第7話 継母が土下座した日、旦那様は継母を立たせた
「奥様、正門にお客様です。……継母様が」
アンナの声が、一拍、ためらってから落ちた。
書斎の窓辺で王都からの書簡を整理していた私は、羽根ペンを受けに置いた。
(は?)
「お約束はございませんでしたね」
「ございません。ご本人は『娘に会いに来た』と、そうおっしゃっております」
アポ無し。取引先に飛び込みで来られたときの、前世の社畜モードが、頭の奥で起き上がる。
「サリアも?」
「ご同行でございます」
「……ギルベルト様はご存じ?」
「まだお耳には入れておりません。まずは奥様のご意向を伺ってから、と」
ヨハンの判断だ。この屋敷で何が大事にされているかが、こういう瞬間に滲み出る。
私は席を立ち、窓の外を見た。
初秋の曇り空の下、門の手前に、旅塵に塗れた馬車が止まっていた。辺境までの道のりを、予告もなく押しかけてくるというのは、シュタイナー伯爵家に、それだけの余裕がなくなったという意味だった。
「応接室へお通ししてください。お茶は要りません」
アンナが一礼して、下がっていった。
◇
応接室の扉を開けると、継母アガタが立ち上がって、こちらに両手を伸ばした。
「──エリーゼ! ああ、あなた、無事だったのね、本当によかった」
本当によかった、と言う声は、本当によかったと思っている声ではなかった。前世で泣き落とし営業を幾度も受けた耳が、瞬時にそれを拾う。
継母の後ろで、義妹サリアが俯いている。頬がずいぶん痩けている。ドレスは去年の仕立てのまま、端の繕いが目立つ。ああ、家計が回っていないのは本当なのだ。
「お母様。突然のご来訪、驚きました」
「エリーゼ、話を聞いて。家が、シュタイナー家が」
「存じております。王都の噂は、辺境まで届いております」
継母の目が潤んだ。涙は、ずいぶん早く、都合よく出るのだなと思った。
「お願い、娘として、あなたから辺境伯に取りなしてくださらない? 少しばかりの借入れ、ほんのつなぎで結構なの。サリアの嫁入りが」
「お母様」
私は一度、息を吸って、吐いた。
「私は契約でここにいる、辺境伯夫人でございます。家の財は、私の個人的な裁量で動かせる類のものではございません」
継母の顔が、ぴく、と強張った。
「個人的な援助も、いたしかねます。正式な借入れは、王都の金融ギルドにご相談くださいませ」
「エリーゼ!」
継母の声が、ガラス細工が割れたみたいに甲高くなった。ひょいと床に膝がつく。
「お願い、娘のように育ててきたじゃないの。私はずっと、あなたを本当の子だと」
床に額を擦りつける勢いで、頭が下がった。
サリアは立ち尽くしたまま、こちらを見ようとしない。継母のこの所作を、止める気力が、もう彼女にもないのだろう。
(……ああ、この人、こうやって父を絡め取ったのか)
前世のハラスメント上司が、後輩の前だけで涙を見せていた姿が、脳の奥で重なって立ち上がる。
本当の子だと思ってきた、という言葉を聞いて、胸が、ほんの一瞬だけ、きゅ、と縮んだ。それだけは、反射のように、どうにも止まらなかった。
「奥様」
背後から、アンナの小声が、耳のすぐ下に置かれた。
「──幼少期、奥様のお背中にあった痣を、私は忘れておりませんよ」
それだけだった。
私の胸のきゅ、が、すっと解けた。
そうだった。
忘れかけていたことだ。忘れようとして、忘れかけていた。
◇
応接室の扉が、音もなく開いた。
ギルベルト様が入ってきた。
継母が床に額をつけた姿勢のまま、顔を上げた。ギルベルト様は、こちらには一瞥もくれず、まっすぐに継母の前まで歩み寄って、膝に触れない距離で立ち止まった。
「シュタイナー伯爵夫人」
声は低くはあったが、怒鳴ってはいない。
「立たれよ」
継母の肩が、強張った。
「私の妻に、頭を下げさせるな」
それだけだった。
それだけで、継母は額を床から離し、膝を崩して、崩したままの姿勢で、立ち上がれないでいた。ギルベルト様は彼女の手を取ろうとはしなかった。立つ力は、貴方が自分でお使いなさい、という線引きが、そこにあった。
「奥様のご用件は」
「あ……の」
「金銭のご相談でしたら、王家の金融ギルドへ。御実家の事情でしたら、シュタイナー伯爵家ご当主宛にお取り次ぎください。当家は外部の家のご事情に、直接は関与いたしません」
「そ、それは、それは、つれない、つれのうございますわ、辺境伯閣下」
「では、こう申し上げます」
ギルベルト様は、ここでやっと、私を見た。
「──エリーゼが、あなたに何かを差し上げる義理は、ございません」
継母の白粉の下で、頬の色が、音もなく引いた。
◇
継母とサリアの馬車が、夕刻に辺境領の外へ向かって去っていった。
玄関ホールの冷たい石畳の上で、私はしばらく、動けなかった。
「奥様」
アンナが私の横に立って、毛織りの肩掛けをそっと背に回してくれた。
「よろしゅう、ございましたね」
「……うん」
「前伯爵夫人──お母様も、きっとお喜びになっておられますわ」
実母のことだ。アンナはこの屋敷でも、実母を「お母様」と呼ぶ。継母は「継母様」と呼び分ける。この呼び分けが、今夜ばかりは、胸にあたたかく響いた。
◇
それから数日して、ルカーシュがまた土産話を持って駆け込んできた。
「奥様、王都から報せが、立て続けに」
執務室で、ルカーシュは息を切らしていた。
「まず、継母殿、王宮にて王子殿下に助けを乞われたそうですが、殿下ご自身が神殿の件でお立場を崩しかけておられ、取り付く島もなかった由にございます」
ギルベルト様が、手元の書類から目を上げる。
「もうひとつは」
「王家書庫の閲覧許可、閣下の根回しでついに通りました。前シュタイナー伯爵夫人──奥様のお母君の遺言書、正本の控えが、見つかりました」
部屋の空気が、一度、深く、沈んだ。
「……内容は」
ギルベルト様が静かに問うた。ルカーシュは、書付を差し出した。
私はそれを受け取って、母の筆跡を、久しぶりに見た。
インクは色褪せていた。けれど、細く伸びた美しい字は、私の記憶通りだった。その冒頭に、母は、はっきりと、こう書いていた。
「──アガタには、何一つ、譲らない」
私は、その一行を、何度か、静かに、指でなぞった。
涙は出なかった。ただ、あたたかいものが、喉の裏側で、息に変わった。
(母上。遅くなって、ごめんなさい)
◇
その夜、書斎で、私は机の上に母の遺言書の写しを置き、その横に、辺境邸に昼間届いた書状を、並べた。
王家の金の封蝋が押された招待状。
建国祭──王前奉上の儀への、召喚状だった。
辺境伯ギルベルト・フォン・ラインハルト並びに、その夫人エリーゼ・フォン・ラインハルト、宛。
招待ではない。召喚だ。王家の公印の意味が、言葉にしなくても、分かる。
扉を叩く音がした。
「──入っても?」
ギルベルト様の声。私は書類から目を上げずに、「どうぞ」と短く応えた。
彼は机のそばまで歩いてきて、私の手元に並んだ書類を、ゆっくりと見渡した。
「エリーゼ嬢」
「はい」
「君を、巻き込むことになる」
「いえ」
私は顔を上げた。
「巻き込まれに行くのではございません。自分の足で、出向きます」
ギルベルト様の目が、ほんの一瞬、迷った。それから、彼はゆっくりと、片膝を落として、私の椅子のそばに腰を下ろし、机の上にある私の手を、自分の両手で、挟むようにして、取った。
手袋を、していなかった。
掌の熱が、直接、私の指先に触れた。
「……失礼する」
一言、そう言って、彼は、私の指先の、ごくわずかな爪の付け根に、ほとんど触れないほどの、短い口づけを落とした。
手の甲ではなかった。
指先だった。
それは、契約結婚の枠の、ぎりぎりの、ほとんど内側の、あるかないかの領域だった。
彼は、それ以上はしなかった。
顔を上げて、私を見て、それから、自分の立場を思い出したように、立ち上がって、机から一歩、身を引いた。
「明朝、王都行きの日程を詰める。──おやすみなさい」
「おやすみなさいませ」
扉が閉まって、私は椅子に座ったまま、自分の指先を、もう片方の手で、そっと包んだ。
机の上では、母の遺言書と、王家の召喚状が、並んでいた。
どちらも、私の背中を、前へ、押していた。




