第7話 由美子さんの家
蓮さんと別れた帰り道。僕は一人で歩いていた。さっきまで一緒にいた蓮さんの言葉が、何度も頭の中に浮かんでは消えていく。
――俺がお前を見て、そう決めたんだ。
その言葉は、ずっと耳に残っていた。最初から信じてもらえたわけじゃない。僕の話を聞いただけで味方になってくれたわけでもない。
蓮さんは、自分の目で僕を見て、自分で判断した。
それが嬉しかった。
噂に流されなかった人が、噂よりも僕自身を選んでくれた。そのことが、思っていた以上に僕の心を支えていた。そして、同時に思った。
まだ、僕にはやらなければならないことがある。
天音。
蓮さん。
二人が僕を信じてくれた。けれど、玲司はきっと、そんなことでは止まらない。浮かれている場合ではない、と自分を戒めた。
ようやく見えた光を、また失うのが怖かった。なら、もっと味方が必要だった。学校の中だけではない。
大人の目から見ても、僕が嘘をついていないと証明してくれる人。その時、ふと一人の人の顔が浮かんだ。
由美子さん。
美優の母親。
母さんの古くからの友人で、幼い頃から僕を本当の息子のように可愛がってくれた人だった。母さんが亡くなってからは、なおさらだった。
美優と一緒に遊んだ帰り、何度も夕飯を食べさせてもらった。
「悠真くん、いっぱい食べなさい」
そう言って笑う由美子さん。その記憶が、今も僕の中に残っている。
でも――。
今の由美子さんが、僕をどう思っているのかは分からない。娘の美優は、僕を信じなくなった。その母親である由美子さんも、きっと同じだと思っていた。
もし、あの優しい目が、冷たく僕を見たら。そう考えただけで、足が止まりそうになる。美優に拒絶されたときの痛みを、もう一度味わうことになるかもしれない。
それでも。
確かめずに逃げたら、きっと一生、後悔する。僕は、確かめてみることにした。
*
夕方。
僕は美優の家の前まで来ていた。
自分の家のすぐ隣。
昔なら、何も考えずに通り過ぎていた場所だった。
今は違う。
玄関の前に立つだけで、胸が苦しくなる。
窓を見る。
昔、美優と手を振り合った二階の窓。
「また明日ね」
そう言っていた頃には、ここまで近いことが当たり前だった。今は、その距離がひどく遠く感じる。数メートル先の建物の中に、美優がいる。
僕を怖がっているかもしれない美優が。僕は一度、拳を握った。
指先が冷たかった。
そしてインターホンを押した。数秒が、何分にも感じられた。しばらくして、玄関の扉が開いた。
「……悠真くん?」
由美子さんだった。
エプロン姿。
手には菜箸を持っている。僕の顔を見た瞬間、由美子さんの目が大きく開いた。
驚いている。
拒絶される、と身構えた。
でも――。
そこに嫌悪はなかった。
「悠真くん……」
「突然すみません」
頭を下げる。
「少し、お話をしてもいいですか?」
由美子さんは何も言わず、僕の顔を見つめていた。その沈黙の間、僕は息を止めていた。そして、ゆっくりと玄関を開けた。
「……入って」
その一言を聞いた瞬間、鼻の奥が、つんとした。
*
家の中に入る。
懐かしい匂いがした。
味噌汁。
焼き魚。
昔と同じ匂いだった。
何も変わっていない。変わってしまったのは、僕の立場だけだ。その落差に、胸がきゅっと締めつけられた。リビングのテーブルには、三人分の食器が並んでいた。
僕は一瞬、目を止めた。
美優の分。
由美子さんの分。
そして、もう一つ。
昔なら、僕のために用意されていた場所だった。まだ、あの席は残っている。そう思っただけで、目の奥が熱くなった。
由美子さんも、その食器に気づいたのだろう。ほんの少しだけ視線を落とした。
「座って」
「はい」
僕は椅子に腰を下ろした。由美子さんは向かい側に座った。
「……学校、大変なんでしょう?」
その言葉に、僕は俯いた。
「はい」
それだけ答えるのが精一杯だった。少しでも口を開けば、感情が溢れてしまいそうだった。
「美優からも、いろいろ聞いてる」
胸が痛んだ。
やっぱり――。
由美子さんも、美優の言葉を信じているのだ。そう覚悟して、僕は膝の上で拳を握りしめた。
「でもね」
由美子さんが続けた。
「私には、どうしても分からないの」
僕は顔を上げた。
「悠真くんが、そんなことをする人なのかなって」
言葉が出なかった。
期待してはいけない、と思うのに、心が勝手に前のめりになる。由美子さんは僕を責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ真っ直ぐに見ていた。
「小さい頃から、あなたを見てきたから」
「……」
「もちろん、昔と今は違うかもしれない」
由美子さんは少し笑った。
「でも、人間って、そんなに簡単に別人になるものなのかな」
その言葉を聞いた瞬間。僕の目から涙が落ちた。止めようとしても止まらなかった。
慌てて顔を背ける。
情けない、と思った。こんな姿を見せたくなかった。それなのに、堰を切ったように溢れてくる。
「すみません……」
「謝らなくていいのよ」
由美子さんの声は優しかった。
「悠真くん」
僕は顔を上げた。
「あなたは、本当に自作自演なんてしていないの?」
僕はゆっくりと頷いた。
「していません」
声が震えた。
「全部、誤解なんです」
そして僕は、今まで起きたことを話した。
穂乃香を助けたこと。
その後に広がった噂。
自分が自作自演をしたと言われたこと。玲司が周囲に話していたこと。そして、誰にも信じてもらえなくなったこと。
話しているうちに、胸の中に溜め込んでいたものが、少しずつ言葉になって出ていくのが分かった。誰にも言えなかった苦しさを、初めて誰かに預けられた。由美子さんは、途中で一度も口を挟まなかった。
ただ、黙って聞いていた。僕が話し終えると、部屋は静まり返った。
「……そう」
由美子さんが小さく呟く。そして、目元をぬぐった。
「ごめんね」
「え?」
「もっと早く、あなたの話を聞いてあげればよかった」
僕は首を横に振った。
「由美子さんのせいじゃありません」
「でも、大人もちゃんと考えないといけないわね」
由美子さんは、強い目で僕を見た。
「噂だけで一人の子を悪者にしてしまったら、その子はどこにも逃げられないもの」
その言葉に、僕は黙って頷いた。どこにも逃げられない。まさに、この数日間の僕だった。
それを分かってくれる人がいる。それだけで、息ができる気がした。
「私は、あなたを信じる」
その一言が、静かに響いた。
「……本当に?」
確かめずにはいられなかった。また、手のひらを返されるのが怖かったから。
「ええ」
由美子さんは迷いなく答えた。
「悠真くんが嘘をついているとは思えない」
その瞬間、張り詰めていたものが切れた。
僕は俯いた。
涙が止まらなかった。
「ありがとうございます……」
由美子さんは何も言わず、少しの間、僕が泣くのを待ってくれた。




