第10話 思い出した
スマホが、立て続けに震えた。
『三浦が穂乃香を屋上に連れて行った。グラウンドから見えた。美波も一緒だ』
『俺は部活で動けない。頼む』
血の気が引いた。屋上。人目のない場所。あの夜、震えていた穂乃香の背中が、脳裏に焼きついて離れない。
「蓮さん、僕が行きます」
返事を待たずに、走り出した。
階段を駆け上がる。屋上の鉄扉は、半開きだった。中から、声が聞こえる。三浦の低い声。美波の、少し尖った声。そして――穂乃香の、消え入りそうな声。
扉を押し開けた。
フェンスの前に、三浦と美波。二人の前で、穂乃香が給水塔の影にしゃがみ込んでいた。小さな背中が、震えている。
「ちょっと穂乃香、聞いてる?」
美波が、一歩近づく。
「やめろ!」
考えるより先に、叫んでいた。
僕は二人の間を抜けて、穂乃香の前に立った。彼女に背中を向けて、両腕を広げる。あの夜と、同じように。
「穂乃香に、何をしてるんだ!」
「ち、違う、私は――」
美波が何か言いかけて、途中で止まった。僕の背後で、小さな息が漏れたからだ。
「あ……」
振り返る。
穂乃香が、僕を見上げていた。大きく見開いた目は、まるで初めて僕の顔を見たようだった。
「……悠真、くん」
声が震えている。
「私……」
彼女はゆっくりと、立ち上がった。
「思い出した」
「え?」
「あの夜……私の前に立って、両手を広げてくれた背中。……悠真くん、だった」
涙が、頬を伝った。
「私を助けてくれたのは、悠真くんだった。ストーカーなんかじゃ、なかった」
美波の顔から、血の気が引いた。
「そんな……」
一歩、後ずさる。足元がぐらりと揺れたようだった。
「だって……玲司が……」
そこで、言葉を止めた。続きを口にしたら、取り返しがつかなくなる。
「美波、もう行くぞ」
三浦が、彼女の腕を掴んだ。
「話は終わった」
扉の手前で、三浦が一瞬だけ足を止めた。ポケットに手を入れたように見えたが、そのときの僕は、穂乃香のことで頭がいっぱいで、気にも留めなかった。
美波は何度も振り返りながら、三浦に引かれて屋上を出ていった。その目には、戸惑いと、初めて見る不安が浮かんでいた。
*
二人がいなくなると、屋上は静かになった。穂乃香は、まだ泣いていた。
「ごめんなさい……」
「もういいよ」
「違うの」
彼女は首を横に振った。
「私、ずっと間違えてた。暗くて、怖くて……私を襲った人と、助けてくれた悠真くんが、頭の中で同じ人になっちゃってたの」
「それに……私、ずっと、悠真くんにつけ回されてるんだと思ってた」
「え?」
「プリントを拾ってもらった、次の日から。匿名のメッセージが届くようになったの。『昨日は穂乃香のプリント拾えて良かったよ。ずっと見てるよ』って。あの日のことを知ってるのは、悠真くんだけだと思ってたから」
初めて聞く話だった。あの翌日から、目を合わせてくれなくなった彼女。その理由が、ようやく繋がった。
そして、僕の袖を、そっと掴んだ。
「あの夜、悠真くんの手……震えてた」
何も言えなかった。あの夜の情けなさを、見られていた。恥ずかしくて、それなのに、不思議なほど嬉しかった。
「怖かったんだよね。それでも、逃げなかった」
穂乃香は涙を拭って、小さく息を吸う。
「私を襲った人の手は……震えてなかった」
その一言が、屋上に落ちた。ようやく。長い間、閉ざされていた記憶が、戻った。安堵と、それを上回る疲労が、どっと全身に押し寄せる。
けれど――そのときの僕は、まだ気づいていなかった。あの扉の陰で、一台のスマホが、穂乃香を庇って立つ僕の姿を捉えていたことに。
◆三浦side◆
階段を降りる途中で、三浦のスマホが震えた。
『どうなった?』
玲司からだった。
「……玲司に、伝えるの?」
隣を歩く美波が、小さな声で聞く。
「当然だろ」
そう答えた声には、迷いがあった。けれど、逆らうという選択肢を、三浦は持っていなかった。――少なくとも、今までは。
『穂乃香が思い出した』
返信はすぐに来た。
『分かった。予定通り、次に進める。さっきの写真、ちゃんと撮れてるよな』
三浦は、ポケットの中のスマホを握りしめた。屋上を出る間際、言われていたとおりに撮った一枚が、そこに入っている。泣いている穂乃香と、その前に立つ悠真。
画面をスクロールすると、玲司とのやり取りが、延々と続いていた。ストーカーの男への連絡。報酬の受け渡し。穂乃香の帰宅時間。穂乃香への匿名メッセージ。
『証拠になるものは、全部消せ』
玲司には、そう言われていた。三浦は、消さなかった。
利害だけで結ばれた関係は、脆い。玲司が沈むとき、自分だけは道連れにされる。その予感は、最初から、心のどこかにあった。
「……次って、何?」
美波が聞いた。
三浦は答えなかった。ただ、廊下の先へ歩いていく。その背中を追う美波の横顔には、初めてはっきりとした不安の色が浮かんでいた。




