第14話 眼鏡の下
駅前のラーメン店。カウンターに、四人で並んで座った。蓮さんは大盛りの味噌ラーメン。天音は塩。穂乃香は、メニューを何度も見比べていた。
「悠真くん、何にするの?」
「僕は醤油かな」
「じゃあ、私も」
穂乃香がすぐに言った。天音が、水を一口飲む。なんとなく、拗ねたような顔に見えたのは、気のせいだろうか。
「……真似しなくてもいいんじゃない?」
「え?」
「なんでもない」
蓮さんだけが、ニヤニヤしていた。
「お兄ちゃん」
「何も言ってねえだろ」
「顔が言ってる」
四人の前に、ラーメンが並んだ。湯気が立ちのぼった瞬間、天音の眼鏡が、真っ白に曇った。
「わっ」
慌てて眼鏡を外し、ハンカチで拭き始める。何気なくそちらを見て、僕は思わず息を呑んだ。
眼鏡を外した天音は、驚くほど整った顔立ちをしていた。長い睫毛に、澄んだ大きな瞳。いつも黒縁の眼鏡と俯きがちな前髪に隠れていて、教室の誰も、こんな顔だとは知らなかっただろう。
「……悠真くん? どうしたの?」
「い、いや。眼鏡なしの天音、初めて見たなって」
「見なくていいよ」
天音は真っ赤になって、慌てて眼鏡をかけ直した。
「こいつ、昔からそうなんだよ」
蓮さんが、味噌ラーメンをすすりながら言った。
「目立つのが苦手だからって、わざと地味にしてんだ。眼鏡外したら、結構すごいのにな」
「お兄ちゃん!」
穂乃香が、目を丸くして、こくこくと頷いた。
「天音ちゃん、本当にきれいだった……」
天音は、湯気の中に顔を隠してしまった。僕も、自分の胸が小さく鳴ったことに気づかないふりをして、箸を持ち直した。
「いただきます」
穂乃香が一口食べて、目を細める。
「……おいしい」
その顔を見て、思った。
事件の前の僕は、こんな普通の時間を、当たり前だと思っていた。友達と食事をする。笑う。くだらない話をする。それだけのことが、今はとても大切に思える。
失って初めて分かった。当たり前は、当たり前じゃなかったのだと。
「悠真」
蓮さんが、不意に声をかけた。
「これから、どうする? 美優とか、大輝とか、奈緒とか」
箸が止まった。
「別に、今すぐ仲直りしろって言ってるわけじゃねえ。玲司がいなくなったからって、壊れたものが全部元に戻るわけじゃないからな」
「……分かってます」
自分の声が、少し掠れていた。
「焦らなくていいよ、悠真くん」
天音が、静かに言った。
「悠真くんの味方だって、最初は私一人だったでしょ? それが、少しずつ増えていった。だから、怖がらなくていいと思う。悠真くんが話したいって思えた時に、ちゃんと向き合えば、きっと伝わるよ。……私も、そばにいるから」
確かに、最初に僕の隣に立ってくれたのは、天音一人だった。そこから蓮さんが信じてくれて、由美子さんが食卓に迎えてくれて、穂乃香がまた笑ってくれるようになった。手を伸ばせば、繋がり直せることを、僕はもう知っている。
美優たちと向き合うことを、僕はずっと恐れていた。手を振り払われるのが怖くて、一歩も動けずにいた。けれど、隣に天音がいてくれるなら。そう思うと、肩に入っていた力が、ふっと抜けた。
逃げたままで終わらせたくない。美優と、大輝と、奈緒と、ちゃんと話そう。胸の中で、小さく、けれどはっきりと、そう決めた。僕は、少し伸びかけた麺に箸をつけた。
*
食事のあと、駅へ向かう帰り道。
「天音、ありがとう」
「何が?」
「今回のこと」
「またそれ?」
天音は、少し困った顔をした。
「私は、悠真くんを助けたいと思ったからやっただけ。恩なんて、思わなくていいよ。私が勝手にやったんだから」
本当に、それだけなのだろうか。そう思ったけれど、その先を考えるのが、今の僕には、まだ少し怖かった。
「……うん。でも、天音がいてくれて、本当によかった」
天音の歩みが、一瞬止まった。
「……うん」
それだけ答えて、また歩き出す。街灯の下で、天音の耳が赤く見えた。寒さのせいだろう、と僕は思った。
◆蓮side◆
店の前で三人と別れたあと。穂乃香は、駅の向こうへ伸びる暗い夜道の手前で、足を止めていた。街灯の少ない道を見つめる指先が、小さく震えている。あの夜以来、穂乃香は、暗い道が怖かった。
「……穂乃香」
蓮が、声をかけた。
「送る」
「え? でも……」
「俺の家も、そっちの方向だ。ついでだ、ついで」
視線を逸らしたまま、ぶっきらぼうに言う。耳が、ほんの少しだけ赤かった。穂乃香は戸惑った顔をして、それから、小さく頷いた。
「……お願い、します」
蓮が穂乃香と初めて話したのは、悠真の無実を証明するために動き回っていた、あの頃だった。
事件の夜のことを尋ねられて、穂乃香は震える声で、自分の覚えている限りのことを、必死に伝えようとした。小さな体で、恐怖に負けまいと前を向こうとするその姿に、蓮は一目で心を奪われた。
――この子を、守ってやりたい。
それが恋だと気づくまでには、少し時間がかかった。
その夜を境に、蓮は、部活のない日はもちろん、練習を早めに切り上げてまで、穂乃香を家まで送るようになった。暗い夜道を並んで歩きながら、くだらない話をする。大げさな身振りで笑わせると、穂乃香は最初こそ遠慮がちに、やがて、本当に楽しそうに笑うようになった。
「蓮さんと一緒だと、暗い道も怖くないです」
ある夜、穂乃香が小さな声で言った。蓮は「そうか」としか返せなかった。心臓の音がうるさすぎて、それ以上、言葉が出てこなかったのだ。
穂乃香もまた、いつの間にか、蓮の隣が、一番安心できる場所になっていた。




