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契約結婚ですので、定時退勤させていただきます  作者: 九葉(くずは)


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第3話 魔物討伐の補給表が汚すぎて目眩がした

羊皮紙の束がどさりと机に積まれた瞬間、前世の業務委託先の惨状が蘇った。


納品書と受領書が同じフォルダに混ざっていて、日付の昇順でも降順でもなく、ただ突っ込まれているだけのあの感触。あれを見たときと同じ脱力感が、二日酔いの翌朝みたいに頭の奥からじわじわ上がってくる。


「……ヨハン、これ、補給書類ですか」


「さようでございます」


「え、いや、あの、えっと」


日本語にすらなっていない。私の語彙はどこへ消えたのか。


書斎の中で、執事のヨハンが静かに頭を下げる。窓から午後の光が斜めに入って、埃がきらきらと踊っていた。のんびり踊っている場合ではない。


「ラインハルト卿──ギルベルト様が、奥様にご相談いたしたいとのことで」


「相談、というと」


「来月の魔物討伐遠征の補給計画を、ご覧いただけぬかと」


来月。


来月?


思っていたより、ずっと急だ。



ギルベルト様の執務室は、辺境伯邸の中でいちばん質素な部屋だった。壁には絵画もなく、剣と、弓と、書き込みだらけの地図が貼られているだけ。本人は椅子に座らず、地図の前に立っていた。


「お手数をかけて申し訳ない」


私の顔を見るなり、頭を下げられた。辺境伯に頭を下げられた。戸惑う。


「あの、頭を上げてくださいませ」


「……失礼」


ばつが悪そうに、灰色の瞳が私から地図へ逃げる。


「補給については、代々、経理係に任せきりだった。マルクス殿の退任で、誰も詳細を把握していない」


「つまり、今から体制を立て直すと」


「そうなる」


「遠征までの日数は」


ギルベルト様が地図の端を指でなぞる。


「短い」


「……具体的には」


「短い」


(二回言った)


どうやらこの人、嫌なことは短く繰り返して流す癖がある。前世の取引先にもいた。たしか、その部長は納期破綻の常習犯だった。


「ギル、お前それ返事になってないぞ」


部屋の奥から、別の声が割り込んできた。窓辺の椅子にだらしなく座って、片足を肘置きに乗せている男がいる。明るい赤毛、日焼けした頬、白い歯。昨日の訓練場で木刀を喰らっていた人だ。


「奥様、お初にお目にかかります。騎士団長のルカーシュと申します。以後、お見知りおきを」


立ち上がって、片手を胸に当て、にかりと笑う。辺境伯邸の礼法としてはかなり崩れている気がするが、ギルベルト様は注意しない。気心の知れた間柄なのだろう。


「ルカーシュ様。こちらこそ」


「様、は結構ですよ。この屋敷でそう呼ばれ慣れてませんので」


「──ルカーシュ」


ギルベルト様の声が、少しだけ低くなった。ルカーシュはひょいと首をすくめて、にやけたままこちらに目を戻す。


「奥様。ギルは『短い』しか言えない不器用な男なんで、代わりに申し上げます。遠征出発は次の新月までに、です」


次の新月。


指折り数えるまでもなく、あまり時間がない。


「わかりました。ひとまず書類を拝見します」


私は椅子に座り直し、補給書類の束に手をかけた。深呼吸。仕事の前には深呼吸。前世で覚えた数少ない健康習慣だ。


開いて。


(やっぱりこれか)



在庫と発注が同じ綴りに混ざっているのは、ラインハルト邸の書類の癖らしい。同じ癖を繰り返さないためには、癖を矯正するのではなく、書式そのものを替えればいい。


私は新しい用紙を広げて、縦に線を引いた。入ってくるもの。出ていくもの。消費されるもの。残っているもの。枠を分けるだけで、数字はほとんど勝手に整理されていく。


配送ルートも、地図を見ながら書き直した。これまでの補給は、ひとつの拠点から遠征地へ直接運んでいた。物資が途中で雨に濡れるか、運び手が疲弊して速度が落ちる。途中に中継の倉をひとつだけ挟めば、往復の馬の数が減り、荷役の負担も軽くなる。人を疲れさせないことが、結局、いちばん早い。


ギルベルト様は私の手元をじっと見ていた。ルカーシュは、いつの間にか窓辺から近寄ってきて、私の背後から覗き込んでいる。


「……ギル」


「なんだ」


「この奥様、うちに欲しいな」


「ルカーシュ」


「いや冗談ですけど。冗談ですけど、本気でほしい。経理係じゃなくて、補給参謀で」


ルカーシュの軽口の途中で、かたん、と音がした。ギルベルト様が、何も言わず、私とルカーシュのあいだに腕を差し入れたのだ。書類を守るような、そうでもないような、微妙な距離の取り方で。


ルカーシュの顔から笑みが消えた。ひゅう、と小さく口笛を吹いた。


「はいはい、悪うございました」


何が悪いのか、私にはよくわからなかった。


書き上げた試算をギルベルト様に差し出すと、彼は無言で紙を受け取り、端から端まで目を通した。地図に視線が戻る。視線が、もう一度紙に戻る。紙に、戻る。


「……これは」


喉が詰まったような声だった。


「遠征の日程が大きく縮みます。物資の損耗も、減るはずです」


「……エリーゼ嬢」


「はい」


「あなたは、辺境伯夫人というより」


ぴくりと、灰色の瞳がこちらを見上げる。


「……ありがとう」


その一言だけで、他に何も言えないのが伝わってきた。


ルカーシュが、後ろで「おい」と呆れた声を出す。


「もうちょっと気の利いたこと言えよお前」


「言えたら言っている」


(……言えないタイプなの、知ってるんだろうなルカーシュは)


ぽつりと心の中で呟いて、私は書類を丁寧にまとめ直した。



遠征の出発から帰還までのあいだ、私は邸の差配と、王都からの手紙の差配で過ごした。


王都からの手紙はほとんどヨハンが弾いてくれていたが、それでも時々、差出人を隠したものが紛れ込む。シュタイナー家の執事筆の便りには、「救貧院の運営費の行方が分からず、継母様が大変ご立腹で」と書かれていた。


(私の管理していた帳簿、誰にも引き継がずに家を出ちゃったからね)


それはそうだろう。継母様、頑張ってください。私はもう、あの家の人間ではない。


こともなげに封を閉じて、私は手紙を暖炉に投げた。炎があがって、手紙はすぐに黒い紙切れに変わる。


胸はなにも痛まなかった。前世の辞表を出せなかった日々に比べれば、なにもかもが、嘘みたいに軽い。



遠征隊が戻ったのは、最初に想定していた日程よりずっと早かった。


私は邸の玄関ホールで出迎えた。鎧がぶつかり合う金属音、馬蹄の音、兵士たちの声、それから、焦げた魔物の匂い。夜気に混ざって、やけにくっきりと届く。


ギルベルト様が馬から降りる。軍服の肩が、ひどく煤けていた。


私はひとまず、ぱっと思いつく無難な台詞を口にしようとした。


「お帰りなさ──」


最後まで言えなかった。


ギルベルト様が、私の前までまっすぐ歩いてきて、無言で、私の両手を取ったからだ。


大きな手だった。手袋を外し忘れていて、革の冷たさが指先に触れる。その手袋越しに、彼の指はゆっくりと、私の手首を、手の甲を、指の関節を、ひとつずつ確かめていった。


怪我がないか、確かめている。


「……あの」


「すまない。すぐ離す」


言いながら、彼は離さない。


「怪我はないか」


「え」


「倉庫の荷の移し替えで、指を挟んだりしていないか。重い箱を、持ち上げたりしていないか」


灰色の瞳が、本気で心配している色をしていた。


私は言葉を失った。


怪我をされて帰ってきたのは、どう見てもこの人のほうだ。煤けた肩、土埃にまみれた髪、頬にかすかに残る赤い擦過傷。それを棚に上げて、私の指の関節を確かめている。


「……お怪我をされているのは、そちら様だと思いますが」


「俺は慣れている」


「わたくしも、箱を持ち上げる程度では怪我などしませんけれど」


「……そうか」


ほっとしたように、彼の肩の力が抜けた。そして、ようやく私の手を離す。


その離し方が、もう、妙に名残惜しそうで。


(なに。なんなのこの人)


私の心臓は、いつの間にか、自分でも制御できない速さで鳴り始めていた。



その夜、私はひとりで図書室に入った。


寝る前に、本を読む。それは前世からの習慣で、こちらに来てからも抜けなかった。辺境伯邸の図書室は、書物の並びから持ち主の性格がよくわかる部屋だった。軍事論、地政、法典、それから植物学、詩、古典──広く、偏りなく、しかし、どの棚も使い込まれている。


私は詩集の棚の前で足を止めた。


背表紙が、揃っていた。


詩集というのは本来、版も年代もばらばらで、背の高さも色も揃いにくい本だ。なのに、ここには、同じ判型のものが、整然と並んでいた。装丁はそれぞれ違う。ただ背の高さだけが、ぴたりと同じ。


なんだろう、と抜いた。表紙を開いて、ことば、を、失った。


『エリーゼ──夜明けを呼ぶ者』


古い字体の、古い詩集だった。題名は、私の名前と、それに添えられた古典的な意味。


隣の詩集を抜いた。別の詩人の、別の編纂。題名は違う。けれど巻頭の詩の題は『エリーゼ』。


その隣も。『エリーゼの歌』。


さらに隣も。『エリーゼのために』。


(……誰か、集めてる)


指先が震えて、詩集を棚に戻す音が、静かな図書室に小さく響いた。


扉の外で、足音が止まった気配がした。誰かが、私が中にいることに気づいて、入るのをやめたのだ。


足音は、そのまま遠ざかった。


私は棚の前に立ったまま、しばらく動けなかった。窓の外では月が高く、辺境の夜は、思っていたよりずっと静かだった。

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