第8話 ご飯と手紙
しばらくして、由美子さんが立ち上がった。
「悠真くん、ご飯食べていくでしょう?」
「え?」
「昔はよく食べてたじゃない」
「でも……」
遠慮の裏には、後ろめたさがあった。美優に黙って、彼女の家の食卓に座ってしまっていいのか。
「いいから」
由美子さんは笑った。
「美優は、部屋にこもっているの。夕飯にも降りてこないから、気にしなくていいのよ」
テーブルの上に料理が並べられていく。
焼き魚。
味噌汁。
野菜のおかず。
どれも特別な料理ではない。でも、僕にとっては特別だった。
「いただきます」
箸を取る。
味噌汁を一口飲んだ。
「……うまい」
思わず口に出た。
温かさが喉を通って、胃の底まで沁みていく。何日ぶりだろう。食べ物の味を、ちゃんと感じたのは。
由美子さんが笑う。
「昔と同じでしょう?」
「はい」
「いっぱい食べなさい」
その言葉が、昔と同じだった。僕は久しぶりに、安心して食事をした。
学校のことも。
玲司のことも。
美優のことも。
その間だけは考えなかった。ただ、昔のようにご飯を食べた。
*
食事が終わる頃。
由美子さんは声を落とした。
「悠真くん」
「はい」
「あなたを信じるだけじゃなくて、私にもできることがあると思う」
僕は顔を上げた。
「由美子さん。警察には、行かなくていいんでしょうか」
ずっと引っかかっていたことを、僕は口にした。
「あの夜、警察を呼ぼうって言ったんです。でも、穂乃香さんが首を振って……」
「そうね。本当は、そうするべきなんでしょうね」
由美子さんは、少し考えてから続けた。
「でも、穂乃香さん本人の意思を無視して周りが動けば、かえって傷つけてしまうかもしれない。それに今は、穂乃香さん自身が、誰が犯人なのかを思い違いしているかもしれないんでしょう?」
「……はい」
「だから、まずはご家族に事情を知ってもらうのが先。穂乃香さんのお母さんに連絡を取ってみようと思うの。必要になったら、大人がきちんと、警察にも相談するわ」
「穂乃香さんの……お母さんに?」
「ええ」
由美子さんは頷いた。
「娘さんが今、何を信じているのか。何を怖がっているのか。親なら知りたいはずよ」
「でも、僕が直接行ったら……」
自分が動けば動くほど、状況が悪くなる。そんな無力感が、胸に重くのしかかっていた。
「だから、悠真くんが行くんじゃない」
由美子さんは静かに言った。
「私が行くの」
僕は黙った。
「あなたが直接動けば、また何を言われるか分からないでしょう?」
「……はい」
「だったら、大人ができることは大人がする」
由美子さんはスマートフォンを取り出した。
「穂乃香さんのお母さんと話してみる」
自分の代わりに戦ってくれる人がいる。それは、頼もしいと同時に、申し訳なくもあった。
「ありがとうございます」
「そんなに改まらなくていいのよ」
由美子さんは笑った。
「うまくいくとは限らないから」
その言葉に、僕は小さく笑った。
「それでも……お願いします」
「任せて」
由美子さんは力強く答えた。
*
帰ろうとした時。
由美子さんが、僕を呼び止めた。
「悠真くん」
「はい?」
「もう一つ、できることがあると思う」
由美子さんは台所から便箋と封筒を持ってきた。
花柄の便箋だった。
「これに、穂乃香さんへの手紙を書いて」
「僕が……?」
「ええ」
僕は便箋を見る。
「でも、穂乃香さんは僕を怖がっているんじゃ……」
言いながら、胸がちくりと痛んだ。穂乃香が怖がっているのは、僕なのかもしれない。それを認めるのが、辛かった。
「だからこそ」
由美子さんは言った。
「直接会って話す必要はないわ」
「……」
「あなたが覚えていることを、あなたの言葉で書けばいい」
由美子さんは便箋を僕の前に置いた。
「玲司くんが何を言ったとしても、悠真くん自身の言葉は残るから」
僕はペンを取った。
最初の一文字を書くまでに、かなり時間がかかった。何を書けばいいのか分からない。自分が無実だと訴えるだけでは、また言い訳だと思われるかもしれない。
かといって、あの夜の怖さを思い出させてしまったら、彼女をもう一度傷つけてしまう。言葉を選ぶたびに、ペン先が止まった。
それでも――。
僕は書き始めた。
あの夜のこと。
穂乃香を見つけたこと。
怖がっていたこと。
助けようと思ったこと。そして、自分がその後どうなったのか。書いているうちに、あの夜の自分の気持ちが、少しずつ蘇ってきた。
何も難しいことは考えていなかった。ただ、無事でいてほしかった。
最後に、こう書いた。
――もし、いつか思い出してくれるなら。
――あの夜、僕は君を傷つけようとしたんじゃない。
――助けたかっただけなんだ。
書き終えた時、僕はペンを置いた。手が、少し震えていた。由美子さんは、僕の手紙を読もうとはしなかった。
ただ、封筒を受け取った。
「これ、私が届けるわ」
「お願いします」
由美子さんは封筒を大切そうに持った。
「大丈夫」
その言葉に、僕は頷いた。玄関まで見送ってもらう。外に出ると、夜風が頬に当たった。
涙の跡が冷たくて、少し恥ずかしかった。
「悠真くん」
振り返る。
「無理しないでね」
「はい」
「それと……」
由美子さんは少し笑った。
「ご飯、いつでも食べに来なさい」
僕も笑った。
「ありがとうございます」
玄関の扉が閉まる。
僕はしばらく、その場に立っていた。
隣の家。
すぐそこには、美優がいる。でも、今はまだ会えない。会いたい気持ちと、会うのが怖い気持ちが、胸の中で絡まり合っていた。
けれど――。
僕には、信じてくれる人がいる。
天音。
蓮さん。
そして、由美子さん。
少しずつだけれど、僕の周りに人が戻ってきている。
僕は夜空を見上げた。
まだ、何も終わっていない。むしろ、ここからだった。玲司も、きっと次の手を打ってくる。
その不安は消えない。
それでも。
今度は、一人で立ち向かうわけじゃない。僕は家へ向かって歩き出した。帰る家に、待っている人はいない。
母さんは、中学三年の冬に病気で亡くなった。父は今年から仕事で海外に単身赴任中。それからは祖父と二人で暮らしていたが、その祖父も、夏に認知症が進んで入院した。父は入院の手続きをしに一時的に帰国したが、またすぐ、戻って行った。今のプロジェクトは父がいないと進まないらしい。
今、あの家には僕一人しかいない。けれど今夜だけは、暗い玄関が、少しも怖くなかった。




