表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
契約結婚ですので、定時退勤させていただきます  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/10

第4話 我が妻、という呼び方について

朝から辺境邸の門前に、早馬が続いた。


最初の早馬は魔物討伐の後処理に関する騎士団からの連絡で、ごく事務的な内容だったとヨハンが言っていた。次に来たのは、隣領の商会からの挨拶状。ここまでは普通だ。


普通ではなかったのは、そのあとに駆け込んできた早馬だった。


「王都、王宮──ディッケル外交部を経由した、私信と記された封筒にございます」


ヨハンが、それはそれは重たそうな表情で銀盆に載せてきた。


私はテーブルで朝の茶を飲みかけていた手を止めた。


封筒の蝋印を見なくても、差出人は分かった。あの書きかけの薔薇を象ったような几帳面な筆跡──勉強のために書き写し続けた、忘れようのない筆跡だ。


(嘘でしょ)


胸の奥から前世の社畜が顔を出して、頭の片隅で舌打ちしている。週明けの朝イチに、終わったはずの案件のメールが届いたときのあの感じ。


「奥様、御心のままにお取り扱いください」


ヨハンは静かにそう言ってくれた。ありがたい、とは思う。ただ取り扱い方に自信がなかった。


私は封を切らなかった。


封蝋の上で指先が一度止まって、そのまま引いた。


「……ヨハン。ギルベルト様は、今どちらに」


「執務室でございます」


「お繋ぎ頂いてよろしいでしょうか」



執務室の扉を開けると、ギルベルト様は机に向かって地図を広げていた。昨夜までの遠征の後始末らしく、あちこちに駒のような印が打たれている。顔を上げた灰色の瞳が、私の手にある封筒を見た。


見た瞬間、彼の眉がほんのわずかだけ動いた。


「私信が、王都から届きまして」


私はテーブルに封筒を置いた。


「差出人は、元婚約者殿でございます。中身は、読んでおりません」


「──読むか」


「いえ」


即答した。自分でも驚くくらい迷いなく。


「処分を一任いたします。どうなさるかはお任せしますが、私宛の返書は必要ございません」


ギルベルト様は、しばらく封筒を見つめた。それから、私を見た。


「君が、そう決めたなら」


「はい」


「ありがたい」


なぜそこで礼を言うのか、私にはよくわからなかった。わからないから、私はただ頭を下げて、執務室を出た。扉を閉めた背中越しに、ぱらりと羽根ペンを取り上げる音が聞こえた。


彼は封を切らずに、しかし返事は書くらしかった。



ヨハンが返書の控えを私の書斎に持ってきたのは、昼下がりのことだった。


「奥様におかれましてもご確認いただいた方が、後々、差し障りが少ないかと」


差し出された薄い書面を、私はなにげなく手に取った。


ラインハルト辺境伯家の公式書簡、という冷たい書式の真ん中に、ギルベルト様の筆跡で、ごく短い文が書かれていた。


『我が妻エリーゼ・フォン・ラインハルトに対するご私信、以後、一切お受け取りできかねる。王家の公式書簡を除き、私信は開封せず返送するものとする。ラインハルト辺境伯 ギルベルト・フォン・ラインハルト』


そのまま読み流せそうな文面だった。もしここにある呼び名を、差し引けるなら。


我が妻。


(……あの人、これ、一度も私に相談せずに書いたわね)


頬に熱が登るのが自分でもわかって、私は慌てて書面を卓に伏せた。ヨハンがちらりと目線をくださっただけで、何も言わなかったのがせめてもの救いだった。


「……ヨハン」


「はい」


「これ、公式書式ですけれど、『我が妻』という表現は、必須ですの?」


「いいえ、奥様」


ヨハンの目尻が、ほんの少しだけ緩んだ。


「通常は、『当家夫人』もしくは『ラインハルト伯爵夫人』と記すのが定型でございます」


「……そうですか」


私はもう一度、伏せた紙を指先でなぞった。あの呼び方の輪郭が、分厚く、脳裏に残る。


(……なに。なんなの、本当に)


午後の日差しが書斎の床を白く切っていた。机の上では芍薬が、今日は山吹色に咲いている。



数日後のことだ。


ルカーシュが、わざわざ王都の酒場帰りの土産話を持って帰ってきた。辺境伯の使いで王都の国境通行管理を協議に行っていたらしい。


「奥様、王都の社交界、今たいへんなことになってますよ」


ずけずけと執務室に入ってきたルカーシュは、ギルベルト様の机の角に片手をついて、にかりと笑った。


「『辺境伯、王太子殿下に真正面から戦を布告す』の大合唱です」


ギルベルト様は顔も上げずに手元の書類を見ている。


「戦などしていない」


「書面だけで十分、王子派の何家か、尻尾を引っ込めてますよ」


「それはよろしい」


「あとね、奥様」


ルカーシュがこちらに顔を向けた。


「マルクス爺──いや、元経理のマルクス殿の件ですがね。帳簿を整理されたご様子を、王都の伯爵夫人がたが噂してました。『ラインハルト辺境伯夫人、帳簿ひとつで家中の不正を一掃したとか』『何者だ』『いえ、もとはシュタイナー伯爵令嬢です』──と、そんな調子で」


「……」


「王子殿下、お聞きになってまた顔を真っ赤にしてるらしいですよ」


ルカーシュがふふんと笑う。ギルベルト様のペン先が、書面の上でほんの一瞬だけ止まった。


(……別にそんなの狙ってない。ただ仕事しただけ)


その通りだ。でも狙っていなくても、相手が勝手に顔を赤くしてくれるなら、私にとっては願ったり叶ったりだ。前世風に言うなら、放っておいたら相手の方から自滅してくれる案件、というやつだ。



午後遅く、私は布地の整理を手伝うつもりで衣装部屋に入った。


辺境に来てから、社交の機会はほぼない。とはいえ辺境伯夫人としての正装は最低限揃えておくべきで、アンナが私の代わりに先に整理を始めてくれていた。古い衣装、古い装身具、それから先代の辺境伯夫人が遺した品々。


「奥様、こちら、見てくださいませ」


アンナが、本棚ほどの大きさの衣装箪笥の一番下から、薄い冊子を取り出した。表紙には埃がかぶっている。


「日誌、でしょうか」


「左様かと。──ああ、ちがいます。こちら、舞踏会の参加証と招待状の束でございますわ」


アンナが指先で埃を払って、ぱらりとめくった。


装飾の豪奢な紙が束ねられている。どれもラインハルト辺境伯宛の招待状──年に幾度かの王都行事に顔を出す、貴族の公的記録だった。ギルベルト様は王都に頻繁に来られる方ではなかったはずだ。それでも幾年分かの控えが綴じてある。


アンナの手が、ある招待状のところで止まった。


「──奥様」


「どうしたの?」


「こちら、昨年の春、王宮舞踏会の招待状でございますわ」


「昨年の、春」


「ラインハルト辺境伯は、ご出席なされております。裏に、ご本人の筆跡で参加の記録が」


私はその招待状を手に取った。


薄く日焼けした招待状の裏に、ギルベルト様のあの几帳面な筆跡で、一言だけ書かれていた。


『参加。礼装。夜更けまで。』


昨年の春。


王宮舞踏会。


(……私、出ていた)


夜更けまで残った覚えのある夜。たしか、給仕が私のドレスにワインをこぼして、青ざめて震えていた、あの夜だ。


アンナの指先が、招待状の端をそっと撫でる。


「奥様。あの夜のこと、覚えていらっしゃいますか。給仕の少年を、奥様が庇われた」


「ええ。でもそれは、アンナ、あなたしか見ていなかったはず」


「奥様」


アンナは静かに微笑んだ。


「……見ていらした方が、少なくとももうおひとり、いらしたのかもしれませんわね」


私は招待状の裏書を、ぼんやり眺めたまま、何も答えられなかった。


衣装部屋の窓から風が入って、アンナの髪先を揺らす。甘くない、でも固くもない。ちょうどいい塩梅の、初夏に近い風だった。



その晩、寝支度を終えた私は水差しを取りに廊下へ出た。


辺境伯邸の廊下は、夜は蝋燭が控えめにしか灯らない。足元の灯りを頼りに歩くと、角の向こうから、聞き慣れない──少し独特な訛りの声が聞こえてきた。


「──遅れております。国境沿いの街道で、事故が続いて」


「事故、の体裁でか」


「いえ、殿下の耳に入るには、事故の体裁が保たれております」


「……誰が手を回した」


「それを、ラインハルト閣下のお力添えを得て、裏を取りたく」


ギルベルト様の声だった。相手は、私の知らない男性。服装の裾だけが、角の向こうから見えた。深い青の、修道服に似た衣装。


(聖国の、使者?)


心の中で呟いて、私はゆっくりと一歩退いた。立ち聞きをするつもりはなかった。ただ、そこにいたことを気取られるのも、よくない気がした。


踵を返した瞬間──


「エリーゼ嬢」


廊下の先から、低い声に呼び止められた。


振り向くと、ギルベルト様だった。半音低い、あの声で。


「驚かせて申し訳ない。夜半まで人の出入りがあります。お休みになられるなら、東翼の廊下は使わない方がいい」


「……はい」


「聖国から、ちいさな用向きで使者が来ております。明朝には発ちます」


「わかりました」


それ以上、彼は何も言わなかった。私も聞かなかった。ただ、別れ際に彼の手が、一度だけ迷ってから、結局何も触れずに離れていったのがわかった。


部屋に戻ると、卓の上の芍薬が、今日は山吹色だった。四月の花だ。間違いなく。


窓を開けたら、ひんやりした夜気の下に、遠くで馬の嘶きが聞こえた。東翼のほうから、蹄の音が夜を切って遠ざかっていく。


(あの方は、私が知らないところで、私の知らないことをたくさん抱えていらっしゃる)


それは少しだけ、怖い事実のように思えた。けれど、同じくらい──たぶんその人がそういう人だから、今、私はここに立って、この花を見ていられるのだとも、思えた。


招待状の、あの一行の筆跡が、頭の隅からまだ離れなかった。


『参加。礼装。夜更けまで。』


昨年の春、夜更けまで、あの方は王宮にいた。


私の、どこかに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ