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契約結婚ですので、定時退勤させていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第8話 もし君がやり直したいなら、契約は解消する

明日、私の人生の全てが、この王前奉上に集約される。


そう思うと、書斎の蝋燭の芯が、妙に大きく燃えているように見えた。


王都、辺境伯家の別邸。父の代からラインハルト辺境伯家が王都滞在時に使っている、赤煉瓦の小さな屋敷。私は机の上に、証拠を並べていた。


まず、光源魔導具の改革案の、自筆の原本。封蝋の日付は、王子殿下が王に「自分の手柄」として上奏された日よりも、ずいぶん前に打たれている。父が亡くなる前に、金庫の底に遺してくれていたものだった。


それから、シュタイナー伯爵家の、借入証文。末尾に、王子クラウディオ殿下の連帯保証の署名と、王家の印。


さらに、母の遺言書の写し。「アガタには、何一つ、譲らない」の一行を含む、全文。


そして、ラインハルト辺境伯家からの公式書簡。王前奉上の儀において、以上の物証を提出する旨の事前通知の、控え。


書面が、ぴたりと並んだとき、私は息を、一度、吐いた。


(よし、書類は、できた)


前世で、プレゼン当日の夜、資料を全部印刷して机の上に並べて、最後にひとつずつ順番を確かめた、あの感覚に、よく似ていた。



扉のノックが、静かに響いた。


「奥様。聖国のお方が、お見えでございます」


アンナの声。レイラ様だ。


応接室ではなく、私はこの書斎にお通しすることを選んだ。明日の段取りを最終確認するのに、証拠の並ぶ机の上で話した方が、互いに早い。


レイラ様は、ヴェールを軽く持ち上げたまま、書斎の扉を静かに閉めた。


「明日の確認に、参りました」


「どうぞ、おかけください」


「お時間は取らせません」


彼女は椅子には座らず、机の端に指先を置いたまま、低い声で告げた。


「──私が、王前奉上の場で、公式の聖紋鑑定を提示いたします。ソフィア嬢の聖紋は、神前の鑑定で偽と示されます」


「神殿長閣下は」


「すでに、真相をお伝えしてあります」


彼女のヴェールの下で、短い呼吸の音がした。


「賄賂の手も伸びたようです。けれど、神官には神官の、裏切れぬ一線がございます。閣下はその一線の側に、お立ちくださいました」


ルカーシュからも、似た報告を聞いていた。王子派が神殿長を抱き込もうとしたが、先に動いたのはこちらだった。レイラ様が、自分の足で聖国から王都まで届けた言葉の方が、金の重みよりも、ずっと先に、人を動かしていた。


「辺境伯夫人」


レイラ様の声が、ほんの少しだけ、柔らかくなった。


「ひとつ、伺ってもよろしゅうございますか」


「どうぞ」


「……あなたは、なぜ、この場にいらっしゃるのですか」


問いの意味が、すぐには、よく分からなかった。


でも、問いを受けた瞬間に、私の喉の奥で、別の言葉が、先に小さく鳴っていた。


「わからないまま、ここにいます」


私は正直に答えた。


「昨夜から、ずっと、そう答えるしかない気がしているのです。わからないまま、でも、引き返したくはなくて」


レイラ様は、ヴェールの下で、短く微笑まれたように見えた。


「──では、明日、頷くだけで結構でございます。あとは、私の役目を、私が果たします」


彼女はそれだけ言って、辞した。



レイラ様を見送った足で、私は、そのまま、ギルベルト様の執務室に向かった。


証拠の準備が整ったことを告げようと、扉を叩こうとした、その寸前。


扉の内側から、ギルベルト様の声が、聞こえてきた。


「──彼女の意志を、優先する」


私は手を止めた。


どなたと、何を話しておられるのだろう。


やがて、扉の向こうで話し相手──ヨハンの落ち着いた声が、「かしこまりました」とだけ応え、執事は書類の束を抱えて、扉を開けて出てきた。


私と目が合って、ヨハンは、ほんのわずかに目礼をした。それから、私の背中の先の扉に向けて、声を張らずに告げた。


「旦那様。奥様が、お見えでございます」


「──通してくれ」



机に向かっていたギルベルト様は、私が入ると、顔を上げた。


「証拠、揃ったか」


「はい」


「ご苦労だった」


彼は短く言って、机の上の、薄い紙をこちらに向けた。


まだ封蝋を打っていない、公文書の下書きのような紙だった。


「君に、選択肢を用意した」


「……選択肢」


「明日の王前奉上で、君は、証拠提出の側に、立たなくてよい」


私は彼の顔を見た。彼はこちらを見返してはいなかった。机の上の紙の端を、指先で静かに整えていた。


「もし、君が、王子殿下と和解して、シュタイナー伯爵家の再建に戻るつもりがあるなら──俺が、王に進言する。契約は、解消できる」


部屋の中の空気が、一度、音もなく、縮んだ。


私は、すぐには、声が出せなかった。


(……なんで)


胸の奥で、最初に出てきたのは、それだった。


なんで今、そんなことを。


ここまで、一緒に証拠を揃えてきたのは、なんのためだったのか。今夜、この部屋で、「明日、頑張ろうな」と、短く、一言、そう言われて、私は肩の力を抜きたかったのに。


「ギルベルト様は、私に、シュタイナー家に戻れと、お思いですか」


「いや」


即答だった。


「俺は、君が、戻らなくていいと思っている。ただ」


「ただ」


「──選ぶのは、君だ」


声が、いつもより、少しだけ、震えていた。


ほんの少し、だ。普通の人は、気づかないくらい、少しだけ。


けれど私は、夏の嵐の夜に、彼の半音低い声を、寝台の縁で聞いていた。あの夜よりも、今夜の彼の声の方が、揺れていた。


(この人、本気で、私に、選ばせようとしている)


この人は、きっと、今夜までの全部を、私に押しつけない形で、渡そうとしている。


私は、しばらく、黙った。


それから、机の上の、封蝋を打っていない紙を、ゆっくりと彼の方へ押し返した。


「……私は、契約を、解消したくありません」


ギルベルト様の目が、ほんのわずかに、見開いた。


「理由を、聞いても?」


「わかりません」


正直に答えた。


「わからないんです。どうしてこう思うのか、ちゃんと、説明できないんです。ただ──」


私は、机の上の書類を、一度、手のひらで撫でて、それから、彼の方をまっすぐ見た。


「──帰りたく、ありません」


扉の外で、廊下の灯りが、ふっと、ひとつ、揺れた気がした。


ギルベルト様は、返事をしなかった。


ずいぶん、長い、沈黙だった。


やがて、彼は、ごく静かに、息を吐いた。


「……わかった」


それだけだった。


私は一礼して、執務室を出た。


扉を閉めた背中の向こうで、椅子が微かに軋む音が、聞こえた。



執務室に残されたギルベルトは、しばらく、立ち上がりもしなかった。


机の上の、封蝋を打っていない紙を、ゆっくりと、手に取る。


書いてから、署名を、入れられなかった文書だった。


(──帰りたくありません、か)


胸の奥で、彼女の言葉が、もう一度だけ、鳴った。


あの言葉は、彼女には、ただの気持ちの切れ端に聞こえているはずだった。けれど、俺にとっては、違う。


昨年の春の、王宮舞踏会。


給仕の少年が、彼女のドレスにワインをこぼし、震え、倒れるように膝をついた。それを止めて、自分が悪かったのだ、と、彼女は侍従長に笑いかけた。


俺は、広間の反対側の柱の陰から、その光景を、偶然、見ていた。


偶然、などではなかったのかも、しれない。


あの夜以来、俺は、王都の暦に目を通した。彼女が参加する舞踏会の日には、出仕の用事を無理やり作って、王都に来た。遠くから、一曲だけ、彼女が踊るのを、柱の陰から、見ていた。近づかなかった。近づいていい立場ではなかった。彼女には婚約者がいた。俺は、国境を守る地方の男で、王都の貴族令嬢の人生に、関与していい者ではなかった。


彼女の名の由来の詩集を、俺は、少しずつ、集めた。


意味のない集め方だ、と、自分でも思った。


意味がないまま、集めた。


(──王子殿下が、彼女を捨てると、耳に入ったとき)


俺は、一度だけ、神に感謝した。


そしてすぐに、自分の浅ましさを、叱った。


契約結婚は、俺の口実だった。辺境伯家の都合では、ない。俺自身の都合で、俺は、あの契約書を書いた。夜伽義務を線引きで消したのは、俺が、彼女を、俺の所有物にしたくなかったからだ。彼女には、いつでも、引き返せる道を、残しておきたかった。


今夜、「契約は解消できる」と告げたのも、それの、延長だった。


もし彼女が、「戻ります」と言ったなら、俺は、明日、王に、契約解消を願い出るつもりだった。そのための文書は、書いていた。封蝋だけ、打てなかった。


(──帰りたくありません)


あの言葉を、彼女は、自分でもわからないまま、俺に渡した。


俺は、その言葉を、明日の王前奉上が全て終わったあとに、初めて、俺の言葉で、返そうと、決めた。


机の上の紙を、俺は、短く、折り畳んだ。


使う日は、来ない。



部屋に戻った私は、椅子には座らず、窓辺に立ったまま、しばらく、外を見ていた。


王都の夜は、辺境と比べて、灯りが多い。無数の窓の灯が、それぞれの事情の中で、小さく呼吸をしていた。


私は、自分の右手の指先を、もう片方の手で、そっと包んだ。


あの指先への、短い口づけを、思い出していた。


(……私は、この人の、隣にいたい)


ようやく、その言葉が、形を持って、胸に落ちてきた。


ずっと、頭の中で回っていた「契約、のはずなのに」は、今夜、「契約だった、けれど」という、少し違う言葉に、変わっていた。


明日、王前奉上の儀。


証拠を、私は、自分の手で、提出する。


自分の足で、行く。自分の意志で、言葉にする。


それが、あの人の「選ばせてくれた」覚悟への、私の返事だ。


窓の向こうで、王都の鐘が、深夜を告げて鳴った。

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