第2話 翌朝、下駄箱に悪意が詰まっていた
昨日までの僕の日常は、たぶん、幸せだった。
笑えば誰かが笑い返してくれて、困っている友達がいれば手を差し伸べる。そんな毎日が続くことを、疑ったこともなかった。
隣には、幼馴染で恋人の高瀬美優がいた。親友の瀬戸大輝がいた。美優の親友の吉川奈緒も、いつも一緒だった。
母は病気で亡くなり、父は海外へ単身赴任中。祖父は認知症で入院している。家に帰っても、迎えてくれる人はいない。だから僕にとって、あの仲間たちは、ほとんど「家族」だった。
その全部が、一晩で消えた。
*
校門をくぐった瞬間、空気が違うと分かった。
誰も、僕に声をかけない。目を合わせようともしない。ひそひそと話す声が、僕が近づくと、ぴたりと止まる。
背中に、無数の視線が刺さっていた。
「……何なんだよ」
寝不足で神経質になっているだけだ。そう思い込もうとしていた。まだ、そんな余裕があった。下駄箱を開けて、手が止まった。上履きの中に、潰された紙パックが詰め込まれている。その下に、油性ペンの殴り書き。
――死ね。
――学校に来るな。
靴底には、画鋲が仕込まれていた。
「……なんで」
昨日まで、こんなことは一度もなかった。
怒りより先に、理解できないという感情が湧いた。悪意を向けられたことより、その理由がまるで見当たらないことが、怖かった。
顔を上げると、廊下の向こうに美優がいた。隣には大輝もいる。
助かった、と思った。この二人なら、この訳の分からない状況を、一緒に笑い飛ばしてくれる。根拠のない安堵が、胸に広がった。
「美優!」
振り返った美優と、目が合った。けれど、そこにあったのは、いつもの笑顔ではなかった。怯え。警戒。そして、拒絶。
期待が、音を立てて凍りついた。
「……来ないで」
「え?」
聞き間違いだと思った。聞き間違いであってほしかった。
「どういうことだよ、美優。説明してくれよ」
美優は答えない。代わりに、大輝が一歩前へ出た。
「それ以上、近づくな」
「大輝……?」
僕の親友だった男が、僕の前に立ちはだかっていた。その背中は、美優を守っていた。
僕から、美優を。
その事実が、うまく飲み込めない。
「お前が何をしたか、もう知ってる」
「何って……何の話だよ」
大輝の顔が歪んだ。怒っているのに、どこか泣きそうな顔だった。
「穂乃香のことだよ」
その名前を聞いた瞬間、背筋が冷えた。
「俺は本人から聞いた。あの夜、襲ってきたのはお前だったって。ストーカーなんて最初からいなかったんだ。お前が一人二役で、助けるふりをして仕組んだんだろ!」
「違う!」
喉が焼けるように熱い。
「僕は本当に助けただけだ!」
「じゃあ、この写真はなんだ!」
大輝がスマホを突きつけた。
画面に映っていたのは、僕が穂乃香の手を掴んでいる写真だった。穂乃香は目を見開いて、怯えきっている。まるで、僕が彼女を襲っている瞬間のように。
二人だけを切り取ったような、妙に窮屈な構図だった。けれどこのときの僕には、そんなことに気づく余裕はなかった。
「なんで穂乃香は、お前を怖がってるんだよ!」
言葉が出なかった。
誰が、あの夜の写真を撮った? どうして穂乃香は、僕を怖がっている? 思い返しても、心当たりは一つもなかった。
穂乃香とまともに話したのは、二学期が始まってすぐの頃に、一度きりだ。階段の踊り場で、抱えていたプリントをぶちまけてしまった彼女を、僕が手伝った。「ありがとう」と蚊の鳴くような声で言われて、「気にしないで」と笑って返した。それだけのことだ。
……ただ、そういえば、あの翌日から、彼女は僕と目を合わせなくなった。何故だろうと思ったが、それきり忘れていた。
何一つ、分からなかった。ただ、大輝の表情だけは、はっきり分かった。
僕を、信じていない。
潔白を主張すればするほど、言い訳にしか聞こえなくなる。そんな見えない壁の中に、僕は閉じ込められていた。
「美優……」
最後の希望に縋るように、彼女を見た。
「お前まで、僕を信じないのか?」
美優の唇が震えた。
「……もう、やめて」
「美優」
「私に近づかないで」
足元の床が、抜けたような感覚だった。
「あなたとなんか……もう、関わりたくない」
それが本心でないことを、心のどこかで祈っていた。けれど、美優の目は、もう僕を見ていなかった。
彼女は大輝の背後へ下がる。大輝が庇うように立つ。
昨日まで隣にいた恋人が、今は僕から逃げている。昨日まで親友だった男が、僕を敵として見ている。
昨日と今日の間に、何があった。僕は何も変わっていないのに。
「……なんでだよ」
誰に聞かせるつもりもなく、呟いた。そのとき、人垣の向こうに、一人の男子生徒がいることに気づいた。
御堂玲司。同じ中学から上がってきた、サッカー部の一年だ。
こちらを見ていた。けれど、僕と目が合う直前、彼は何事もなかったように視線を逸らした。そのときの僕は、まだ知らなかった。この騒動の裏に、誰がいるのか。何故、僕の周りの人間が、ここまで同じ方向を向いているのか。
ただ一つ分かっていたのは――僕は、昨日までいた場所を、すべて失ったということだった。




