に振り払う。しかし、刃は彼女の身体をすり抜けた。
「ヴィルハルト。貴方の力を見る前に、まず貴方にこれを見て欲しかったの。突然で驚いたと思うけれど……どうしても知っておいて貰う必要があったから」
「貴様は……あれが何か知っているのか?」
エカテリーナが頷く。その表情は、見慣れた笑顔ではなく――一切の感情が見えない仏頂面だった。
「あれは……言うなれば、『世界の機能』よ」
よく分からない物言いに、ヴィルハルトは眉を顰める。しかし、エカテリーナの態度に冗談と言えるものはない。
この世の何より憎んだ女を前にして、ヴィルハルトは彼女の話をただ待っていた。聞き逃してはならない話のように思えたからだ。
「安心して。こう見えて『眠っている』から。少なくとも今はまだ、目覚めはしないわ」
「こいつが何かしらの機能だとして、目覚めればどうなる?」
「世界が終わるわ」
こともなげに、エカテリーナは言った。
彼女は自分の眼を指差す。『異世界が見える』という魔眼だ。
「形あるものいつかは滅びるもの。どんな世界でも、最後には終わりを迎えるわ。コレは、普段は次元の奥深くで眠っているけれど、一定の条件を満たした瞬間目覚めるの。そして、世界の全てを文字通り喰らい尽くす。私が見てきた終わる世界はーー例外なく、全てコレが原因よ」
*
エカテリーナが、自身の特性を自覚したのは、四歳の頃だった。といっても、最初から自在に扱えた訳ではなく、睡眠時に夢の代わりに他の世界が見えるというものだったが。
自身の特性に『異世界視』と名付け、意識的に扱えるようになったのは、八歳になってから。それ以後、エカテリーナは異界からあらゆる知識や技術を得て、こちらの世界で再現し、数多の発明として世に発信した。
『発明女王』エカテリーナの誕生である。
しかし、当然ながら彼女が見る異世界の景色は、必ずしも素晴らしいものではなかった。
例えば、二つの国が些細なきっかけから争い、憎悪の連鎖の果てにどちらも滅びた世界。その世界は後に残った国が統一したものの、そこで再び戦乱の渦が巻き起こる事となる。
例えば、大地から無尽蔵に湧き出るエネルギーで豊かな暮らしを送っていた中、突如エネルギーが消失した世界。原因が分からないまま悪意ある憶測が飛び交い、やはり夥しい血が流れた。
それでも彼女は、異界の観察をやめなかった。この世界にない新たな技術を手に入れる事は勿論だが、何よりそうした残酷な世界の中でも確かにある、人と人の絆を彼女は愛していたからだ。
そうして、異界の観察と記録を続けること十数年。彼女は完全に滅んだ後の世界に、幾つもの共通点を見つけた。
一つは、滅びる直前まで非常に豊かだったこと。
もう一つは、崩壊した世界に、何か巨大な獣に噛みつかれたかのような痕が無数に存在したこと。
その原因こそーー今ヴィルハルトと共に見ている生物だった。
世界が一定の条件を満たすと、突如目覚めてその巨体で世界の全てを喰らう。当然、出現した世界の住民たちは総出で反撃に出たものの、大多数の世界は全く歯が立たず、蹂躙された。
その存在を知った時、エカテリーナはーー生まれて初めて、怒りという感情を抱いた。
「何これ……」
ある異世界で見た、『賽の河原』という話を思い出した。どれだけ石を積み上げても、管理者の気まぐれで無に帰される刑罰の話だ。まるで自分たちのやっていることがそれだと、言われているような気がした。
ふざけるな。
自分の愛した人々が、世界がこんな怪物に食い荒らされる未来など、認められる筈が無かった。
故に、エカテリーナは動き出した。それまでの『彼女なりの』善行は続けながら、異界の観測に精を出し、怪物の情報を集めた。
分かったのは二つ。
一つは、あの生物には強力な再生能力が備わっていること。体内の何処かに有する『核』を起点として、そこさえ無事ならどれ程傷をつけても即座に再生する。ただでさえ頑強極まりない肉体を必死に破壊しても、瞬時に元通りとなる姿は、無数の異世界人の心を砕いてきた。
もう一つは、アレが目覚める条件の一つ。
それは、人口だ。厄介なのは、目覚めるために必要な人口が、世界によって異なる点だ。幾つか人口を仔細に記録している世界を見続けて、その閾値を算出する計算式を割り出した。
そして、かの生物の存在を知ってから六年。計算に必要な情報を集め終えた彼女がいざ計算した結果――この世界から怪物が目覚めるまで、後数年程の猶予しかない事が分かった。
この事実に、彼女は頭を抱えた。今アレが目覚めても、この世界に対抗する術が無い。今まで滅んできた世界たちと同じように、全てを喰われて終わる。
普通の研究者なら、匙を投げて絶望に呑まれるだろう。しかし、彼女はエカテリーナ・ヴァルトシュタイン。他者の事を一切分からない、独善の女王。それ故に、倫理観というブレーキが最初から存在しない。
だからこそ、彼女は完成させた。アレと同じ再生能力を与える『核』を。自分に、存在を知って頼んできた『友人』に、そして――ある夫婦から預かった男児に。
「さあ、世界を救う一歩を踏みましょう」




