第3話 たった一人の味方
教室に入ると、空気はさらに重くなった。
誰も僕を見ない。いや、正確には、見ている。けれど、僕が見返すと目を逸らす。触れたら汚れるものを避けるみたいに。
その視線の冷たさは、殴られるより痛かった。自分の席へ向かう。机には、「学校の恥」「消えろ」と書かれていた。僕は鞄を置き、椅子を引いて、座った。
それだけのことなのに、異様に疲れた。怒りも悲しみも、どこかへ行ってしまって、体だけが鉛のように重い。
「……誰か、僕を信じてくれよ」
小さく、呟いた。
口に出した途端、その言葉のあまりの惨めさに、自分で驚いた。返事はない。誰もいない。そう思った。
「……悠真くん」
小さな声がした。
空耳かと思った。あまりに、僕が欲しかった声だったから。顔を上げる。窓際の席から、黒縁の眼鏡をかけた少女が立ち上がっていた。
一ノ瀬天音。
決して目立つ子ではない。いつも教室の隅で、俯きがちに本を読んでいる。話したことも、数えるほどしかなかったはずだ。
天音は周囲の視線を気にしながら、僕の席まで歩いてきた。その手は、小さく震えていた。
怖いのだ、と分かった。今の教室で僕に近づくことが、何を意味するのか。彼女だって、分かっているはずなのに。
けれど、戻ろうとはしなかった。天音は、机の落書きに目を落とした。一瞬、痛ましそうに表情が歪む。
そして、僕を見た。
「放課後……屋上に来て」
「え?」
「話したいことがあるの」
それだけ言って、天音は自分の席へ戻っていった。
罠かもしれない、という考えが、一瞬だけ頭をよぎった。そんなふうに疑ってしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。
周囲から、声が聞こえる。
「天音まで?」
「何考えてんの?」
「関わらない方がいいのに」
天音は何も答えなかった。僕は、その背中を見つめた。
――まだ、一人だけいる。
僕を完全には切り捨てていない人間が。その考えが胸に灯った途端、麻痺していた感情が、じわりと戻ってきた。
*
放課後。
階段を上りながら、期待してはいけない、と何度も自分に言い聞かせた。また裏切られたら、今度こそ立ち上がれないかもしれない。
鉄扉を開ける。夕方の風が吹いていた。天音は、フェンスのそばに立っていた。
「来てくれたんだ」
「うん」
声が、少し掠れた。
天音は少し迷ったあと、スマートフォンを取り出した。画面には、いくつものスクリーンショットが並んでいる。
「私、ずっと変だと思ってたの」
「何が?」
「今回のこと」
天音は画面を見つめた。
「悠真くんが穂乃香ちゃんを助けた直後から、急に話が広がりすぎてる。しかも、事件が起きる前から、悠真くんについての変な話が流れてた」
覗き込むと、学年のグループチャットが表示されていた。何気ない雑談。その中に、玲司の名前があった。
『悠真って、裏で何考えてるか分からない時あるよね』
当時なら、ただの冗談にしか見えない一言だ。けれど今、こうして並べて見ると、まるで違って見えた。
背筋に、冷たいものが走る。何気ない言葉の裏に、見えない針が仕込まれていたのかもしれない。
「これ……」
「そう」
天音は頷いた。
「事件が起きるずっと前から、少しずつ印象を作ってたんじゃないかって思ってる」
「玲司が……?」
信じたくない気持ちと、腑に落ちる気持ちが、同時に胸の中でぶつかった。
「それに、あの写真もそう」
「写真?」
「大輝くんが見せてたでしょ。誰が、あの場所で、あの瞬間を撮ったの? その場にいた人にしか、撮れないはずなのに」
言われて初めて、背中が冷えた。確かに、そうだ。あの夜、あの道には、僕と穂乃香と、あの男の三人しかいなかったはずだ。
「まだ、分からない」
天音は、静かに言った。
「私は玲司くんが犯人だと思ってる。でも、思ってるだけじゃ駄目だから。証拠を集めたい」
風が、二人の間を吹き抜けた。
この子は、僕の味方をしたいわけじゃない。真実を知ろうとしているのだ。そのことが、不思議なほど胸に沁みた。
「悠真くん」
「うん」
「私、協力する」
その言葉は、思っていたよりずっと重かった。
今の学校では、僕を信じることそのものが、リスクだった。天音は、それを全部分かった上で、ここに立っている。
「私は、悠真くんがそんなことをする人じゃないと思ってる」
喉の奥が熱くなった。泣くまいと歯を食いしばったのに、視界が滲んだ。
「……ありがとう」
それしか、言えなかった。
天音は小さく笑った。
「お礼はまだ早いよ。まだ何も証明できてないから」
そして、スマートフォンを握り直す。
「でも、一人より二人の方がいいでしょ?」
僕は頷いた。
「ああ」
あの日、僕には何もなかった。友達も。恋人も。信頼も。それでも――一人だけ、僕の隣に立ってくれた。それが、すべての始まりだった。




