二日目、二 半分こ
この穴の向こうには、九条の部屋があるはずだ。俺は顔を穴の開いている、床の高さまで下げ、中を覗いてみた。壁の中には真っ暗な空洞が広がっており、その向こうにはやはり荒々しく破壊された壁板が見えた。その向こうは、ピンクの不透明なプラスチックのような物で塞がれている。
「おい!床にあるピンクのプラスチック、どけてみてくれ!」
『えっ.........』
「知らねえうちに壁に穴が開いてんだ!床の高さに!」
彼女の動く物音がして、プラスチックが横へ動き出す。爪に薄いピンクのマニキュアが塗られた綺麗な手が見えて、ぎざぎざの穴のふちを触ると、驚いたように引っ込んだ。すると、ようやく穴から彼女の部屋の様子が見える。......どうやら穴は彼女のベッドの下に空いているようで、向こう側は薄暗くしか見えなかった。そうしてその薄闇の向こうに、腹ばいになってこちらを覗き込む、つぶらな瞳をした、かわいらしい女性の驚いた顔がある。
「嘘……いつの間に……?」
「俺にもわからねえ……昨日帰った時にゃ、こんなもんなかったはずなんだが……。......あ、覗きとかじゃねえからな!?本当に知らねえぞ、俺!」
「わ、わかってます。こんな大きな穴をあけたら、ふつうすぐに気付かれてしまいます。覗きなら......小さな穴をあけて、そこにカメラ、とかを、置いたりするものなんじゃないでしょうか」
「いやそりゃ知らねえけどよ......ま、これでお互い、顔が見れるようになったな.....」
美しい声に見合った、可憐な容姿の女性。二人きりで迎えた危機。とくれば次は、危機を乗り越え、生まれる絆……こりゃ、ワンチャンあんじゃねーの。知らず知らずのうちに頬が緩む。
「そうですね......それに、小さなものならこの穴を通して受け渡しできそうです」
「にしても......綺麗な声だな、あんた」
「えっ......あ......ど、どうも」
彼女は照れたように顔をそむけると、そそくさと立ち上がって、ベッドに腰かけた。レモン色の靴下を履いた、華奢な両脚が見える。俺も立ち上がり、ベッドに腰かけた。近づいていた彼女の声が、また遠くなる。
『私、一応声優をしているんです。もうそろそろ、辞めるつもりなんですけど......』
「えっ、なんで?そんなにいい声なのに」
『私くらいの声の人は、たくさんいます。声優は四年目からが勝負って言われたりするんですけど……私の場合は、ぱったりお仕事が来なくなってしまって』
「どうして?」
『四年目からは、新人じゃなくなるんです。出演料も高くなって、この人じゃなきゃダメだ、って仕事じゃないと、割り振られなくなってしまうんですよ』
「へえ......厳しい世界なんだな......アニメとか出たことあんの?」
『端役で、少しだけ......あとは、ソシャゲの低レアキャラクターとか、そんなものばかりです』
「それでもすげえじゃん。俺なら一生自慢するね。......あ!そういや俺テレビ出たことあんだぜ!子供の頃、地元のクイズ大会でさ……」
しばらくとりとめのない話で盛り上がっているうちに、腹が減ってきた。窓の外は日が高く昇っている。もう昼頃だろうか。
「冷蔵庫......たぶんなんも入ってねえよなあ......」
食事は基本コンビニで買い、たまに贅沢でUberを頼むのが俺だった。自炊など、ほとんどしたことがない。
うっすらホコリの積もった台所へ行き、冷蔵庫を開ける。中に入っていたのはいつ入れたのかすら覚えていない飲みかけのペットボトルが数本と、あとは扉の棚に引っ越して来た時無駄に買い揃えた調味料の小瓶が並べてあるだけだった。
「クソっ......急にコンビニもUberもダメになるなんて思わねーだろ普通......」
シンクの蛇口をひねり、コップに水を汲む。一口飲むと、サビの味がした。
「まっじい......でも、これ飲んで空腹を紛らわすしかねえよな......」
げんなりした気持ちでベッドに腰かけ、ちびちびと臭い水を飲む。......と、視線が足元のゴミ箱に止まった。
「そういえば......」
俺はコップをテーブルに置き、昨日の夜投げ捨てた竹の皮の小包みを拾い上げる。それは大きさの割にずっしりと重かった。開いてみると、三つのおにぎりが入っている。握られてから半日は経っているはずだが、米の一粒一粒がまだつやつやと輝いており、とてもおいしそうだ。......だが、見ず知らずの人間から渡されたものを食べるのか?しかも、あんな得体の知れない老婆から押し付けられたものを……。
『お腹、空いたなあ......』
隣の部屋から聞こえた呟きに、俺は妙案を思いつく。外側の竹の皮を一枚使っておにぎりを一つ包み、それを穴の中に押し込むと、俺は言った。
「腹減ってんならこれやるよ!ほら、穴を見てみてくれ!」
『え……あ......。き、聞こえてました......?』
慌てたような声がして、穴の向こうに彼女の顔が現れる。
「へへ......まあな。ほら、おにぎりだぜ」
手を伸ばしてそれを受け取った彼女は、ベッドに座り、カサカサと竹の皮を開いて、おにぎりを食べ始めた。
クックック.....毒見役、ご苦労さん。
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