第11話 印象は、事実より早い
◆玲司side◆
穂乃香の記憶が戻った。悠真を救うための、一番大きな証言だ。その知らせを、玲司は、教室の窓際で聞いた。
「……そうか」
表情は、変わらなかった。けれど内側では、思考が猛烈な速さで回っていた。
まずい。だが、まだ終わっていない。記憶が戻ったところで、それを「信じるかどうか」を決めるのは、周りの人間だ。
三浦がスマホを差し出す。画面には、泣いている穂乃香と、その前に立つ悠真が写っていた。
玲司は、薄く笑った。
「これでいい」
「……何が?」
美波が、玲司を見ていた。
「人は、記憶より、目の前のものを信じるから」
その一言が、ひどく冷たく聞こえた。昨日まで、玲司の言葉は温かいものだと思っていたのに。
「でもさ……穂乃香は、本当に思い出したんだよ。あれ、演技には見えなかった」
玲司は、美波を見た。
「美波。僕を、信じてくれるよね?」
昨日までなら、すぐに頷けた。けれど今日は、屋上で見た穂乃香の顔と、悠真の背中が、頭から離れない。
「……うん」
美波は、頷いた。
「私は……玲司を信じる」
その声は、以前よりずっと弱かった。自分自身に、言い聞かせるような声だった。
*
写真は、その日のうちに、学校中へ流れた。
『屋上で、悠真が穂乃香を泣かせていた』
そう受け取れる一枚だった。事情を知らない生徒たちは、またざわめき始める。
「やっぱり……」
「穂乃香、泣いてるじゃん」
「悠真が、また何かしたんじゃないの?」
玲司が狙っているのは、真実ではない。印象だ。そして印象は、事実よりずっと早く広がる。
人は、考えるより先に、感じたものを信じてしまう生き物だ。そのことを、誰よりも冷静に利用してきたのが、玲司だった。
*
玲司は、あの夜のことを思い出していた。計画が動き出したのは、九月の初めだった。
繁華街のゲームセンターで、玲司は一人の男に声をかけた。SNSで知り合った、二十歳前後の無職の男。金に困っていて、金さえ渡せば何でもやる。玲司は、そういう人間を見つけるのが得意だった。
「ある女の子を尾行して、怖がらせてほしい。ただし、顔は絶対に見せないこと」
封筒には、前金の三万円と、穂乃香の写真、帰宅ルートのメモが入っていた。
穂乃香を選んだのは、内気で、誰にも助けを求められない子だからだ。三浦に命じて、彼女の帰宅時間を男に流させた。顔を隠した「正体不明の影」に、一か月間つけ回された穂乃香は、日に日に追い詰められていった。玲司は、その様子を、「心配する優しい同級生」の顔で眺めていた。
思わぬ拾い物もあった。九月の初め、悠真が階段で穂乃香のプリントを拾ってやったのを、玲司は偶然見ていたのだ。使える、と思った。翌日、三浦に捨てアカウントを作らせ、穂乃香に一通だけ送らせた。『昨日は穂乃香のプリント拾えて良かったよ。ずっと見てるよ』。送り主の名前は、書く必要がない。穂乃香が、勝手に悠真の顔を思い浮かべてくれればいい。
そして十月の、あの夜。玲司は、悠真が祖父の見舞いの帰りに、公園沿いの暗い道を通ることを知っていた。男が穂乃香を襲えば、悠真は必ず助けに入る。あいつは、そういう奴だ。だからこそ、罠になる。
電柱の陰で、玲司はスマホを構えていた。
悲鳴が上がった。予想どおり、悠真が走ってきた。男が逃げ出す。悠真が、震える手で穂乃香の手を掴む。
その瞬間、玲司はシャッターを切った。画面の中の穂乃香は、悠真を見て、怯えきっていた。
「来ないで……! あなたが……あなたが……!」
恐怖で混乱した頭が、襲ってきた男と、助けに来た悠真を、同じ人間だと思い込んでいる。玲司は、笑いを堪えるのに苦労した。
――使える。
撮れた写真の右端には、逃げていく男の背中が、ぼんやりと写り込んでいた。これでは使えない。玲司はその夜のうちに、元のデータを三浦に送りつけた。『拡散用に、二人だけに切って使え。元は消せ』。命じられるまま、三浦は悠真と穂乃香だけを、窮屈なくらい大きく切り取った。
あとは、その写真に、物語を与えるだけでよかった。今回も同じだ。写真さえあれば、人は勝手に物語を作ってくれる。玲司は、そう信じていた。
しかし――
今度は、悠真にも味方がいた。
◆蓮side◆
昼休みの終わり。自転車置き場の裏で、一ノ瀬蓮は三浦恒一を待っていた。
「……何の用ですか、蓮先輩」
「顔色悪いな、三浦」
蓮は壁にもたれたまま、缶コーヒーを放って寄越した。
「単刀直入に言うぞ。お前、玲司に何をやらされてた」
三浦の目が泳ぐ。
「な、何のことだか」
「穂乃香の帰る時間を、誰かに流してたろ。悠真の噂をばらまいたのも、お前だ」
「証拠は……」
「ある」
半分は、はったりだった。けれど、残り半分は本当だった。天音が、噂が広がった経路と、三浦の書き込みの時系列を、丹念に洗い出してくれていた。
「なあ、三浦。お前、玲司と心中する覚悟はあるのか?」
三浦の顔から、血の気が引いた。
「一人の女の子が、一か月も怖い思いをしてるんだぞ。悪ふざけじゃ済まねえ。警察が動けば、『知らなかった』は通用しねえんだ。関わった奴は、全員だ」
「お、俺は、言われただけで……」
「だったら、言え。今なら、『言われてやっただけの一年』でいられる。玲司と一緒に沈むか、自分は助かるか。選べ」
長い沈黙のあと、三浦は、震える手でポケットのスマホを取り出した。
「……玲司は、全部消せって言った。でも、俺、消さなかった」
画面には、玲司とのやり取りが、日付順にずらりと並んでいた。三浦が画面を送るたび、蓮の眉間の皺が深くなっていく。
そして――あの夜の写真の、元のデータ。蓮は、静かに息を吐いた。
「……お前、意外としたたかだな」
「褒めてないでしょ、それ」
三浦は、力なく笑った。長いものに巻かれてきた男の、それが、最後の保身だった。




