第15話 それぞれの「ごめん」
それから数日、僕は美優たちと、ほとんど話さなかった。教室で目が合うことはある。けれど、どちらも何も言わない。
このままではいけない、と思った。仲直りできるかは分からない。以前のように戻れるとも思わない。けれど。
「嫌なまま終わるのは、嫌だ」
許せない気持ちと、それでも切り捨てたくない気持ち。矛盾したその両方を抱えたまま、前に進むことに決めた。
だから、三人を屋上に呼んだ。
◆美優side◆
放課後の教室で、スマホが震えた。悠真からだった。
『話がしたい。屋上に来てほしい。大輝と奈緒も一緒に』
画面を見つめたまま、指が動かなかった。あの日から、悠真の名前が表示されるたびに、胸がきゅっと縮む。今は、それが罪悪感なのだと分かっている。あの朝、私はどうして信じなかったのだろう。何度も、その問いを繰り返してきた。
理由なら、いくつも挙げられる。穂乃香ちゃんが、本当に怯えた顔をしていたこと。大輝が「本人から聞いた」と言ったこと。玲司くんが、泣きそうな顔で「僕も信じたくないけど」と写真を見せてくれたこと。女の子の「怖かった」を疑うなんて、してはいけないことだと思い込んでいたこと。
でも、本当の理由は、たぶん、そのどれでもない。
悠真は、誰にでも優しかった。落ちた物を拾い、困っている子には手を差し伸べて、重い荷物を半分こにして背負ってしまう人だった。それが好きだったのに、いつからか、怖かった。私の知らないところで、私の知らない誰かを、同じ顔で助けているんじゃないかと。
だから写真を見た瞬間、頭のどこかで思ってしまったのだ。――ああ、やっぱり、私の知らない悠真がいたんだ、と。
幼馴染なのに。誰より知っていたはずなのに。信じるより先に、疑うほうへ手が伸びていた。返信の文字を打つ。消す。また打つ。
『行く』
たった二文字を送るのに、五分かかった。
◆大輝side◆
屋上へ向かう階段で、俺は何度も足を止めた。
剣道なら、相手が何を仕掛けてくるか、竹刀の先を見れば分かる。なのに、悠真のことだけは、何一つ見えていなかった。
あの朝、穂乃香の言葉を、俺はそのまま信じた。泣きながら「あの人が」と繰り返す姿を前にして、疑うほうが残酷だと思ったからだ。写真もあった。美優が青い顔で震えていた。守らなきゃ、と思った。そのとき俺の頭にあったのは美優のことばかりで、悠真の顔は、どこにもなかった。
親友なら、まず悠真の話を聞くべきだった。殴り合ってでも、聞くべきだった。分かっていたのに、聞けなかった。聞いて、本当だったらと思うと、怖かったのだ。信じていた分だけ、裏切られるのが。
鉄扉の前で、拳を握る。殴られる覚悟なら、できている。
◆悠真side◆
夕方の屋上には、少し冷たい風が吹いていた。
最初に大輝が現れた。その後ろから美優。最後に奈緒。三人とも、どこか警戒している。罪悪感と、責められることへの恐れが、それぞれの肩に重く乗っているのが分かった。
「悠真。俺たちを責めるために呼んだのか?」
大輝が言った。
「違う」
「じゃあ、何だよ」
「話をしたかっただけ」
僕は、三人を見た。
「正直に言うと、前みたいに戻れるとは思ってない。でも、このまま嫌な気持ちを抱えて高校生活を続けるのも、嫌なんだ」
風が吹いた。
最初に、美優を見た。
「美優。……最初は、本当に辛かった。一番信じてほしかった人に、信じてもらえなかったから」
美優の肩が、僅かに揺れた。
「でも、あの日の僕は、否定するばかりで、みんなの混乱にちゃんと向き合えなかった。そこは、僕も反省してる。……それと、僕を信じてくれなかったことは、別の話だけど」
「……なんで、悠真が謝るの?」
美優の声が震えた。
「私が……」
言葉が続かない。僕は、急がなかった。
「美優。玲司に騙されてたって分かっても、僕のこと、憎い?」
美優は顔を上げた。しばらく、何も言わなかった。やがて、小さく言った。
「……憎くない」
その言葉が、静かな屋上に落ちた。
「憎いって言った方が、楽だったと思う。でも、違った」
彼女の目に、涙が浮かぶ。
「玲司の話を聞いた時、頭が真っ白になった。悠真が本当にそんなことするのかなんて、ちゃんと考えなかった。幼馴染だったのに。誰より知ってたはずなのに」
一粒、涙が落ちた。
僕は何も言わなかった。言えば、その痛みを取り上げてしまう気がした。彼女が自分で向き合うべき言葉を、ただ静かに受け止めた。
「ごめん……。ごめんって言って済むことじゃないのは、分かってる。私は、自分で、悠真を疑った」
*
奈緒が、口を開いた。
「私も……。美優を守りたかった。それは本当。でも、そのために悠真を追い詰めた」
奈緒の目が潤む。
「玲司が悪かったからって、私がやったことまで、正しくなるわけじゃない」
「そうだね」
僕が頷くと、奈緒は苦笑した。
「……あんた、そうやって普通に返すの、ずるいよ。もっと怒ってくれた方が、こっちは楽だったのに」
罰を与えてもらったほうが、まだ救われる。奈緒の言葉には、そんな切実さがにじんでいた。
僕は、少し考えた。
「怒ってるよ」
奈緒が顔を上げる。
「今でも?」
「うん」
正直に答えた。取り繕えば、それは嘘になる。嘘の許しは、きっと三人を苦しめるだけだ。
「でも、ずっと怒っていたいわけじゃない」
奈緒は、何も言えなくなった。
*
最後に、大輝が僕の前に立った。
「俺は、お前に殴られる覚悟してた」
拳を、強く握っている。
「親友を裏切ったんだ。それくらい、されても仕方ないと思ってた。俺は、お前を信じなかった。それは消えない。だから、簡単に許してくれとは言わない」
「うん。僕も、すぐに元通りになれるとは思ってない」
「……そうか」
沈黙が流れた。
やがて、僕は言った。
「でも、一つだけ言わせてくれ」
「何だ?」
僕は、美優を見た。
何年も隣にいた人。一番大切だった人。その気持ちが、まだ完全には消えていないことを、自分でも分かっていた。
それでも。
「もう、僕は美優の隣には立てない。美優を見るたびに、あの日の言葉を思い出してしまうから。その痛みを抱えたまま隣に立ち続けるのは、今の僕にはできない」
美優が、息を呑んだ。
「だから、これからは、大輝が支えてやってくれ。……決めるのは、美優自身だけど」
大輝は、言葉を失った。
「お前、本気で……」
「ああ。僕はもう、美優を責め続けたくないんだ」
責め続ければ、自分が苦しくなる。その苦しさから、僕も、美優も、解き放ちたかった。美優は顔を覆った。肩が震えている。奈緒も、目を逸らした。大輝は、しばらく黙っていた。
「……分かった。お前の気持ちは、受け取る」
低い声だった。
「でも、俺も簡単には忘れない。忘れないで、これからちゃんと向き合う」
「それでいいよ」
*
屋上を出る前に、奈緒が振り返った。
「悠真。これからは……普通に話してもいい?」
「もちろん」
「……そっか」
奈緒は、小さく笑った。ずっと張りつめていたものが、ほどけたような笑顔だった。大輝も、僕の肩を軽く叩いた。
「じゃあな」
「うん」
最後に、美優が残った。
二人の間には、長い沈黙があった。言いたいことは、お互いに山ほどある。けれど、どれも言葉にした途端に、軽くなってしまいそうだった。
「悠真」
「うん」
「……ありがとう」
それだけだった。
美優は先に、屋上を出ていった。僕は、その背中を見送った。
以前のように、幼馴染に戻れたわけではない。恋人に戻ったわけでもない。けれど、完全に失ったわけでもない。
今は、それで十分だった。
*
屋上に一人残って、空を見上げた。ずっと信じてもらえなかった。何を言っても疑われた。その時間は、消えない。傷も、残っている。けれど、天音がいた。蓮さんがいた。由美子さんがいた。穂乃香がいた。
そして今日、美優たちとも、もう一度話すことができた。
「……少しずつでいいんだ」
誰に言うでもなく、呟いた。以前の僕なら、「全部、元通りになればいい」と願っただろう。でも、今は違う。壊れたものを無理に元へ戻すのではなく、もう一度、一から作っていけばいい。
その方がきっと、本当に強い関係になる。夕日が沈み、屋上に夜の色が広がっていく。階段へ向かう僕の背中には、もう、以前のような孤独はなかった。




