第4話 最初の味方
天音と屋上で話した翌日から、僕の学校生活は少しだけ変わった。変わった、といっても、僕を見る目が急に優しくなったわけではない。相変わらず、廊下を歩けばひそひそ声が聞こえる。
教室に入れば会話が止まる。僕の机には、誰かが書いた悪意のある言葉が残っている。
消しても消しても、翌朝にはまた増えている。
ただ、一つだけ違っていた。天音が、僕を避けなかった。朝、教室に入ると、天音が小さく会釈をする。
それだけだった。
けれど、今の僕にとっては、その会釈が何よりもありがたかった。
「おはよう、悠真くん」
「……おはよう」
それだけの会話なのに、胸が軽くなる。一日の中で、名前を呼んでもらえるのは、その一回だけだった。人から信じてもらうというのは、もっと大きなことだと思っていた。
けれど本当は、こういう小さなことから始まるのかもしれない。
*
昼休み。
僕は一人で弁当を食べていた。以前なら、机をくっつけて友達と騒いでいた時間だ。今は、教室の隅で一人。
味がほとんど分からなかった。
窓の外を見る。
校庭では、運動部の生徒たちが走っている。その中に、玲司の姿があった。仲間と笑いながら話している。
僕を見ることはない。
まるで、僕が最初から存在していなかったかのようだった。胸の奥で、どす黒いものが揺れた。あいつが笑っている間、僕はここで、一人で飲み込むように飯を食っている。
その不公平さに、指先が冷たくなった。まだ証拠はない。分かっている。けれど、あの笑顔を見ていると、感情が理屈を追い越そうとする。
「悠真くん」
天音が向かいの席に座った。
「ここ、いい?」
「もちろん」
即答した自分の声が、思った以上に必死で、少し恥ずかしくなった。天音は弁当箱を開いた。しばらく二人とも何も話さなかった。
けれど、その沈黙は不思議と苦しくなかった。誰かが目の前にいる、というだけで、教室の空気がこんなにも違う。やがて、天音が小さな声で言った。
「昨日のことなんだけど……」
「うん」
「私、もう少し調べてみた」
天音はスマートフォンを取り出した。
「事件が起きる前から、悠真くんについて変な話が出ていたのは間違いないと思う」
「でも、それだけじゃ、玲司がやったって証拠にはならないよな」
自分で言いながら、その言葉に苛立ちが混じっているのが分かった。早く白黒つけたい。今すぐ、あいつの化けの皮を剥いでやりたい。
「うん」
天音は頷いた。
「だから、玲司くん本人を追うんじゃなくて、玲司くんの周りを見ることにしたの」
「周り?」
「誰が、いつ、何を言っていたのか」
天音はメモ帳を開いた。そこには日付と名前が並んでいた。
丁寧な字だった。
消しゴムで何度も書き直した跡がある。
「この話、最初は誰が言い始めたのか。それを追っていけば、どこかでつながると思う」
「それと、玲司くんは、私の兄と同じサッカー部なの。二年生の一ノ瀬蓮。部活での玲司くんなら、兄が一番近くで見てるはず」
「それから、あの写真も」
「写真?」
「出回ってるのは、二人だけを切り取ったものばかりでしょ? 不自然なくらい。元になった写真が、どこかにあるはず」
天音は、画面の端を指でなぞった。
「元の写真には、きっと、切り落とされたものが写ってる」
僕は息を呑んだ。
あの夜の光景の中に、あの写真に写っていなかったものが、確かに一つだけ、あった。
僕はメモを見つめた。
焦っていた自分が、急に恥ずかしくなった。僕が復讐心に駆られている間に、天音は静かに、地道に、一つずつ確かめていたのだ。一人では到底できないことだった。
「……天音」
「なに?」
「どうして、そこまでしてくれるんだ?」
聞いてしまってから、怖くなった。
理由を聞いたら、この優しさが消えてしまうのではないか。そんな子供じみた不安が、胸をよぎった。
天音は少し考えた。
「悠真くんが無実だから……かな」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
天音は窓の外を見た。
「誰も確認しないまま、一人の人を悪者にしていくのが嫌なの」
それから、僕の方を向いた。
「もし本当に悠真くんが悪いなら、いい加減なものでなくて、ちゃんとした証拠を見つけてから決めるよ。でも、違うなら……ちゃんと違うって、みんなが分かるようにしたい」
僕は何も言えなかった。天音の言葉は、事件の真相以上に僕の胸に響いた。僕が欲しかったのは、味方だった。
でも天音は、ただ僕の味方になると言っているのではない。自分の目で確かめようとしている。
それが嬉しかった。
同時に、怖くもなった。この子まで巻き込んでしまったら、僕はどうやって責任を取ればいいのだろう。その不安は、胸の底に小さな棘のように残った。
けれど、守られているだけでは、何も変わらない。天音が一人で積み重ねてくれた日付と名前を前に、僕は顔を上げた。
「天音。頼みがある」
「なに?」
「蓮さんに、会わせてもらえないかな。玲司を近くで見てる人なんだろ」
天音は目を丸くした。
「……悠真くんが、自分から?」
「待ってるだけじゃ、何も変わらないから」
口にした瞬間、心臓が大きく脈打った。断られるかもしれない。笑われるかもしれない。それでも、天音の背中に隠れ続けるよりは、ずっといい。
天音はしばらく考えてから、頷いた。
「聞いてみる。でも、お兄ちゃんは簡単には動かないよ」
◆天音side◆
入学して二日目の放課後だった。
担任に頼まれて、学年全員分のプリントを、職員室から教室まで運んでいた。両手いっぱいに抱えると、前がほとんど見えない。
廊下ですれ違う人は、誰も声をかけてくれなかった。私は、そういう子だ。眼鏡と前髪の向こうに隠れて、誰の目にも留まらないように、ずっとそうして生きてきた。
そのとき、背後から、ひょいと重みが消えた。
「持つよ。こういうのは、半分こにした方が早いだろ」
知らない男子だった。ネクタイが少し曲がっていて、笑うと、目が細くなる。
「あ、ありがとう……」
「どういたしまして。一ノ瀬さん、だよね? 同じクラスの、神谷悠真。よろしく」
名前を呼ばれた。まだ、ほとんど誰とも話していないのに。彼は、名簿の顔と名前を、ちゃんと覚えていたらしい。
教室に着くまでの、たった二分。他愛もない話をした。それだけ。それだけなのに、私はその日、家に帰ってから、何度もその声を思い出した。
翌日から、悠真くんは、私にも普通に挨拶をしてくれた。教室で、廊下で。特別扱いではなく、誰に対しても同じように。
だから私は、気づいてしまった。この人は、誰に対しても、「半分こ」ができる人なんだ、と。
そして、彼の隣には、いつも美優ちゃんがいた。私は、話しかけることもできないまま、二人を遠くから見ていた。それで十分だと、思っていた。
あの朝、教室で、彼が小さく呟いた。
『誰か、僕を信じてくれよ』
気づいたら、立ち上がっていた。
――今度は、私の番。
私はまだ、あのとき半分持ってもらった重さを、返せていない。




