第16話 玲司の部屋の前で
それからさらに一週間ほど、玲司は学校に姿を見せなかった。
玲司には、学校から自宅謹慎が言い渡されていた。警察も動いていて、穂乃香をつけ回していた男も、後日、警察に見つかったと聞いた。事件が明らかになったことで、学校の空気は少しずつ元に戻り始めていた。
けれど、すべてが以前のようになったわけではない。
僕自身もそうだった。
玲司に対する怒りは、まだ消えていない。あいつのせいで、僕は大切なものをいくつも失った。美優との関係も、大輝との友情も、一度は全部壊れた。
夜、ふと思い出すたびに、腹の底から熱いものが込み上げてくる。
それでも――。
玲司がこのまま学校から消えてしまえば、それで終わりなのだろうか。僕には、どうしてもそうは思えなかった。勝ったはずなのに、心が晴れない。
その理由が、自分でもうまく説明できなかった。自分が孤立した時、天音がたった一人で僕を信じてくれた。その一人がいたから、僕はもう一度立ち上がることができた。
だったら。
今の玲司にも、誰か一人くらいは必要なのではないだろうか。憎んでいる相手のために、何故こんなことを考えているのか。自分でも矛盾していると思う。
けれど、あの絶望の底を知っているからこそ、放っておけなかった。そう思って、僕は玲司の家へ向かった。
*
御堂家は、駅から歩いて少し離れた住宅街の中にあった。表札には「御堂」と書かれている。僕は玄関の前に立ち、しばらくチャイムを押すことができなかった。
玲司に会って、何を話すのか。
謝らせるのか。
責めるのか。
それとも、ただ学校へ戻れと言うのか。自分でもよく分からなかった。顔を見た途端、怒りが爆発してしまうかもしれない。
そんな自分が怖くもあった。けれど、ここまで来た以上、帰るわけにはいかない。僕はチャイムを押した。
ピンポーン。
しばらくして、玄関の扉が開いた。出てきたのは、玲司の母親だった。僕の顔を見ると、驚いたように目を見開いた。
「……あなたは」
「玲司くんと話がしたくて来ました」
玲司の母親は、何かを言いかけて口を閉じた。そして、小さく息を吐いた。
「……上がってください」
その声には、拒絶も歓迎もなかった。ただ、疲れ切った人の声だった。リビングに通されると、玲司の母親はお茶を出してくれた。
けれど、僕たちの間には重い沈黙が続いた。湯呑みから立ちのぼる湯気を見つめながら、僕は、この家の空気の重さを肌で感じていた。
「……あの子、この数週間、ずっと部屋から出てこないんです」
玲司の母親が、ぽつりと言った。
「食事もほとんど取らなくて……」
僕は黙って聞いていた。
「学校から連絡があって、何があったのかも全部聞きました。あの子があなたにしたことも……」
玲司の母親は、目を伏せた。
「止められませんでした。あの子の性格を分かっていたはずなのに、忙しいことを言い訳にして……ちゃんと向き合ってやれなかった」
その声には、深い後悔が滲んでいた。加害者の親である前に、この人もまた、傷ついている一人なのだと気づいた。
「お母さんを責めるつもりはありません」
僕は立ち上がった。
「これは玲司くんと僕の問題ですから」
そう言って、二階へ続く階段を上った。一段ごとに、鼓動が速くなる。玲司の部屋の前に立つ。
ドアは閉まっていた。
「玲司!」
返事はない。
「僕だ。悠真だよ。話があって来た」
しばらくして、部屋の中から声がした。
「……何しに来やがった」
「話をしたいだけだ」
「嘘だ!」
声が荒くなる。
「俺を殺しに来たんだろ!」
「ヤクザじゃあるまいし、殺すわけないだろ」
「信用できるか!」
僕は思わずため息をついた。かなり追い詰められている。怒鳴り声の奥に、怯えが透けて見えた。
あんなに堂々と人を操っていた男が、今は部屋の中で、僕の足音におびえている。その落差が、何故だか胸に痛かった。
「分かった。じゃあ、ドア越しでいい」
「……何だよ」
「僕はお前を学校に連れ戻しに来た」
「……は?」
しばらく沈黙が続いた。
「何を訳の分からないこと言ってんだ。学校に戻れるわけないだろ」
「どうして?」
「お前にあんなことしたんだぞ!」
玲司の声が響いた。
「学校中が俺を敵視してる。誰一人として俺の味方なんかいない」
「だから、戻るんだよ」
「ふざけんな!」
怒鳴り声が返ってくる。
「俺はお前の生活を壊したんだぞ! 評判を地に落として、美優まで……!」
声が途切れた。
「……それなのに、何でそんなこと言えるんだよ」
その声は、責めているようでいて、縋っているようにも聞こえた。僕はしばらく黙っていた。そして、ずっと聞きたかったことを口にした。
「玲司」
「何だよ」
「どうして僕をここまで貶めたんだ?」
ドアの向こうが静かになった。やがて、玲司の声が聞こえた。
「……お前が眩しすぎたんだよ」
その言葉は、今まで聞いたことのないほど弱かった。
「中学の時からだ」
玲司は続けた。
「お前が教室に入ってくるだけで空気が変わる。美優が笑う。みんなが勝手にお前の周りに集まる」
声が少しずつ震えていく。
「俺だって努力してた。勉強も、部活も、人付き合いも……」
一度、息を吸う音がした。
「でも、誰も見てくれない」
僕は黙って聞いていた。そんなふうに思われていたなんて、想像したこともなかった。僕はただ、目の前の人と笑い合っていただけだ。
それが、誰かの心に影を落としていたなんて。
「いつも、お前の影が俺に差すんだよ」
玲司は笑った。
乾いた、嫌な笑いだった。
「だから、策を考えてる間だけは、お前が俺を見てる気がした」
僕の胸が詰まった。
「お前が俺を恐れれば、俺がお前の中で一番になれる。そう思ったんだ」
しばらく沈黙が続いた。
「最低だろ」
玲司の声が小さくなる。
「分かってるよ。そんなこと……」
僕はドアを見つめた。
怒りはあった。
今でも、許したわけではない。けれど、玲司の言葉を聞いていると、あの時の自分と重なる部分があった。誰にも信じてもらえない。
誰にも見てもらえない。そう思い込んでしまった人間が、どんどん孤立していく。僕も、一歩間違えれば同じだった。
天音がいなかったら。
蓮さんが、由美子さんが、いなかったら。僕もどこかで、誰かを恨むことでしか自分を保てなくなっていたかもしれない。
「玲司」
「……何だよ」
「僕も、誰にも信じてもらえなかった時は絶望した」
返事はない。
「でも、天音だけは僕を信じてくれた」
僕は続けた。
「たった一人だった」
ドアの向こうで、何かが動いた。
「でも、その一人がいたから僕は立ち直れた」
僕はドアに手を置いた。
「玲司。今のお前も同じなんじゃないのか?」
「……」
しばらくして、玲司が呟いた。
「……だけど、今の俺には誰一人いねえよ」
「本当にそうか?」




