第4話 我が妻、という呼び方について
朝から辺境邸の門前に、早馬が続いた。
最初の早馬は魔物討伐の後処理に関する騎士団からの連絡で、ごく事務的な内容だったとヨハンが言っていた。次に来たのは、隣領の商会からの挨拶状。ここまでは普通だ。
普通ではなかったのは、そのあとに駆け込んできた早馬だった。
「王都、王宮──ディッケル外交部を経由した、私信と記された封筒にございます」
ヨハンが、それはそれは重たそうな表情で銀盆に載せてきた。
私はテーブルで朝の茶を飲みかけていた手を止めた。
封筒の蝋印を見なくても、差出人は分かった。あの書きかけの薔薇を象ったような几帳面な筆跡──勉強のために書き写し続けた、忘れようのない筆跡だ。
(嘘でしょ)
胸の奥から前世の社畜が顔を出して、頭の片隅で舌打ちしている。週明けの朝イチに、終わったはずの案件のメールが届いたときのあの感じ。
「奥様、御心のままにお取り扱いください」
ヨハンは静かにそう言ってくれた。ありがたい、とは思う。ただ取り扱い方に自信がなかった。
私は封を切らなかった。
封蝋の上で指先が一度止まって、そのまま引いた。
「……ヨハン。ギルベルト様は、今どちらに」
「執務室でございます」
「お繋ぎ頂いてよろしいでしょうか」
◇
執務室の扉を開けると、ギルベルト様は机に向かって地図を広げていた。昨夜までの遠征の後始末らしく、あちこちに駒のような印が打たれている。顔を上げた灰色の瞳が、私の手にある封筒を見た。
見た瞬間、彼の眉がほんのわずかだけ動いた。
「私信が、王都から届きまして」
私はテーブルに封筒を置いた。
「差出人は、元婚約者殿でございます。中身は、読んでおりません」
「──読むか」
「いえ」
即答した。自分でも驚くくらい迷いなく。
「処分を一任いたします。どうなさるかはお任せしますが、私宛の返書は必要ございません」
ギルベルト様は、しばらく封筒を見つめた。それから、私を見た。
「君が、そう決めたなら」
「はい」
「ありがたい」
なぜそこで礼を言うのか、私にはよくわからなかった。わからないから、私はただ頭を下げて、執務室を出た。扉を閉めた背中越しに、ぱらりと羽根ペンを取り上げる音が聞こえた。
彼は封を切らずに、しかし返事は書くらしかった。
◇
ヨハンが返書の控えを私の書斎に持ってきたのは、昼下がりのことだった。
「奥様におかれましてもご確認いただいた方が、後々、差し障りが少ないかと」
差し出された薄い書面を、私はなにげなく手に取った。
ラインハルト辺境伯家の公式書簡、という冷たい書式の真ん中に、ギルベルト様の筆跡で、ごく短い文が書かれていた。
『我が妻エリーゼ・フォン・ラインハルトに対するご私信、以後、一切お受け取りできかねる。王家の公式書簡を除き、私信は開封せず返送するものとする。ラインハルト辺境伯 ギルベルト・フォン・ラインハルト』
そのまま読み流せそうな文面だった。もしここにある呼び名を、差し引けるなら。
我が妻。
(……あの人、これ、一度も私に相談せずに書いたわね)
頬に熱が登るのが自分でもわかって、私は慌てて書面を卓に伏せた。ヨハンがちらりと目線をくださっただけで、何も言わなかったのがせめてもの救いだった。
「……ヨハン」
「はい」
「これ、公式書式ですけれど、『我が妻』という表現は、必須ですの?」
「いいえ、奥様」
ヨハンの目尻が、ほんの少しだけ緩んだ。
「通常は、『当家夫人』もしくは『ラインハルト伯爵夫人』と記すのが定型でございます」
「……そうですか」
私はもう一度、伏せた紙を指先でなぞった。あの呼び方の輪郭が、分厚く、脳裏に残る。
(……なに。なんなの、本当に)
午後の日差しが書斎の床を白く切っていた。机の上では芍薬が、今日は山吹色に咲いている。
◇
数日後のことだ。
ルカーシュが、わざわざ王都の酒場帰りの土産話を持って帰ってきた。辺境伯の使いで王都の国境通行管理を協議に行っていたらしい。
「奥様、王都の社交界、今たいへんなことになってますよ」
ずけずけと執務室に入ってきたルカーシュは、ギルベルト様の机の角に片手をついて、にかりと笑った。
「『辺境伯、王太子殿下に真正面から戦を布告す』の大合唱です」
ギルベルト様は顔も上げずに手元の書類を見ている。
「戦などしていない」
「書面だけで十分、王子派の何家か、尻尾を引っ込めてますよ」
「それはよろしい」
「あとね、奥様」
ルカーシュがこちらに顔を向けた。
「マルクス爺──いや、元経理のマルクス殿の件ですがね。帳簿を整理されたご様子を、王都の伯爵夫人がたが噂してました。『ラインハルト辺境伯夫人、帳簿ひとつで家中の不正を一掃したとか』『何者だ』『いえ、もとはシュタイナー伯爵令嬢です』──と、そんな調子で」
「……」
「王子殿下、お聞きになってまた顔を真っ赤にしてるらしいですよ」
ルカーシュがふふんと笑う。ギルベルト様のペン先が、書面の上でほんの一瞬だけ止まった。
(……別にそんなの狙ってない。ただ仕事しただけ)
その通りだ。でも狙っていなくても、相手が勝手に顔を赤くしてくれるなら、私にとっては願ったり叶ったりだ。前世風に言うなら、放っておいたら相手の方から自滅してくれる案件、というやつだ。
◇
午後遅く、私は布地の整理を手伝うつもりで衣装部屋に入った。
辺境に来てから、社交の機会はほぼない。とはいえ辺境伯夫人としての正装は最低限揃えておくべきで、アンナが私の代わりに先に整理を始めてくれていた。古い衣装、古い装身具、それから先代の辺境伯夫人が遺した品々。
「奥様、こちら、見てくださいませ」
アンナが、本棚ほどの大きさの衣装箪笥の一番下から、薄い冊子を取り出した。表紙には埃がかぶっている。
「日誌、でしょうか」
「左様かと。──ああ、ちがいます。こちら、舞踏会の参加証と招待状の束でございますわ」
アンナが指先で埃を払って、ぱらりとめくった。
装飾の豪奢な紙が束ねられている。どれもラインハルト辺境伯宛の招待状──年に幾度かの王都行事に顔を出す、貴族の公的記録だった。ギルベルト様は王都に頻繁に来られる方ではなかったはずだ。それでも幾年分かの控えが綴じてある。
アンナの手が、ある招待状のところで止まった。
「──奥様」
「どうしたの?」
「こちら、昨年の春、王宮舞踏会の招待状でございますわ」
「昨年の、春」
「ラインハルト辺境伯は、ご出席なされております。裏に、ご本人の筆跡で参加の記録が」
私はその招待状を手に取った。
薄く日焼けした招待状の裏に、ギルベルト様のあの几帳面な筆跡で、一言だけ書かれていた。
『参加。礼装。夜更けまで。』
昨年の春。
王宮舞踏会。
(……私、出ていた)
夜更けまで残った覚えのある夜。たしか、給仕が私のドレスにワインをこぼして、青ざめて震えていた、あの夜だ。
アンナの指先が、招待状の端をそっと撫でる。
「奥様。あの夜のこと、覚えていらっしゃいますか。給仕の少年を、奥様が庇われた」
「ええ。でもそれは、アンナ、あなたしか見ていなかったはず」
「奥様」
アンナは静かに微笑んだ。
「……見ていらした方が、少なくとももうおひとり、いらしたのかもしれませんわね」
私は招待状の裏書を、ぼんやり眺めたまま、何も答えられなかった。
衣装部屋の窓から風が入って、アンナの髪先を揺らす。甘くない、でも固くもない。ちょうどいい塩梅の、初夏に近い風だった。
◇
その晩、寝支度を終えた私は水差しを取りに廊下へ出た。
辺境伯邸の廊下は、夜は蝋燭が控えめにしか灯らない。足元の灯りを頼りに歩くと、角の向こうから、聞き慣れない──少し独特な訛りの声が聞こえてきた。
「──遅れております。国境沿いの街道で、事故が続いて」
「事故、の体裁でか」
「いえ、殿下の耳に入るには、事故の体裁が保たれております」
「……誰が手を回した」
「それを、ラインハルト閣下のお力添えを得て、裏を取りたく」
ギルベルト様の声だった。相手は、私の知らない男性。服装の裾だけが、角の向こうから見えた。深い青の、修道服に似た衣装。
(聖国の、使者?)
心の中で呟いて、私はゆっくりと一歩退いた。立ち聞きをするつもりはなかった。ただ、そこにいたことを気取られるのも、よくない気がした。
踵を返した瞬間──
「エリーゼ嬢」
廊下の先から、低い声に呼び止められた。
振り向くと、ギルベルト様だった。半音低い、あの声で。
「驚かせて申し訳ない。夜半まで人の出入りがあります。お休みになられるなら、東翼の廊下は使わない方がいい」
「……はい」
「聖国から、ちいさな用向きで使者が来ております。明朝には発ちます」
「わかりました」
それ以上、彼は何も言わなかった。私も聞かなかった。ただ、別れ際に彼の手が、一度だけ迷ってから、結局何も触れずに離れていったのがわかった。
部屋に戻ると、卓の上の芍薬が、今日は山吹色だった。四月の花だ。間違いなく。
窓を開けたら、ひんやりした夜気の下に、遠くで馬の嘶きが聞こえた。東翼のほうから、蹄の音が夜を切って遠ざかっていく。
(あの方は、私が知らないところで、私の知らないことをたくさん抱えていらっしゃる)
それは少しだけ、怖い事実のように思えた。けれど、同じくらい──たぶんその人がそういう人だから、今、私はここに立って、この花を見ていられるのだとも、思えた。
招待状の、あの一行の筆跡が、頭の隅からまだ離れなかった。
『参加。礼装。夜更けまで。』
昨年の春、夜更けまで、あの方は王宮にいた。
私の、どこかに。




