第12話 断罪の職員室
蓮さんから、『三浦、落ちた』とだけ連絡が来たのは、五時間目のあとだった。
放課後。僕は穂乃香と並んで、廊下を歩いていた。
穂乃香の足は、まだ震えていた。けれど、もう俯いてはいなかった。
「悠真くん」
「ん?」
「私、自分で話す」
「無理しなくていいよ」
「ううん」
彼女は、首を横に振った。
「私が間違えたせいで、悠真くんがずっと苦しんだんだから」
廊下には、下校前の生徒たちが大勢いた。穂乃香は、その真ん中で立ち止まった。
「あの……聞いてください」
声は、震えていた。何人かが、振り返る。
「私をストーカーから助けてくれたのは、この人です」
ざわめきが起きた。
「この人は、悪くありません。……私が、思い込んでいたんです」
玲司のせいにするより、自分の言葉で話すことを選んだのだと思った。
「でも、悠真のマッチポンプだって話じゃ……」
どこかから、声が上がる。
穂乃香は、怯みかけた。けれど一度、目を閉じて、それから開いた。
「私も、そう思ってました」
廊下が、静まる。
「でも、思い出したんです。あの夜、私の前に立って、両手を広げてくれた背中。震えていたけど、逃げませんでした」
「……」
「間違えていたのは、私です」
廊下の空気が、変わった。
拒絶ではない。迷いだった。
守られる側だった少女が、今、自分の足で立っている。その横顔を見ていたら、目の奥が熱くなった。
「穂乃香さん」
静かな声が、割って入った。保健室の神崎先生だった。
「よく頑張りましたね。少し、座りましょう。落ち着いた状態で、もう一度、お話を聞かせてください」
その隣には、穂乃香のお母さん――水野朋子さんが立っていた。
「悠真くん」
朋子さんは、僕に向かって、深く頭を下げた。
「由美子さんから、あなたの手紙を読ませてもらいました。……あの子を、助けてくれて、ありがとう」
何か言おうとして、言葉が出なかった。
「これから先生方に、全部話します。あなたにも、聞いていてほしいの」
僕は、頷いた。
握りしめた拳の中で、手のひらが汗ばんでいた。
*
職員室の前まで来たとき、中から、聞き慣れた声がした。
「先生、僕だって辛いんです。穂乃香さんが、あいつに騙されてしまって……」
御堂玲司の声だった。
震えるような、悲しげな声。一片の隙もない、完璧な演技だった。
神崎先生が、扉を開けた。
「失礼します。少しよろしいですか」
担任の田中先生が顔を上げ、玲司が振り返る。
その視線が、僕と、その隣に立つ穂乃香を捉えて、止まった。
「先ほど、保健室で、穂乃香さんから話を聞きました」
神崎先生は、静かに続けた。
「穂乃香さんは、事件の夜の記憶が混乱していたと話しています。今日、思い出したことも」
「そ、それは……」
玲司が、すぐに口を挟む。
「穂乃香さんは混乱してるだけです! 悠真に誘導されたんですよ。屋上での写真だって、皆が見てます。泣かされていたじゃないですか!」
田中先生の眉が、動いた。証言だけでは、判断がつかない。そんな顔だった。
玲司の口元が、ほんの一瞬、緩む。
そのとき。
「失礼します」
職員室の扉が開いた。天音だった。
「これまでの経緯を、時系列でまとめました。見ていただけますか」
彼女は、机の上に、何枚もの資料を広げた。
「まず、噂です。悠真くんの悪い噂が学年に流れ始めたのは、四月の終わりからです。事件の、半年も前です」
天音の指が、グループチャットの画面を示す。
「そして、その発信元をたどると、必ず同じ二人に行き着きます。御堂くんと、三浦くんです」
「偶然だ!」
玲司が叫んだ。
「僕は、ただ雑談してただけです。それだけで犯人扱いですか?」
「はい。それだけなら、そうです」
天音は、まっすぐに玲司を見た。
「だから、もう一つ。先生方に、見ていただきたいものがあります」
彼女が取り出したのは、二枚の写真だった。
一枚は、学校中に出回った、あの夜の写真。僕が穂乃香の手を掴み、穂乃香が怯えている。二人だけを切り取った、窮屈な構図。
そして、もう一枚。
「こちらが、元の写真です」
同じ場面だった。けれど、右の端に、もう一つ、黒い人影が写っていた。
逃げていく、パーカーの男の背中だった。
「……え」
田中先生が、息を呑んだ。
「あの夜、悠真くんは、穂乃香さんを襲った犯人だと言われています。ストーカーと、助けた人を、一人で演じた自作自演だと」
天音の声は、静かで、揺れていなかった。
「でも、この写真の中には、悠真くんと、逃げていく男が、同時に写っています。悠真くんは、同じ瞬間に、二人存在したことになります」
職員室が、静まり返った。
「この写真を切り取ったのは、誰ですか。都合の悪い部分を、切り落とせたのは」
「し、知らない……僕は、その写真を撮っていない!」
玲司の声が、初めて、裏返った。
「そうですか」
天音は、頷いた。
「では、この元データが、どこから来たのか。もう一人、証人を連れてきます」
扉の向こうで、蓮さんの声がした。
「先生、入ります」
蓮さんが、三浦を連れて入ってきた。
三浦の顔は、真っ青だった。
玲司が、振り返る。
「三浦……?」
三浦は、俯いた。
「……ごめん」
「何を言ってるの?」
「俺……もう、無理だ」
蓮さんが、三浦の肩に手を置く。
「全部、話せ」
三浦は、震える声で話し始めた。
「悠真の噂を広めたのは……玲司です。四月の終わりから」
職員室の空気が、凍りついた。
「九月に、悠真が穂乃香のプリントを拾ってやった日があって……玲司は、それを使ったんです」
「使った?」
蓮さんが、先を促す。
「次の日、俺に捨てアカウントを作らせて、穂乃香にメッセージを送らせました。『昨日は穂乃香のプリント拾えて良かったよ。ずっと見てるよ』って。送り主の名前は、書かずに」
隣で、穂乃香の肩がびくりと跳ねた。
「その後も、穂乃香が一人で帰る日や、着ていた服のことを、毎日みたいに送らされました。悠真が穂乃香をつけ回してるって、穂乃香自身に思い込ませるために」
「嘘だ!」
「嘘じゃない!」
三浦も、叫び返した。
「穂乃香につきまとってたストーカーも、玲司が金を払って雇った男です! 悠真がいつも通る道と時間を選んで、その男に、穂乃香を襲わせました。俺は、穂乃香の帰る時間を伝える役でした!」
「あの夜の写真を撮ったのも、玲司です。右端に男が写ってたから、『二人だけに切れ』って元のデータを送られてきて……切ったのは、俺です」
蓮さんが、三浦のスマホを、担任の前に置いた。
「元の写真のデータは、あの夜のうちに、玲司から三浦に送られてる。『拡散用に、二人だけに切って使え。元は消せ』ってメッセージ付きでな」
画面には、玲司のアカウントからのメッセージが、日付も文面も、そのまま残っていた。
穂乃香が、震える手で、自分のスマホを差し出した。
画面には、見覚えのある一文が残っていた。『昨日は穂乃香のプリント拾えて良かったよ。ずっと見てるよ』。三浦のスマホに残る玲司の指示と、一字一句、同じだった。
担任が、画面を確認する。神崎先生も、資料を見る。三浦の証言と、天音の時系列と、照らし合わせる。
一つ残らず、一致していた。
「……御堂」
担任の声は、低く、重かった。
「スマホを、見せなさい」
玲司は、何も言えなくなった。
頭の中が、真っ白だった。何十もの嘘を積み上げてきたはずなのに、どれ一つ、今は役に立たない。
仮面が、初めて、音を立てて剥がれ落ちた。
玲司が、何かを言おうとして、口を開く。けれど、もう誰も、以前のようには聞いていなかった。
担任は、重い表情で顔を上げた。
「この件は、保護者の方々と、警察にも相談した上で、きちんと調べさせてもらう」
玲司の膝が、がくりと折れた。
僕は、それを、静かに見ていた。
喜びは、なかった。ざまあみろ、という気持ちも、不思議なほど湧いてこなかった。
ただ、長い間、握りしめていた拳が、ようやく、ゆっくりとほどけていくのを感じていた。




