第19話 半年後の春
季節は巡った。あの事件から半年が過ぎ、校庭には春の風が吹いていた。
桜が咲き始め、校舎の窓から差し込む光も、あの頃とは違って穏やかに感じられる。あの頃、僕はこの校舎を敵の巣窟のように感じていた。今は、同じ廊下を歩いても、足取りが軽い。
グラウンドでは、玲司がサッカー部員たちと練習していた。
謹慎が明けた日から、玲司は、教室で、廊下で、部室で、頭を下げ続けた。返事をもらえない日のほうが、ずっと多かったと聞く。それでも彼は、逃げなかった。
その横顔には、かつての作り物の笑顔ではなく、不器用でも本物の表情が浮かんでいる。
練習の合間に、美波がタオルを差し出した。玲司は「サンキュ」と受け取り、二人は何か言い合って笑う。その距離は、以前より少しだけ近くなっていた。
*
昼休みの教室。
「悠真~、聞いてくれ。今日さ、美優に『おはよう』って言ったら、『うん』しか返ってこなかった。……うん、て。それだけ」
机に突っ伏した大輝が、僕の顔を覗き込んでくる。剣道部のジャージの袖をまくった腕に、資料集が当たっているが、気にする様子はない。
「前は笑ってくれたのに、最近の『うん』は、冷たさすら感じる。俺、なんかやらかした?」
「さあ。自分で考えたら」
「奈緒にも聞いたんだよ。そしたら『自分で考えなよ、鈍感』って蹴り入れられた。あいつ、最近暴力的すぎない? 美優が冷たい。奈緒も怖い。俺の味方、どこ?」
呆れながらも、僕の口元は自然と緩んでいた。こうして愚痴をこぼしてくる大輝に、あの頃の親友が戻ってきている気がして、胸が温かくなる。
もっとも、屋上で向き合ったあの日から、すぐにこうなれたわけではない――言葉を選びすぎて黙り込んだ昼休みも、昔の調子で軽口を叩きかけて飲み込んだ放課後も、幾度となく重ねてきた。
窓の外では、中庭の噴水が午後の光を弾き、渡り廊下を数人の生徒が通り過ぎていく。その日常の風景の中に、僕と大輝が自然に並んでいること自体が、失われたものを少しずつ取り戻している証だった。
廊下の窓際のベンチには、蓮さんと穂乃香が並んで座っている。穂乃香が差し出した弁当箱を、蓮さんが開けていた。二人の間に、小さな笑い声がこぼれる。
穂乃香の肩が強張ることは、まだ時々ある。けれど、蓮さんがそばにいると、その緊張が少しずつ解けていくのが分かった。あの夜の恐怖は、消えたわけじゃない。けれど彼女は、それを一人で抱え込まなくてもよくなったのだ。
教室の入口から、天音が、小さな箱を持って歩いてくる。手作りのクッキーらしい、甘い匂いが微かに漂っていた。
目が合うと、天音は控えめに微笑んだ。その瞬間、僕の胸が、とくん、と小さく鳴った。
いつからだろう。この笑顔を見ると、心が落ち着くだけじゃなく、少しだけ、落ち着かなくなるようになったのは。
「お、天音ちゃん! 美優の好きなもの、何か知らない? 食べ物で攻めようと思う」
大輝が顔を上げると、天音は困ったように笑って、僕の隣の空いた椅子を引いた。あの日、たった一人で僕を信じてくれた少女は、今も変わらず、そばにいる。
*
蓮さんは三年生に、僕たちは二年生になった。
玲司は少しずつ信頼を取り戻し、今ではサッカー部の中心選手の一人だ。美波は水泳部を続けながら、サッカー部のマネージャーも手伝って、玲司を支えている。
美優は、相変わらず大輝に「うん」しか返さない。けれど先週、二人で映画を見に行ったらしい。帰ってきた大輝が、頼んでもいないのに、その話を延々と聞かせてきた。僕は苦笑するしかなかった。
けれど、その苦笑の奥に、もう痛みはなかった。美優が笑っている。それを心から「よかった」と思える自分がいることに、僕自身が、一番驚いていた。
穂乃香は、蓮さんがそばにいることで、あの夜の恐怖と、少しずつ向き合えるようになっている。天音は、「お兄ちゃんは家で穂乃香ちゃんの話ばっかりだし、穂乃香ちゃんは学校でお兄ちゃんの話ばっかりなの。両方から聞かされる私の身にもなってほしいな」と、半ば呆れたように笑っていた。
家のことも、少しだけ変わった。祖父は今も病院で穏やかに過ごしていて、見舞いに行くと、僕の名前を呼べない日が増えたけれど、手を握ると昔と同じ顔で笑ってくれる。父も、夏には海外の仕事に区切りをつけて戻れそうだと、先週の電話で言っていた。誰もいなかったあの家に、また人の声が戻ってくる。そう思うと、胸の奥が少し温かくなった。
◆天音side◆
悠真くんは、勇気のある人だと思う。
人は、勇気がくじけてしまうと、本当はできるはずのことが、できなくなる。あの事件のあと、私は、そういう姿をたくさん見てきた。
もう一度、誰かを信じる勇気。
自分の過ちを認めて、謝る勇気。
犯した罪から目を逸らさずに、向き合う勇気。
一度壊れた関係を、新しく結び直す勇気。
そして、自分を傷つけた人を、許す勇気。
悠真くんは、そのどれからも逃げなかった。それだけじゃない。悠真くんが前を向くたびに、周りのみんなも、少しずつ自分の勇気を取り戻していった。玲司くんが頭を下げ続けられたのも、大輝くんがまた悠真くんの隣で笑えるようになったのも、きっと、そのおかげだ。
悠真くんは、人を勇気づけられる人なのだ。
私は、そんな悠真くんを、心から尊敬している。きっと、みんなも同じ気持ちだと思う。
……尊敬、だけじゃないけれど。それは、まだ内緒。




