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契約結婚ですので、定時退勤させていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第5話 嵐の夜、詩の一節が雷鳴より響いた

雷鳴が空気を裂いた瞬間、前を行く馬が棹立ちになった。


辺境南方の農村の視察が、予定より少し伸びたのだ。新しい排水路の敷設と、孤児の宿舎の建立を、領主夫人としてきちんと見ておいてほしいとギルベルト様に頼まれていた。帰途、日没近くから雲行きが怪しかった。


「奥様! 掴まっていてください!」


護衛の騎士の声が飛ぶ。同時に、空が真っ白に弾けた。


視界が、一瞬、紗のようになる。


次の雷が落ちる頃には、小粒の雨が針のように降り出していた。夏の嵐だ。辺境の者たちが「夜風雨(よふうう)」と呼ぶ、夕刻から一晩居座る類の、乱暴な嵐らしい。


「──街道を離れる」


ギルベルト様の声は、雷より短く低かった。


「森の北に、古い狩猟小屋がある。そこで夜明けを待つ」


「魔物は?」


「嵐の夜は、あれらも穴に戻る。だが、念のため、馬から目を離すな」


騎士たちが馬首を返し、私たちは森の中の細道に分け入った。枝葉を叩く雨音が、すぐに頭上で屋根になる。幹を伝って落ちる水が、首筋を冷やしていった。


護衛の馬が、濡れた下生えで足を滑らせたとき、私は本気で、落馬を覚悟した。


──が、落ちなかった。


ギルベルト様が、自分の馬から半身身を乗り出して、私の鞍の前を無言で支えたからだ。革の手袋越しに、肘の内側が私の脇腹に触れる。一瞬。本当に、一瞬。


それだけで、馬は体勢を戻した。


(……なに。なんでこの人、距離が近いの)


私の心臓はとっくに、この人のそばでは、自分で制御できない速さで鳴るようになっていた。



狩猟小屋は、森の小さな窪みに建っていた。


石組みの土台に、木の壁。屋根は樹皮を何枚も重ねて葺いてある。入口の扉を押し開けた途端、冷えた木の匂いと、微かな煤の匂いがした。誰かが定期的に手入れをしているようで、埃はあまり浮いていない。


「手狭で申し訳ない」


ギルベルト様が、私に向かって頭を下げた。


小屋の奥に、寝台。それだけ。壁際の暖炉に薪が積まれて、隅に椅子が転がっている。騎士たちは外の小さな厩戸で馬と一緒に夜を明かすという。


つまり、屋根の下に残るのは、この人と、私。


「あ、あの」


「寝台はあなたが使ってください」


「えっ」


「私は壁の側に座って休む。問題ない」


「いやあの、私が立ちますので、ギルベルト様こそ寝台を」


「エリーゼ嬢」


彼がすっと私に顔を向けた。


「君は明日も働く。寝てくれ」


短い一文で、静かに押し切られた。


この人の「寝てくれ」は、命令ではなく、懇願に近い声音のときがある。これがそうだった。


私は諦めて、寝台の端に腰を下ろした。ギルベルト様は予告通り、暖炉の前の壁際に、外套を羽織ったまま座った。剣は片手の届くところに置き、もう片手で薪をくべる。


雷が、また遠くで鳴った。



しばらくのあいだ、互いに無言だった。


薪が爆ぜる音、屋根を叩く雨音、外の厩戸で馬がひいんと鳴く音。それだけで、だんだん空気は乾いていった。


眠れなかった。


眠ろうと思えば思うほど、枕元の松脂の匂いとか、自分の髪の先からぽたりと落ちた雨粒の音とかが、妙に耳に入ってきた。


ほんとうは、眠れなかったのは、匂いのせいではない。


「……ギルベルト様」


「はい」


「おひとつ、お伺いしても」


「どうぞ」


私は暗がりに向かって、思い切って言葉を置いた。


「なぜ、私に、契約結婚を?」


問いを終えたあと、雷が一度鳴った。遠くだった。


ギルベルト様は、しばらく答えなかった。薪の火が、彼の頬の線を、ほんの少しだけ赤く縁取った。


「……俺の母は、政略で嫁いだ」


ぽつりと、声が落ちてきた。


「父は、母を愛さなかった。母は俺を産んで、しばらくして、亡くなった」


「──」


「俺は、結婚とはそういうものだと思って、育った」


小屋の中に、雨音がまた一段、強くなった。


「だから、君にも、義務を課したくなかった」


ギルベルト様はそこで言葉を止めて、ふっと息を吐いた。自分で自分の言葉の頼りなさを笑うような、力のない息の吐き方だった。


「俺にとっての結婚は、相手を縛る檻だった。──あなたを、そうしたくなかった」


あの夜伽義務の線引きの理由が、ここでやっと、輪郭を持った。


(この人、本当に、そういう理由で、あれを削ったんだ)


私は寝台の縁を握った。指先が冷たかった。


ほんとうに、そうだったのだ。王宮の舞踏会の隅で、差し出された契約書は、辺境伯家の都合ではなく、この人自身の痛みを、私に回さないための、精一杯の配慮だったのだ。


「……ありがとうございます」


気がついたら、私はそう呟いていた。


「私を、囲うかわりに、守ってくださって」


ギルベルト様は応えなかった。


応える代わりに、ごく小さな声で、独り言のように、何かを口にした。


「『夜明けを呼ぶ者よ、汝の名はエリーゼ──冬を越えて、最初の薔薇を啓く者』」


私の息が、止まった。


「……え」


それは、あの詩集だ。


図書室の棚に、同じ判型で揃えられていた、あの詩集の一節。


「……失礼、独り言です」


彼は慌てて顔を逸らした。灰色の瞳が、火明かりの中で、明らかに狼狽えていた。


(独り言で、あんな古い詩の一節を、暗記してる人が、いてたまるものですか)


私は心の中でだけ、強く思った。声には出さなかった。出したら、たぶん、何かが一度に崩れてしまう気がしたからだ。



どれくらい眠ったかも、よくわからなかった。


気がつくと、暖炉の火が細くなっていて、雨の音がゆっくりと遠ざかっていた。明け方が近い。


寝台の上で薄く目を開けた私は、壁際のギルベルト様を見た。


彼は、座ったまま腕を組み、壁にもたれて眠っているようだった。長いまつ毛が、頬に影を落としている。外套はしっかり羽織っているのに、息が白い。


(寒いんだ、あの人)


私は静かに寝台を下り、自分の肩に掛けていた毛織りの薄い上着を外した。起こさないように、そっと彼の膝のあたりに、かけようとした──


「……起きていますよ」


囁くような声で、先に言われた。


私は、上着を掛ける姿勢のまま固まった。


ギルベルト様は目をゆっくり開けて、それから自分の外套を脱ぎ、立ち上がりながら、迷いなく、私の肩に回した。


彼の上着だった。


外套の、内側の、彼の体温の残ったほうが、私の背中に触れた。


「私は大丈夫だ」


「でも、ギルベルト様の方が」


「君のほうが体が冷えている。手先を見たらわかる」


「……」


言われて手先を見たら、確かに爪先が白くなっていた。前世の社畜時代から、冷えには弱い。


反論を失った私に、彼はもう、こちらを見ていなかった。暖炉に薪を足しながら、横顔だけをこちらに向けて、ぽつりと言った。


「エリーゼ嬢」


「はい」


「昨夜、聞かせてもらった礼が言えていません」


「……何、でしょうか」


「あなたが、俺の話を、軽蔑しなかったこと」


それだけだった。


私は、彼の外套を、少し、かき合わせた。



帰りの馬上で、私の頭の中を、ひとつの言葉がずっと回っていた。


契約、のはずなのに。


契約、のはずなのに。


言い聞かせるほど、それは、違う意味にすり替わっていった。



辺境邸に帰着して、ルカーシュが駆け寄ってきた。


「奥様、旦那様、ご無事で何より──あと、ちょっとお耳に」


彼は声を潜めて、王都から届いた急ぎの報せを口早に伝えた。


「王都の神殿で、聖女殿の神託が、続けざまに外れています」


「神託が?」


「雨乞いが空振り、疫病の予言が空振り、先だっては豊穣の託宣が真逆に転んで、港の市が大混乱だと。神殿長閣下は表立って何も言いませんが、内々で何か、お調べになり始めたそうで」


私は馬から降りながら、聞いた。


ギルベルト様は静かに一度だけ頷いて、それから、ルカーシュに短く指示を出した。


「聖国の使者に、続報を」


「はっ」


雲間から日が差していた。雨は、もう止んでいた。


部屋に戻ると、卓の上の花瓶に、今日は白い芍薬が生けられていた。


四月の花。


何度目かわからなくなってきた「四月の花」を、私はまた、ぼんやりと見つめた。


見つめながら、私の耳の奥では、雷鳴のあいだに落ちてきた詩の一節が、まだ小さく鳴っていた。


夜明けを呼ぶ者よ、汝の名はエリーゼ──。

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