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契約結婚ですので、定時退勤させていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第6話 社交界デビュー、魔導具の予算と仕様を暗唱した夜

「──元婚約者殿、よく王都へお戻りで」


大広間の入り口で、最初の一撃はこうだった。


扇の陰からの、女の声。顔は見ない。見なくていい。声の調子だけで、敵意の温度は十分に伝わる。前世のプレゼン会場で、始まる前から値下げを迫ってきた下請け先の担当を、私は忘れていない。


(……来るのわかってたんだから、動じない、動じない)


私は扇を広げて、頭の中で社畜の声を一度だけ呼び出した。会議室で数字を回すときの、あの、何があっても動かない声を。


隣のギルベルト様が、一歩分、私の肩に合わせて歩みを遅くする。


「お楽しみのところ、失礼する」


彼の挨拶は、感情を乗せない最小限の丁寧さだった。声だけで、大広間の半分くらいの視線を引き寄せる力がある。そうしてその視線は、彼の隣の私に、順繰りに移ってくる。


水晶灯の下、ワルツの弦。


辺境伯夫人として、王都の社交界へ初めて足を踏み入れた夜だった。



私の纏ったドレスは、濃い夜空の色だった。


仕立屋が「辺境にはこの色が合います」と言って選び、胸元から裾にかけて銀糸の小さな刺繍が散っている。葉脈のような、夜空の雲のような、控えめな紋様。派手ではない。けれど動くと、光の角度で、糸が呼吸をするみたいに瞬く。


アンナが仕立てに口を出した部分と、なぜかギルベルト様の執事ヨハンが口を出した部分があったことは、なんとなく聞いている。私は衣装には疎いので、お任せした。


「エリーゼ嬢、手を」


ギルベルト様が、入場の階段を下りるところで手を差し出した。


黒い礼装。軍服ではないが、肩の線に軍人の名残がある。ポケットには、ごく控えめなチーフがひとつ、覗いている。


──その刺繍の糸が、銀色だった。


(……あれ)


一瞬、私は自分のドレスの裾に視線を落とした。ドレスの銀糸と、チーフの銀糸と、同じ艶。


気のせい、かもしれない。王都の仕立屋の定番色の組み合わせ、という可能性もある。


(考えるのは後。今は仕事)


私は階段の手すりから手を離し、ギルベルト様の手に指先を預けた。



ソフィア・ベルント嬢がこちらに歩いてきたのは、ワルツが次の曲に移った頃だった。


白に近い薄い桜色のドレス。豊かな栗色の髪。頬に、ごくわずかに紅を乗せている。儚げな雰囲気の作り方がうまい。この世界での「聖女」の印象を、過不足なく再現している。


「まあ、ラインハルト辺境伯夫人」


高くない、品のいい声。


「お噂はかねがね。魔導具の改革案を、手がけられたと伺いました。素晴らしいこと。おひとりで、あんな複雑なことを……?」


「おひとりで、ではございません」


私は扇をすこし傾けて、微笑を返した。


「現場の職人の皆様に、たびたびご意見を伺いましたので」


「まあ、ご謙遜を。でも、わたくしには、難しい数字は、よく、わかりませんの。素材ですとか、費用ですとか。そういうものって、殿方のお仕事だとばかり」


周囲の貴婦人がふふ、と扇の陰で笑う。


敵の布陣が見えた。


ソフィア嬢は「女は数字を理解しないもの」という空気をまず作って、私の改革案そのものを「男性のおこぼれ」に落とし込みたい。同時に、私が具体を答えられなければ「案の持ち主ではない」と周囲に印象付けられる。


(よくできた罠)


前世のプレゼンで、似たような下請けリサーチ会社に嵌められかけたことがある。


私は扇を閉じた。


「せっかくの機会ですので、ご興味のおありのところを、少しだけ」



「光源魔導具の件でございますでしょうか」


「……え、ええ」


「素材は、北方銀と、精霊石の細粒を組み合わせた構造でございます。北方銀は辺境北部の旧鉱山で既に採掘量が回復しておりまして、運送は隣領の隊商に相乗りさせています。精霊石は王都の魔導師団がひと月に一度、交易に出る便がございますので、それに合わせて仕入れる仕様に組みました」


扇を閉じたまま、空いた手の指を、ひとつずつ立てていく。


「初期投資は、従来の更新型に比べて半分以下に抑えられます。運用費は、夜間警備の蝋燭代を一年分積算すれば、中期で黒字に転じます。さらに光量の制御が段階的ですので、廊下や会場ごとの明るさを揃える調整が、警備官の独断で可能でございます」


「……」


「詳細はこちらに」


私は添え持っていた小さな帖面を、ソフィア嬢の手にすっと渡した。要約書だ。王都に発つ前夜に、アンナと一緒に筆写しておいたもの。表紙には私の名の印を押してある。


ソフィア嬢は、表紙をめくった。


目が、紙の上を、上から下に、滑った。


上から下に、滑り続けた。


それ以上の動きは起きなかった。


周囲の貴婦人のうち、年配のおひとりが、扇を持つ手を、ほんのわずかだけ胸元まで下げた。


(……数字が、読めてない)


私は、それを見ていた。けれど、顔には出さない。これは相手の弱点ではなく、相手の失態でもない。ただ、事実だ。事実を、私は、丁寧に、お渡ししただけ。


「ご質問がございましたら、書面にて、辺境邸までお送りくださいませ。ご返答は誠心誠意、お答えいたします」


にっこりと、微笑んだ。


ソフィア嬢の薄桜色の頬から、紅の色が、わずかに、引いた。



彼女が反撃のために何かを言おうと口を開いたとき、横から、低い声が、静かに、入った。


「ソフィア嬢」


ギルベルト様だった。


「先ほどから、君が『元婚約者殿』と、呼び続けている方がおられるが」


ソフィア嬢の顔が、そちらを向く。


「──私の妻の名は、エリーゼ・フォン・ラインハルトだ」


半音低い声が、大広間の空気を、ほんの少しだけ、冷ました。


「お間違えなきよう、覚えていただきたい」


それだけだった。


それだけで、近くにいた伯爵夫人が、幾人か、扇を閉じて、ゆっくりと、ソフィア嬢から半歩下がった。


半歩の後退が、何を意味するか、この場にいる貴婦人たち全員が知っている。


(──この人、社交の場でこんな喧嘩の仕方ができたんだ)


私は、初めて、夫の表の顔を見た気がした。



ワルツの切れ目に、私はバルコニーへ逃げた。


逃げた、というと人聞きが悪い。ギルベルト様から「少し外気を吸ってらっしゃい、こちらは私が」と言われて、素直に従っただけだ。けれど私の脚は、正直、少し、震えていた。


バルコニーの石の手すりは、夜気で冷たかった。


手を置いて、ふう、と息を吐く。庭園には、名前を知らない夜咲きの花が、うっすらと白く光っている。王都の庭は、辺境よりも香りが複雑だった。


「辺境伯夫人」


背後から、柔らかい声がかかった。


振り向くと、白いヴェールの女性が立っていた。


年は私と近いくらい。輪郭はヴェール越しにしか分からないが、声の落ち着きはもう少し上のひとのもの。両手を胸の前で組み、静かに頭を下げる。


「初めまして。聖国オルフェニアのレイラと、申します」


私は息を、ほんの一瞬、止めた。


聖国の、聖女。


名前だけは知っている。ただし「何者かの妨害で出立が遅れている」と、夜の廊下の向こうから聞こえてきた、その人だ。


「……エリーゼ・フォン・ラインハルトでございます」


「ご挨拶がこのような場で、失礼いたします」


レイラ様は顔をヴェール越しに、少し、王都の夜空の方へ向けた。


「お願いをひとつ、申し上げてもよろしゅうございますか」


「どうぞ」


「近いうちに、王都の神殿の──記録を、確認いたしたいのです」


小さな声だった。けれど、言葉の底に、澱のような硬いものが沈んでいた。


「お力を、お貸しくださいますでしょうか」


私は、しばらく黙ってから、頷いた。


「できる限りのことは」


「ありがとうございます」


レイラ様は、もう一度、深く頭を下げた。


そして、来たときと同じくらい静かに、その場を去った。白いヴェールの裾が、王都の夜風にゆっくりと流れていった。



舞踏会がお開きになり、馬車に戻るまでの廊下で、背後から、若い貴族の令嬢たちの囁きが聞こえてきた。


「──ねえ、ご覧になりました? 辺境伯閣下のポケットチーフ」


「ええ。あれ、奥様のドレスとおそろいの糸ですわ」


「偶然、でしょうか」


「まさか。王都の夜会で、偶然、同じ銀糸になるなんて」


「──あら、うふふ」


私は、前を行くギルベルト様の背中を、斜め後ろから見上げた。


礼装の黒と、白いチーフと、覗く銀糸。


(……偶然、だろう)


自分にそう言い聞かせてみた。


言い聞かせても、何も収まらなかった。


馬車の扉の前で、ギルベルト様が無言で手を差し出した。


私はその手を取って、馬車に乗り込みながら、心の中で、今夜、もう何度目かわからない言葉を繰り返していた。


契約、のはずなのに。

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